第138話 逃げる愛なら鎖ごと
後ろから抱きしめられたまま、静かに時が過ぎる。
アヤセの腕は痛いくらいに唯舞を抱きしめて、口にはしないけど、唯舞の選択に対する無言の抗議を感じた。
「唯舞」
「……はい」
力は緩まないから身動きはとれない。
唯舞はそっとアヤセに触れ、その腕に顔を寄せた。
「死ぬのだけは、許さない」
「…………はい」
絶対的な拒否。その言葉にぎゅっと心が痛み、唯舞は小さく返事を返す。
一度唯舞が選んだ選択は、最悪、自分の命を懸けることもいとわないものだ。
でもそれをアヤセは否定する。
世界が滅ぼうとも、唯舞を犠牲にするつもりはない。
その両手両足を鎖につないでも、絶対に手放す気はない。
それはかつて聖女を喪ってきた、全ての男の願いでもあるはずだ。
ふいにアヤセの力が緩み、唯舞がゆっくりとアヤセを振り返れば、愛おしげにアヤセの手が唯舞の頬に触れる。
視線が交わり、少し切なそうにアヤセの眉が寄った。
「俺を、置いていくな」
「ッ!」
その言葉に、唯舞の表情がくしゃりと崩れる。
決壊したように零れる涙に、引き攣るような嗚咽が止まらなくなった。
唯舞の選択は、この世界を救ってもアヤセだけは救えない。
聖女の死も。残された未来も。
万を救っても一だけは救えないなんて、なんて皮肉だろう。
それでも唯舞は、理力となった深紅を置いて自分一人が幸せになる未来を選べなくて。
アヤセを苦しませると分かっても、甘えるように彼を置いていく選択を一度は選びかけた。
「ごめん……なさい……」
好きなのに。こんなにも好きなのに。
こんなにも辛くて、こんなにも苦しい選択が唯舞を蝕む。
ただ幸せになることさえ、運命は許してくれない。
今まで星と消えた、全ての聖女が選べなかった選択は、薄氷より薄く、あまりにも脆い。
「大丈夫だ……分かってる。お前が俺の手を離しても、俺が離さなければいいだけの話だからな。――ついでに、何も言わずに元の世界へ帰るのも許さないからな。勝手に願うなよ」
「ふ、ふふ……はい」
かなりしっかりめに釘を刺されると、どうにもおかしかった。
頭ごと抱き寄せられれば血の臭いが漂い、服に残った血痕はそのままなのだと気付いた唯舞は、そっとアヤセにつけられた黒い首輪をなぞる。
「理力、封じ、なんですよね……」
「あぁ。だが、一番最低限のものだから、高出力の理力が展開できないだけで問題はない」
「?」
「お前に理力をやることは出来ただろう?」
ふに、とアヤセの指の腹がなぞるように唯舞の唇に触れれば一気に顔が染まるのが分かった。
アヤセの怪我を癒したのちに、彼から直接理力の譲渡を受けたのを思い出したからだ。
触れた唇から流れるアヤセの理力。
それが全身を巡る感覚を思い出して、ぞくりと背中が震える。
止まらないと思った涙も、思わず引っ込んだ。
「深紅も言っていたが、遠慮なく持っていけ。必要なら今やろうか?」
「い……っいいです! 今は大丈夫ですっ!」
「そうか。それは残念だ」
楽しげに喉を鳴らすアヤセはいつも通りの意地悪な彼だ。
ふいに日常が戻ってきたようなそんな感覚に、どこかほっとして唯舞の体からも力が抜ける。
「だがさすがにいつまでもこの格好じゃな」
「あ、えと……とりあえずシャワー浴びてきます、か……? タオルとか、えと……そう言えば男性ものの服もあった気が……」
涙で溶けた頭が上手く動かない。
なんだか、自分がとんでもないことを口走っているような気がして。
動揺しつつもアヤセを見上げれば、口元をほんの少し上げ、笑みを浮かべるアヤセがいた。
「一緒に入るか?」
「!?」
反射的にアヤセの胸を両手で押し返して距離を取れば、思いを告げてまだ一時間と経たないのに、すっかり恋人が板についたアヤセは実に涼しそうな顔をしていた。
「い……いっしょ?! は、入らないです! 入りませんよ!?」
「……っ、冗談だ」
笑いを堪えたアヤセに頭を撫でられ、羞恥にわななく唯舞が悔しげにアヤセを睨みつければ、そんな唯舞の頭をもう一度撫でてからアヤセはバスルームのほうに消えていってしまった。
ソファに一人取り残された唯舞は、消えたその後ろ姿にわなわなと震えながらも一呼吸置いて立ち上がる。
――とりあえず今は、顔を洗いたい。
(洗面台がバスルームとは別にあってよかった、けど……)
アメニティが綺麗に並べられた洗面台で顔を洗えば、涙でぐしゃぐしゃになった顔も気分も、少しだけ落ち着く。
だが、隣のバスルームから聞こえるシャワーの音に、そこにアヤセがいるのだと思ったらなんだか急に意識してしまって。
用意されていた自分の着替えだけ手に取ると、唯舞は逃げるように部屋に戻っていった。




