第130話 深愛(2)
抱きしめた血の臭いにむせそうになるのに、それでも唯舞はその手を離せなかった。
「だいじなこと……何も言ってないです……」
「大事な事? ――……あぁ、お前を好きだという事か?」
「っ……」
さらっと言われると何だか物凄く気恥ずかしかった。
ぐっとアヤセの肩口に顔を埋めるようにすれば血の臭いの底にアヤセの香りがして、困惑と羞恥と安堵感で感情がぐちゃぐちゃになってしまう。
「そうか……そう言われれば、そうだな。…………唯舞」
「……は、い」
体を離される感覚に名前を呼ばれた唯舞が戸惑いがちに返事をすれば、少しだけ上向くよう触れられて、唯舞の視線がアヤセの瞳と交わる。
いつもと同じ薄氷色の瞳の奥に、なんだか体温とは別の熱を感じた。
「……お前が好きだ」
「っ!」
あぁもう駄目だった。ぼろぼろ溢れるのが涙なのか気持ちなのか分からないくらいに乱されてしまう。
ぐっと全身が強張って引きつりがちな呼吸を宥めるように、アヤセが唯舞の額に口づけた。
「初めて会った時は、ただの女だと思っていたのに……ここまでお前に溺れるなんて思いもしなかった。感情に狂わされるのは実に厄介だと勉強になったが、お前以外では二度とごめんだな。それなのになんでお前は他の男にまで簡単に気を許すんだ」
「ゆ、許してませんよ?!」
告白だったはずなのに何故か急にお説教モードになりそうで唯舞は慌てて否定する。
簡単に気を許すなとは一体誰のことを言っているんだろう。
(えっとカイリさんのこと? それとも大佐かな……あ、でもリアムさんも大尉もランドルフさんも似たような感じなんだけど……それとも経理課の? それとも整備課? ……もしかして、ロウさん?)
「全員だ」
「えぇ?! 全員ですか……?!」
唯舞の思考を読み取るように真顔に若干の不機嫌を乗せてアヤセは言い放った。
日本の対人スキルはこの世界では、いや、アヤセにとっては非常に不本意なものらしい。
呆れ顔になったアヤセが唯舞を見て小さくため息をつく。
「お前があちこちで愛嬌を振りまくから、各所で余計な虫が湧く」
「…………振り、まいているつもりはないんですけど」
「だろうな。無意識だからタチが悪い」
「それを中佐が言いますか……?」
触れたり抱きしめてきたり。
付き合ってもいない男女がするスキンシップの域をゆうに超えていたと思うのに。
そう唯舞が言外に含めば、アヤセがいつもの少し意地悪な表情を浮かべた。
「それで? 返事は?」
「は、い?」
「俺の告白に対しての」
「…………いきなりキスしてきて、今更それを聞くんですか?」
「大事なことを聞いてないと思ってな。お前もさっきそう言っただろう?」
「言い、ましたけど……」
完全に是しか聞く気がないご様子だ。何故こんなにも自信に満ち溢れているのか分からないが、否定できないのが物凄く悔しかった。
少し俯き加減に唯舞がぽつりと呟く。
「好きでもない人に、抱きしめられたりキスされるのを許したりしませんよ……」
「……つまり?」
「~~! もうっだから私も中佐のことが好きってこ……!」
やけくそに近い最後の声は届かなかった。
後頭部を引き寄せる形でアヤセの唇に封じられ、咄嗟に怪我に触れないように距離を取ろうとした唯舞を拒むように抱き寄せられる。
「中、佐……っ、ケガ……んっ!」
怪我を気遣って訴えれば呼吸ごと覆いかぶさるように口づけられて、唯舞はぎゅっとボロ切れと化したアヤセの軍服を掴んだ。
今までの想いが全て激情になったかのような余裕のない口づけに呼吸さえ奪われて眩暈がする。
「…………それで? 俺はいつまで中佐でいればいいんだ?」
「……っ、ふ…………へ?」
唇が数センチ離れた第一声がそれだった。
荒らされた呼吸を必死で整える唯舞には何のことだか分からず、間の抜けた声が洩れる。
肩で息をする唯舞を宥めるようにアヤセの骨張った手が首筋を撫でればふるりと唯舞の体が揺れた。
「名前は、呼んでくれないのか?」
「…………ぁ……」
アヤセの言葉の意味をようやく理解した唯舞がじわじわと顔を染める。中佐と呼ぶことに慣れ過ぎて、名前を呼ぶのは何だか物凄く勇気がいった。
「唯舞」
「……っ」
(耳に顔を寄せるのはずるいと思う……!)
ぐっと色んな感情を堪えて、羞恥に頬を染めたまま唯舞は顔を隠すようにアヤセの肩口に顔を寄せた。
「…………っ……アヤ、セ……さん」
「別に呼び捨てでもいいけどな」
「無理です……っ恥ずかしくて無理……!」
喉で笑いを堪えながらもアヤセは満足げな様子で唯舞を抱きしめる。
ずっとずっと恋焦がれていた存在が、今、確かな形で腕の中に堕ちてきたのだ。
(やっと、手に入った)
世界を破滅させるとしても、何度選択を迫られることになっても。
アヤセは迷うことなく唯舞の手を取るだろう。
この世界が唯舞を喚んだのだ。ならば、この世界で唯舞を喪うことを、許せるはずもない。




