第13話 今はまだ、名もなき感情
「すみません、イブさん! そっちの書類、大佐が落としちゃって……全38ページで20部あるんで続き番号順に並べ直してもらってもいいですか?!」
「あ、はい」
「あと中佐。これ、やっぱり申請通らないみたいで……」
「それは整備部で追加可能だろう」
「僕も、そうは言ったんですけど……」
「……エドヴァルトはどこをほっつき歩いてる」
「あー……参謀本部に行くって言ってそれっきり、ですねー」
「軍議はとうに終わっているだろうが。……リアム、これを総務に届けるついでにあの馬鹿を回収してこい。ついでに奴も連れてその承認をもぎ取らせろ、無理ならねじ込め」
「はいすぐに! イブさん、そっちが終わったら今出てる資料を戻しといて下さい!」
仕事初日のアルプトラオムの執務室は、戦場かと思うほどに忙しなかった。
特に管理官であるリアムは、朝からずっと書類を片手どころか両手に走り回っており、今もアヤセから書類を受け取ると急ぎ早に出て行ってしまう。
(えぇっと、とりあえずこれをまとめて……資料片付けて……)
アヤセと唯舞の二人だけになった執務室は、互いの作業をする音しか聞こえない。
書類をまとめながら、唯舞は駆け回るリアムの姿を思い出す。
本来黒服は実動部隊らしいが、昨日リアムから"大変で面倒"と聞いていた通り、想像以上に事務も雑務もあるようだ。
しかも業務内容が大佐・中佐クラスの補助に加えて他部署との連携、そしてすぐ脱走する大佐の捜索だとは思わなかった。
唯舞の脳内で、至極楽しそうにウインクして逃げ回るエドヴァルトの姿が浮かんで内心苦笑する。
「――おい」
書類をまとめ、資料を片付けたところで唐突に声を掛けられた。
唯舞が振り返れば、相変わらずどの角度から見ても綺麗としかいいようのないアヤセの姿がある。
「はい、なんでしょうか中佐」
「ついてこい」
最低限の言葉だけでアヤセは唯舞に背を向けた。返事をした唯舞は、目的地を言わない、少し足早なアヤセの背中を追いかける。
(……どこに行くんだろう)
ふと手首のバングルに触れれば、時刻は13時15分。お昼には少し遅い時間帯だ。
しかし、ほんの数分歩いたところで到着したそこに唯舞は驚いた。
迷いなくアヤセが入ったのは、駅の構内にあるような小型売店……つまるところコンビニエンスストアだ。
(この世界にもコンビニ……というか、中佐もコンビニを使うんだ)
なんとなくアヤセには不釣り合いなような気がしたが、追いかけるように唯舞もコンビニに足を踏み入れる。
広い店内はごく一般的な品ぞろえ――唯舞が求めるようなおにぎりといった米商品はなかったが――に加えて、軍用訓練用品が並んでいて、改めてここが軍内部なのだと実感した。
(食堂は遠いって聞いてたから、教えてくれたのかな)
今、唯舞の指導係でもあるリアムはそばにいないから代わりにアヤセが連れてきてくれたのだろう。
なんとも言葉足らずな人だなぁと唯舞はコーヒーを購入するアヤセの姿に苦笑しつつ、野菜サンドとカップ式のコンソメスープを手に取って会計を済ませた。
ちなみに、使ったお金は給料から天引きされるらしい。
「……えっと、中佐。買ったのってまさかそれだけですか?」
店から出た唯舞は、アヤセの手元にさっき購入していたホットコーヒーしかない事に気付いて思わず声を掛ける。
「そうだ」
「お腹空きません?」
「今から上層部との会食が入っている。だから問題ない」
面倒なことを思い出したとばかりに踵を返すアヤセに唯舞は納得した。
なるほど、きっと上役は色々と大変なんだろう。
「そうなんですね。えっと、ここを教えて下さってありがとうございます」
唯舞が彼の背中に小さく礼を言えば、珍しくアヤセの足が止まった。
軽く振り返った彼の双眸には薄紫色の容姿をした異界人の姿がある。
異世界から強制召喚され、見ず知らずの土地に投げ出されたにも関わらず順応しようとしている唯舞には、ほんの少し、興味が湧いた。
(変な女だ)
「あー! アヤちゃんが唯舞ちゃんとデートしてるー!」
ぐっとアヤセの眉が寄って眼光が刺すように光り、唯舞が振り返ればそこには笑顔のエドヴァルトと疲れ果てて書類を抱えるリアムの姿があった。
「……貴様、許可はちゃんと取ってきたんだろうな」
「ふっふーん。アヤちゃん、俺を誰だと思ってるの? もっちろん平和的に許可取ったに決まってるでしょ!」
「そうですね。机に足のっけて脅迫すればそりゃ誰でも許可しますよね。どこぞのガラの悪いチンピラかと思いましたよ。はぁ……これでまたアルプトラオムの評判が……」
「何言ってんのリアム! お陰で交渉は10秒で終わったじゃん!」
「大佐を探すのに30分かかってますからね?!」
いきなり始まった軽妙なやりとりに一瞬驚きつつも、唯舞はわずかに口元を綻ばせる。
巻き込まれた物騒な世界なのに、彼らとなら意外とうまくやっていけるのかも、なんて……
確信もないのに、何故かそんな気持ちになった。