第120話 深夜の来訪(3)
ぶわっと顔に熱が集まった。アヤセが男だなんて、そんなのとっくの昔に気付いている。
平静さを保つように唯舞はおずおずとアヤセを見上げた。
「知っ、て……ます。でもこの距離は、この世界の普通……ですよね?」
「違うな」
「えと……じゃあ、抱きしめたり、頬にキスしたりするのは……普通ですよね……?」
「違う」
「えぇ……?」
「大体誰だ、頬にキス……あぁ少佐か。あの人は全てが規格外だ。信用するな、そしてお前は許すな」
「えぇぇぇ……?」
どうしよう。今まで異世界標準仕様かと思っていたものがどうやら全て違ったらしい。
確かにエドヴァルトやオーウェンに頭を撫でられることはあっても、それ以上の接触をされたことがなかったと、その時になって初めて気が付いた。
アヤセの視線に、心臓の音がダイレクトに耳に響く。
カイリは規格外なのだとそう言った。
ならば――
「じゃあ、なんで中佐は……こんなに、距離が近いんですか……」
困ったようにアヤセを見つめれば、部屋が薄暗い程度ではごまかせないくらいに顔が火照っているのが分かる。
この距離が、お互いの世界での普通ではないのなら。
もしかして彼の特別なのではないかと、そう勘違いしそうになる。
「さぁな。どうしてだと思う」
「……ここでも意地悪ですか」
「そうだな」
軽く髪に口づけられ、思わず出た変な声に唯舞は慌てて口元を押さえた。
さっきの話が本当ならこれは絶対に標準仕様なんかじゃない。
「じゃ、じゃあ……もしかして、身内仕様ですか……?」
「……なんだ、それは」
「ミーアさんが言ってました。中佐は身内に……懐に入れた人間には甘いからって」
唯舞のその言葉に、アヤセが呆れを含んだため息をつく。
「じゃあなんだ。お前は俺が、ミーア先輩に同じことをしてるとでも思ったのか?」
「…………え……?」
その言葉に唯舞はきょとんと小首を傾げた。
いつもは少し切れ長な目が、驚く時だけはまん丸となる唯舞にアヤセはほんの少しだけ苦く思う。
アヤセの言うとおり、これが身内仕様なら彼はミーアに対しても唯舞と同じことをしていなければおかしい。
けれど、二人の間にそんな様子どころか、雰囲気さえも今まで感じたことがなかった。
「だ、だって……!」
「なんだ?」
「だって、それじゃあ……!」
その事実は余計に唯舞を混乱させてしまう。
ぎゅっと身を縮こまらせて、羞恥に震える体を押さえこんだ。
(だって、そんなの……!)
まるで唯舞だけが他とは違うのだと言っているようじゃないか。
さらりと髪に触れられるだけでびくりと反応してしまう自分がなんとも恨めしい。
「勘違い、されますよ……」
「誰にだ」
「こんなふうに優しくするのはズルいです」
「別にお前ひとりだけだから問題ない」
「…………っ」
最後の抵抗だと言わんばかりにアヤセの胸元の服を力なく掴んだ。
こんなの勘違いされても文句は言えない。むしろ勘違いしろと言わんばかりだ。
それなのに勘違いに必要な大事な一言を、アヤセはこの期に及んでも何一つ言ってくれなくて、俯くように唯舞はぽつりと漏らした。
「ズル、い」
「……そうだな」
髪に触れていたアヤセの手がそのまま頬に触れ、唯舞の顎をすくい上げるようにして上向かせる。
「……ぁ……」
目の前のアヤセの瞳に、ふるりと体が震えた。
肩が強ばり、呼吸の仕方を忘れてしまいそうになる。
(……キス、される……)
本能がそう感じてる。
逃げようと思えば逃げられるのに、体は動かない。
「唯舞」
その声が、触れる手が、見つめてくる目が。
全部が全部、その甘やかさに狂ってしまいそうになる。
あと数センチ。
あと数センチで唇が触れる、その時だった。
「!」
「……ち」
アヤセのバングルが着信を告げる。
急に現実に引き戻される感覚に体が予想以上に跳ねて、忌々しげなアヤセの声で唯舞は我に返った。
「――なんだ」
電話に出たアヤセは、あり得ないくらいに機嫌が悪い。八つ当たりもいいところだ。
ドキドキする胸の鼓動を抑えて目まぐるしい感情に泣きそうになりながらも、電話の内容に次第に表情を変えていくアヤセを唯舞は不安げに見つめる。
ほんの少し話していたアヤセは最後に分かった、と言葉を返して通話を切った。
「……唯舞」
「は、い」
宥めるように頬を撫でてくるアヤセの手が切ない。
甘い時間は終わりを告げたのだと察して、唯舞は何とか平静さを取り繕った。
「明日の朝一番に帰還する」
「……何か、ありましたか?」
話口調的に電話の相手はエドヴァルトだったのだろう。
ため息に僅かな怒りを含めたアヤセは、最後に唯舞の頬を撫でてから手を離した。
「リドミンゲルが撃って出た」
そう言ったアヤセはゆっくり休めと唯舞に言い残し、部屋から出て行ってしまう。
唯舞が握りしめていたあのスティック状の避妊薬だけが、ころりとベッドに転がっていた。




