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第117話 お泊り


 その後の流れは実にスムーズだ。

 母フィアナがごく自然に「泊まっていくわよね? ね?」とアヤセの退路を封じていく。

 

 理力(リイス)が強すぎる胎児を宿すと次の子が授かりにくくなる――そんな体質によって、フィアナはアヤセ以降の子供を授かることはなかった。

 コントロールできない胎児の理力(リイス)が、母体そのものを変質させてしまうのが不妊の原因らしい。


 だからフィアナにとっては、一人息子が連れてきた初めての女の子でもある唯舞(いぶ)が殊更可愛く思えて。

 表情こそ控えめだけど、礼儀正しさと気遣いの心を持ち、あのアヤセさえも虜にした唯舞は、母の目から見てもとても愛らしい。

 

 そんなふうに唯舞を、まるで実の娘かのように可愛がるフィアナは夕食後もべったりとくっつき、中々離れようとはしなかった。



 「……フィアナさん。そろそろイブさんを離してあげてくれないかい?」



 さすがのイアンも苦笑混じりに声をかける。むくれたように口を尖らせるフィアナは、それさえも可愛く見えるから不思議だ。

 

 

 「えぇぇ? 私は明日の朝までしか一緒にいられないのにー……」

 「今日はもう遅いから、また今度来てもらおう。……すまないね、イブさん。妻に付き合わせてしまって」



 イアンが申し訳なさそうに笑えば、時計を見たフィアナが渋々と唯舞から離れる。

 ソファから立ち上がった唯舞もそんなことないというようにゆるく頭を振った。


 

 「いえ、私のほうこそ久しぶりにゆっくりできて楽しかったです」

 「うふふ、それなら嬉しい。イブちゃん、階段上がってすぐ左側にバスルームがあるから。寝間着とかも準備してるから使ってね。イブちゃんのお部屋はその隣。右奥の部屋があーちゃんの部屋だから……ふふ、気が向いたら寄ってあげて」

 「えぇと……ありがとうございます? ……お先に失礼します」

 「うん。ゆっくり休んでね。おやすみ」



 ちなみに当のアヤセは、(フィアナ)に唯舞を取られたことが気に食わなかったのか、1時間ほど前から行方不明だ。

 唯舞は夫妻に見送られ、就寝の挨拶を交わしてから二階へと向かう。

 階段を上りきった先には部屋と思わしき扉が四つ。そのうちの手前左側のドアを開ければ、所謂三点ユニットのバスルームが現れた。

 

 広めの洗面台にはフィアナが用意したと思われるタオルやナイトドレスがラタンバスケットに置いてあり、ふわりと甘いシルク風のクラシカルフェミニンな寝間着(ナイトドレス)に、思わず胸がきゅんとなる。

 


 (私には、可愛すぎるけど……でもかわいい……!)


 

 元々かわいいもの好きな唯舞にとってはクリティカルヒット級の可愛さだった。胸元が広めだから少々気恥ずかしさはあるけど、その魅力には抗えなくて。結局、幸せなひと時として有難く借りることにした。

 

 恒例ともいうべきシャワーしかないバスルームに、ほんの少しだけアインセル連邦の温泉を恋しく思いつつも熱いお湯にほうと息がもれる。

 

 たっぷりのお湯を張って肩までつかる、なんて習慣がないザールムガンドでは、温泉のようなものは究極の贅沢かもしれない。

 そう思ってアインセル旅行の事を思い出せば、真っ先に浮かぶのはいつもアヤセの姿だった。


 アヤセに惹かれていると気付いて数ヶ月。少し意地悪で、でも何だかんだで優しくて。

 だけどそれはあくまで身内としての優しさだから、過度な期待はしてはいけないというのが唯舞の中での結論であり、適度な距離を保つ秘訣でもあった。

 

 

 「フィアナさんみたいに、可愛かったらな……」



 シャワー音に紛れるような小さな声が湯気に溶ける。

 表情筋の弱い唯舞とは正反対の、愛嬌があって喜怒哀楽がはっきりしたアヤセの母は、異性の目にもきっと愛らしく映ることだろう。

 

 過去の恋愛から自分に自信がない唯舞だが、周囲から見れば完全に唯舞だけがアヤセの特別扱いを受けているのは明白だ。それでも、絶妙にすれ違う二人は拗れて簡単には距離を詰められない。


 唯舞は一度大きく深呼吸をして切り替えるように思考を放り投げた。

 髪と体を洗い流し、手早く髪の水気を絞ってからタオルで全身を拭くと、服が置いてある洗面台までぺたぺたと素足で向かう。

 バスケットから下着を取り出し身に付け、お目当てのナイトドレスを手にしたその時。


 

 ――ガチャリ



 「……へ……?」


 

 反射的に手にしたナイトドレスを胸元に押し当て、音がしたほうを振り向いた。



 「…………」

 「…………」



 いち、に、さん。

 数えれば、たっぷりと三秒以上はあったはずだ。


 見開いた目、動けない体。

 眼鏡を外した少し幼い顔が驚いたように硬直し、乱入者もまた、ドアノブを掴んだまま氷のように固まっている。

 

 目があってからのほんの数秒。

 けれど、まるで時が止まったかのようにどちらも動くことが出来なかった。


 

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