第109話 前線基地
兵舎に戻ってきたのは、唯舞一人。
彼女のそばに誰もいないことにアヤセの柳眉が寄った。
「リアムはどうした」
「あ、えっと。途中で他の部隊の方に呼び止められて、緊急だったみたいなのですぐそこで別れました」
「……」
「リアムさんを怒っちゃ駄目ですよ、中佐」
先回りするように唯舞が釘を刺せば、アヤセが不機嫌そうな顔をする。
唯舞も過保護だなぁとは思ってはいるが、体調を崩したり、生命力を吸われたり、食や温泉に釣られたりとなかなかに心配させたり、振り回したりした自覚があるのであまり深くは言わない。
「中佐もコーヒー飲みますか?」
もうこの兵舎での生活も二週間が過ぎ、慣れた様子で簡易キッチンに立った唯舞がマグカップを準備しながらアヤセを振り返れば、自然に話を切り替えた唯舞にアヤセがため息ひとつ零す。
最近はかなりアヤセの扱い方を心得てきた唯舞に敵う気がせず、渋々、頼むとだけ告げれば小さく微笑まれてなんだか居心地が悪かった。
そんなアヤセの返事にもう1つマグカップを準備して先に水をケトルにセットし、いざコーヒージャーを開けた唯舞の手がぴたりと止まる。ジャーの中には期待したコーヒー粉は残っておらず、ため息をついて唯舞は戸棚を見上げた。
(こういう時は最後に飲んだ人が補充して欲しいんだけどなぁ……あ、あった)
少しつま先立ちになって吊戸棚を開け、二段になった棚の上部に目的の物を見つけた唯舞は手を伸ばす。
だがその時、すっと背後から気配を感じて唯舞の伸ばした先にあったコーヒー粉が軽々と取られた。
「ぁ……」
「声くらいかければいいだろう」
何食わぬ顔で唯舞に予備のコーヒーの粉を手渡したアヤセは少し呆れた声で言う。
「…………中佐って、身長何センチですか」
「……178だが」
「ちょっと5センチくらい分けてくれません?」
真顔で可愛らしいおねだりをしてくる唯舞に思わず笑いを漏らしそうになる。だが、思いのほかこの身長差を気に入っているアヤセは、唯舞の頼みとはいえその願いを聞くことはできない。
「そういうお前は何センチだ」
「………………161です。ヒールがあるから今は165だと思いますけど」
「小さいな」
「小さくはないです! うちの国の標準身長よりも高いですっ」
「俺からすれば17も低ければ十分小さいがな」
ぽんとさり気なく頭に置かれた手が無性に悔しくて、むっとした唯舞にアヤセの口元に弧が描かれる。
そう、この距離感。この距離感を互いに失いたくないのだ。
もう、と唯舞はコーヒー粉をジャーに入れ替えてからコーヒーの準備に取り掛かった。
粉を入れてとっくに沸いていたお湯を注いで。
それをソファーに戻るでもなく、結局隣で眺めていたアヤセに手渡せば、彼は当然のように唯舞の分のマグカップまで持っていってしまった。
後片付けをした唯舞がソファに向かえば、テーブルには並ぶようにマグカップが置かれてあり、きっとここに座れということなんだろうと察する。
アヤセの隣に腰を下ろしてコーヒーを口にしながら、唯舞は先ほどリアムから感謝されたことをふと思い出した。
最前線とはいっても、アルプトラオムに出動命令が下るのは基本的に状況が不利になった場合だけであり、待機時間のほうが圧倒的に長い。
そうでもしないとアルプトラオムさえいれば問題ないのだと軍全体の士気が下がってしまうし、あくまでも彼らはザールムガンド帝国の最終切り札なのだ。
だからこそ時間を持て余したエドヴァルトはほいほいと敷地外に行方をくらませ、アヤセも敷地内にはいても通信に応じないことも多々あったようで、サポート役でもあるリアムはそんな二人に日々悩まされていたようなのだが、唯舞が来たことによって彼の苦悩は見事解決した。
今となれば、唯舞さえいればその近くにアヤセがいるし、唯舞が連絡すれば10分以内にエドヴァルトも戻ってくるようになったからだ。
そんなリアムにとって救世主とも女神とも思える唯舞は、胃痛に悩まされることなくスムーズに仕事を片付ける為にはいてもらわないと困る力強い存在となっていた。
「たっだいまー! あ、アヤちゃんみっけ。はい、これフィアナさんからのお土産。いい加減帰っておいでって怒ってたよー?」
「……お前はまたうちに行ったのか」
元気にドアを開け戻ってきたエドヴァルトがソファーにいるアヤセに紙袋を手渡し、それを面倒そうに受け取ったアヤセが大きくため息をつく。
「……?」
「そうだ。今回は唯舞ちゃんを連れて行ったら?」
「何でわざわざ……」
「だってずっと基地にいたら唯舞ちゃん可哀想じゃん」
「……」
「よし決定ね」
物凄く嫌そうに顔を覆ったアヤセがなんだか珍しい。
黙ったアヤセを肯定と捉えたエドヴァルトが、不思議そうにする唯舞に向かってにっこりと笑った。
「唯舞ちゃん、アヤちゃんの実家に遊びに行っておいでよ」