恥ずかしがり屋の前田さんは今日もアイツの口を塞ぎたい
「恥の多い、人生でした────」
「死ぬな。生きろ」
呆れたような声が上から降ってくるが、もう顔を上げて歩けない。
どの面下げてお天道様の下を歩けというのか。
会社の自販機の影で私を壁ドンする無礼者の胸をバシンと叩く。八つ当たりだ。
「もう仕事やめる……」
「誰も見てねえよ」
「わかんないじゃない……! 少なくとも後藤くんは見たじゃない!」
「俺だって見たくて見たわけじゃねえよ、露出狂かと思ったらチカがケツ出して歩いてるから───」
「ケツって言うのやめてよ!おおぉお尻じゃなくて、パッ……下着、だも……」
ンンンッッッ!! と、めり込むまで自分の顔に手を押し付けた。本当にこのまま壁にめり込んで消えたいところだが、今までこのような恥ずかしい場面で壁にめり込んだことも、消えたことも無かった。
*
私、前田チカコは恥の多い人生を生きてきた。
大人になった今も現在進行形で人生で最も恥ずかしい瞬間ランキングを更新しているが、どちらかというと大人になってからは現在起こっている出来事と昔の恥ずかしい場面がフとリンクすることで色鮮やかな思い出が感情と共に蘇ってさらに相乗効果で恥ずかしくなってしまうのだ。
そんな恥の多い人生の起源。恥がいっぱいに詰め込まれた田舎から上京して数年。
社会人になって4年。そろそろ裁量をもって視野を広げて……というタイミングで中途入社の新人が入ってきた。
なんでも、部長の紹介で入ってくるらしい。偶然にも同い年。
新卒で入社して、自分のこれからの人生やキャリアプランを描く余裕もない程、目の前のことでいっぱいな私と同い年。
4年目で転職とは。
しかも部長の紹介。新入社員でもヒラの私とは走っているレールが違う。さぞしっかりとしたキャリアプランを描いているんだろう。頭が下がる。
そんな感じで前評判ばかりが目立っていた新人が部長の後ろから顔を出した。
やってきたのは、故郷に置いてきたはずの”恥”だった。
私の恥ずかしい、甘酸っぱい、いや、酸っぱすぎて背筋がゾワゾワする思い出に必ず登場する、幼馴染……いや、だから幼馴染なんて甘酸っぱいもので断じてない!
思い出すだけで「殺して……!」と、お好み焼きの上の鰹節のようにたうちまわりたくなる衝動に駆れるような思い出ばっかりだ。
とにかく、私の多くの”恥”を知っている男が、私の生活圏にやってきた。
これは大問題だ。
この男は昔から私の恥を大きい声で喋り、恥ずかしいことをほじくり返し、繰り返し、これでもかと再確認させるのが趣味なのだ。
少なくとも、私が知っているこの男。後藤トウマはそういう男だった。
そんな”高尚な”趣味をもっていた男は、現在ではうってかわってなんとも爽やかな男になっていた。
清潔感と”デキル感”をひっさげつつ、謙虚な挨拶にハニカミ笑顔。
全く尖っていない。天狗っぽさもない。あの頃の不機嫌顔とかしたり顔はどこへやら。
そんな余所行きの顔に騙されないぜ!とばかりに警戒心MAXで近づかないようにしていたが、歓迎会での挨拶でも「初めまして、前田さん」だった。
今まで見たこともないイケメンスマイルで笑いかけてきた。こわい。
私もいい大人になったが、”あの”後藤トウマも大人になったってことなのかもしれない。
高校卒業のタイミングで上京したので8年ぶりの再会になるが、”ただの同級生”の私なんて記憶にないようだった。
それから3か月。
すっかり安心した私は調子を取り戻していた。
後藤トウマ。おそるるに足らず。わっはっは。
───私はちょっとばかり調子に乗りやすかった。
今日も今日とてルンルンで資料室に入り、ちょっと手間取ったものの目的の段ボールを発見することが出来た。
今日は冴えている。いつもより早くミッションを遂行し、意気揚々と資料室を出て数メートル。
今日は良い日だった。
───後ろから「チカ!!」と、アイツに呼ばれるまでは。
その一言だけで”あの時”に戻りそうになって、ビクリと体を揺らした。
振り向いたら戻ってしまいそうで、聞こえないフリをした。
無視をしたら更にひどいことになるかも! と、ビクビクする昔の自分を無視して、一歩足を前に出した。
聞こえてませんよーという体を装って気持ち早歩きになったものの、後ろから近づいてくる男の足の方が速かった。
いつの間にそこまで近づいていたのか、後ろに腕を引かれて、壁際まで押されてしまった。
これはいわゆる”壁ドン”である。
私の視界は、ネイビーのネクタイでいっぱいだ。よく見たら色味の違うネイビーがストライプになっている。細かいオシャレってか。
状況を把握して一拍。いかん!と咄嗟に押しのけようとするが、目の前のネイビーのネクタイは動かない。
「な、なん、デスカ! やめッ、ヤメテクダサイ!」
激しく噛んでしまい、グワーーーッと体温が上がる。
もう恥ずかしくて顔を隠してしまいたいところだが、私も大人になったのだ。
”私は噛んでなんていません”という顔で堂々としていれば、聞き間違いだったかなと流してくれるものなのだ。それが社会人のマナー。
私を壁に追いやった男を見上げると、キョロキョロと周囲を見回していた。そしてやっと私に視線を落とした。
その表情はいつもの営業スマイルではなく、”昔から知っている”超絶不機嫌な後藤トウマの表情だった。
「……なんですか、じゃねえよ馬鹿」
この3か月、謙虚な物腰とハニカミ笑顔で職場の女性陣をキャイキャイさせていたくせに
なんだこの底冷えする声は。地鳴りかな。こわい。
今までにない迫力がいくら怖くても、雰囲気に負けて謝ってしまえば更に状況は悪化するのだ。
ここは会社。ここは職場。オフィシャル。毅然とした態度で。そう。理性的に。
「……馬鹿ではありません。それに、こっ、これはセクハラですよ」
負けじと睨み上げると、ヤクザ顔になっている後藤トウマはさらに眉間の皺を深くした。
なんなら鼻にも皺が寄っている。人間ってこんなに”怒っている”顔が出来るのか。こわい。
「セクハラはお前だ。ケツが、見えてるから、すぐ、直せ、今すぐ」
言い聞かせるように単語を一つ一つ区切り、上から落としていく。
なんだって。
ケ、いやいや、お尻、が。
──右手をスカートに添える。
見えて、い、る……?
───スカートの生地が想定より早く消え、肌の感触が、あった。
「~~~~~~~~~~~~~っっ!!!」
ぶわわわわわわわ!!!っと顔に熱が集まる。
ババッと手で確認するが、生地が、ない! スカートのスリットが!裂けている!!
あぁぁ!きっと、さっき資料室でしゃがんだり段ボールを移動させた時に変な音がしたと思ったの!!ああぁぁあなんで確認しなかった!? え、これで歩いて、、え!?!?
パニックになり「あっ」「いや」などつぶやきながら、降り注ぐ視線につられ存在を思い出す。
「イヤァアア………ッ」
「変な声出すなよ、馬鹿か」
そんなことを言ったって、私の記憶を消すか、目撃者の記憶を消すかしないともう立ち直れない。むり。だめ。おわった。あばばばばば。
───そして冒頭に戻る。
プルプルと小刻みに震える私に呆れたのか、重い、それはそれは重ーーーい、ため息が聞こえた。
「なんかこれ昔もあったな」
「なによ……っ! 変わってないって言いたいの……!?」
なんだコイツ。
下着丸見え事件に動揺して震えているっているのに思い出話始めようとしているぞ。鬼か。鬼なのか?
完全な八つ当たりだが、キッ!鬼を睨み上げた。もう視界もゆらゆら揺れている。
どうしようどうしようもう消えたい!!
揺れる視線の先。般若のような顔をしていた男は一転、険しかった眉間の皺を解いてなんともいえない色っぽい表情になった。
こんな顔。
今まで一度だって見たことない。
今まで見て来た、馬鹿にするような表情だったり、いじめっ子のような顔だったり、そんな顔とは全然違う。
なんで、そんな顔──────
薄い唇がゆっくりと吊り上がり、私の右耳に近づくように体を屈めた。
ああ、そうだった。後藤くんはいつも屈んで私の俯いた顔を覗き込んで文句を言うのだ。
今まで毎日が忙しく、そんなちょっとしたことも思い出さなかった。
「───あの時もそんな顔してたな」
まるで共通の思い出かのように後藤くんの低い声が、耳元で響いた。
「顔、真っ赤にして」
後藤くんが何を思い出しているのか、私もここでやっと気付いた。
「プルプル震えちゃって」
後藤くんにはそう見えていたのか、いや、今もか。
「恥ずかしいのに、ごまかそうとして」
ぶわり、と
今よりずっと幼い後藤くんが、くりくりの目を丸くさせている場面を思い出した。
まるでタイムスリップしたかのように。鮮明に。
*
幼稚園の自由時間。園庭で遊んでいたが、お手洗いに行きたくなって急いで走った。
もう何で遊んでいたのか思い出せないが、とにかく早く用を済ませて戻って遊びたかったんだと思う。
急いでトイレから出て、手を洗って、靴をはいて、と思っていたら呼び止められたのだ。まだ幼く高い声で「チカちゃん!!」と呼ぶ声に。
当時はこれでもかというぐらい仲良しだった(母はいつもそういうがそんな記憶はない)後藤くんは、くりくりの目をまん丸にして驚いて慌てている。
私はそんな後藤くんを尻目に「はやく!」とか言いながら手早く靴を履いた。なんなら早く靴を履ける私カッコイイ!ぐらい思っていたかもしれない。恥ずかしい。
だが、後藤くんは私の腕を掴んだり洋服を引っ張ったりして妨害してくるのだ。
私も意地になって靴を履くが、妨害されてだんだん悲しくなってきた頃。
いつの間にか真っ赤な顔になっていた後藤くんが小さい声で言ったのだ。
『チカちゃん……パンツ丸見えだよ……』
と、ね。
実は後藤くんに淡い思いを持っていた幼き私はそれはもう泣いた。
パンツに巻き込んでいたスカートを引っ張り出し、恥ずかしすぎて大泣きした。
大好きな後藤くん(幼)にパンツを見られたことや、カッコイイチカちゃんでいたかったのに恥をかいたと身も世もなく大泣きして、先生や友人たちが集まってきて、更に恥ずかしくなり、母が迎えに来るまで園長室で丸くなっていた。
しかも被害妄想は止まらず、それから何日か幼稚園を休んだ。
友人にも先生にも園長先生にも母にも父にも、ペットの猫にも理由は言えなかった。
そんな恥ずかしいことを言えなかった。私は見栄っ張りで、カッコイイチカちゃんだと全方位に思われたいタイプだったのだ。
でも、きっと後藤くんは幼稚園のみんなに言ってしまっただろう。
「パンツ丸見えで歩いてた」「チカちゃんは赤ちゃんだ」「パンツ丸出しチカちゃん」と。
もう一生、幼稚園に行けないと泣いて泣いて泣きまくったが、後藤親子がお見舞いに来たことで状況がわかった。
なんと、幼稚園では後藤くんが意地悪をして私を泣かせたことになっているらしい。
ごめんねと謝る後藤ママに『違うの』としか言えない私は、後藤くんと”仲直り”ということで二人にしてもらった。
久しぶりに顔を合わせる後藤くんは最初心配そうな顔をしていたくせに、なぜか私と目が合うと恥ずかしそうに下を向いてしまった。パンツ丸出し事件はやっぱり私の記憶違いではなかったようだった。むり。
二人でモジモジした後、庭の壁側にいるだろうダンゴ虫を二人で見ながら身を寄せ合い小声で話すことにした。これは極秘の話なのだ。
『……幼稚園、チカちゃん来ないとつまんないよ』
恥ずかしいところを見られてしまったとはいえ、淡い気持ちを頂いていた後藤くんにそんなことを言われれば、嬉しいやら恥ずかしいやらでプイッと顔を反らす。
『……なんで言わなかったの。みんなに』
そうなのだ。後藤くんは意地悪をしたわけでは無く、パンツ丸出しの私を止めようとしたのだ。それなのに、私が恥ずかしすぎて大泣きして……。
返事がないので後藤くんの方をチラリと伺うと、やや不貞腐れたような表情でジトっと花壇の土をほじっていた。私の視線に気付いたのか、ムスッとしながらやっと『言わないよ』と返事があった。
不機嫌顔の理由は気になるところだが、言わないと言ってくれて体の力が抜けたが、それで終わりではなかったのだ。
ここで終われば淡い初恋メモリーなのだが。
不安が晴れた表情の私を見た後藤くんは一つ頷き、何かを決心したかのような表情で私に向き直った。ずっとスカートを握りしめていた私の手をほどき、小さな手が私の両手をしっかりと握った。
そして。
『……ぼく、絶対、チカちゃんのパンツ見たってこと誰にも───』
パ、のところで握られていた手を振りほどき、
見た、のところで両手を発信源に向けて、
誰にも、のところでやっと、後藤くんの口を塞いだ。
同じ目線のくりくり丸くなった目をキッと睨み、震える声を絞りだした。
『言わないって……っ、言ったのにぃ……!!』
恐怖と蘇った羞恥にプルプルと震える私に何を思ったのか、天使のような後藤くんの目が更に丸く見開かれ、固まった。
遠くにいた母親たちの『大丈夫ー?』なんて間の抜けた声にビクリと体を揺らし、後藤くんの口を塞いでいた手をパッと下してスカートで拭う。
何事もなかったかのように、暗黙の了解とばかりに二人そろってまた花壇に向き直ってしゃがんだ。
しばらく無言で土をつつく後藤くんが次に何を喋るかが気になって私はまたずっとスカートを握りしめていた。
そしたらなんて言ったと思う。この、後藤少年は。
『……チカちゃん、言われたくないんだよね?』
バッと横を見ると、天使の後藤くんは消えていた。
まるでおもしろいおもちゃを見つけたような顔で私に笑いかけていたのだ。
言われたくないって、もちろんあのことである。
『パ───』
今度は一音目で口を塞いだ。早かった。
でも、口を塞がれているというのに後藤くんの目は三日月型にニンマリとなっていた。
*
「たまんねぇな、」
高くなった背を屈めて、わざわざ私の耳元に寄せていた顔が離れた。
つられるように見上げると、あの頃の三日月型の目とは違う、まるで知らない男の人のような目で私を見ていた。
───悔しい。
もうあれから何十年経っただろうか。
私は地元を離れ、一人で生活してきた。なんとか一人で衣食住をまかなっている。
最初のうちは色々あったが、私は強くなったのだ。
恥ずかしくて丸まって泣いてるだけでは都会で一人では生きていけないのだ。
急に昔の知り合いに会ってペースを乱されただけ。
今の私は昔の”パンツ丸出しチカちゃん”ではないのだ。
大騒ぎだった頭の中が急に冷えた。
バックスリットが裂けたスカートをウエストでくるりと右に回し、”やや深め”なスリットを太もも側に回す。これでなんだか派手なスカートに見えなくも……まあ、苦しいがそういう服だと思えば、まぁ。ね。
後藤くんも私が何をするのか見ていたのか、急に出てきた白い太ももに動揺したのか体が揺れた。
それを見た私は気を良くして、先ほどまでキュッと巻き込んでいた唇を引き上げ、顔を傾げて後藤くんを見上げた。
先ほどまでの嗜虐的な表情が幾分か和らいだ男の唇に指を近づけた。
避けれるはずなのに後藤くんはなぜかされるがまま、呆けたように私の指を視線で追う。
指が薄い唇に到達し、ふわりと触れる。
何が起きるのかと待っている後藤くんの戸惑った表情に、なぜか私はゾクゾクした。
「───恥ずかしいから、二人だけの秘密にしようね」
意外と柔らかい唇の上、指を軽く滑らせる。
「内緒だよ」
ニコッと微笑んで、ピシリと固まった後藤くんの未だ続く壁ドンの腕をくぐり抜けて
いざ更衣室へ……!と思ったところで、また捕まれ逆戻りした。
「なんでよ!今のはこれで終わりだったでしょう!?」
「バッ……!!そんな恰好で歩くのかよ!?」
「ずっとこのままこんなところでくっついてる方が変でしょう!?」
ぐぬぬぬ、としばらく睨みあった後、先に動いたのは後藤くんだった。
壁から腕を離し、スーツの上着を脱ぐと私の腰に巻き付けた。
「シ、シワになっちゃうよ!?」
後藤くんはギュッギュッと二重結びをすると、少し離れて一つ頷き、ジトっとした視線を向けてきた。
「……そろそろ、戻っていいですか。”前田さん”」
「……ハイ」
なんで私が引き留めたみたいになっているんだ、とか
このスーツどうするんだ、とか
会社では”そういう距離感”なのね、とか
とかとかとか。
「はぁぁあぁぁっぁ…………ッ!!」
今日も人生で最も恥ずかしい瞬間ランキングを更新してしまった。
こういうの書きたい。