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籠の中の鬼 みや

 かごめかごめ

 籠の中の鳥は いついつ出やる

 夜明けの晩に 鶴と亀が滑った

 後ろの正面 だあれ?



《序章》


 木漏れ日の中で蝉時雨が少年達のはしゃいだ声と競い合う。外界から隔てられた深い森は子供にとって聖域だ。

 肌に貼り付くTシャツで顔の汗を拭い、武志は前を跳ねる少年の背中を追い駆ける。短い手足はなぜだか思い通りに動いてくれない。巨大なスポンジを踏んでいるような弾力が足の裏を押し返してくる。それでも何かに追い立てられている気がして両足をがむしゃらに動かした。

 鬼になってどれくらいの時間が経っただろう。まだ大して遊んでいないはずなのに、生まれてからずっと鬼を強いられてきたみたいだ。誰でもいい。誰かに触れば鬼を代われる。焦りながら木々の隙間を見渡す視界に異質な姿が入り込んだ。黄色いワンピースを着た、長い髪の少女。男子ばかりが集まる中、触られるのを待ち構えているかのように、黒目がちの大きな瞳で武志を見つめて微動だにしない。

 暑さが生んだ幻影かと思う程に儚げな姿へ導かれそうになる足を、直前ではたと止めた。彼女に触れてはいけない。目を合わせてはいけない。その存在に気付いてないフリをして一番近くに居る少年に狙いを定める。不安定な木の根を飛び渡りながら必死に右手を伸ばした。

 その手が体に触れる間際、武志の足元に巨大な穴が突如開いた。気持ち悪い浮遊感に襲われ、どこまでも続く暗闇を落ちていく。慌てて無様に手足を振り回しても落下速度は増す一方だ。このまま自分は闇に融け込んでいくのかと諦めかけた時、唐突に全身が引き上げられた。同時に、駅名を告げる間延びした声が耳に入ってくる。

 金曜の夕方、ラッシュより少し早い秩父鉄道は穏やかだった。冷房の効いた車内に人は少ない。逆方向の三峰口も数駅先の長瀞も観光地として認知されてきたとはいえ、この時間に行く者は稀だろう。人前で大きく体を震わせて跳ね起きた時の気まずさを味合わずに済み、胸を撫で下ろした。

 生まれ育った土地だというのに武志が秩鉄を利用した回数は然程多くない。実家では車移動が大半で、高校は四歳上の兄が暮らすさいたま市のアパートから通った。大学は東京で一人暮らし。社会人になり、結婚してからも東京住まいだ。

 降車駅を伝える車掌の声に促されて棚から荷物を下ろすと、窓越しには寂れた町が広がっていた。三時間前の景色とはまるで違う鄙びた様子に苦笑いを浮かべる。

 乱暴な急ブレーキの後、ドアが開くと熱気が瞬く間に全身を包み込んだ。東京のうだるような暑さよりは控えめだが、喧しい蝉の声が聴覚から襲い掛かってくる。

 閑散としたホームをゆっくり進んでいき、改札口で無愛想な駅員にIC乗車券を渡す。自動改札機を作る計画はまだ実現していないようだ。小さな待合室を備えた木造の駅舎から出ると、不思議なことにちゃんと懐かしさが湧き起こってきた。紛れもない。ここが自分の、たった一つの故郷だ。



《第一章》

 

 主張の激しい大型看板を傍目に見ながら、窓から入り込む温風を深く吸い込む。車道の左右には一軒家ばかり並ぶが、そこには草木の香りが確かに混じっていた。懐古を誘う香りだ。コンビニの広すぎる駐車場ではアイスを食べる男子高校生が夕日で赤く染められている。

 駅まで迎えに来てくれた兄の康貴は相変わらず見事な日焼けぶりで、ハンドルを握る腕は鍛え上げられて逞しい。厳つい眼差しと武骨な姿は国語教師というより大工を連想させた。

「忙しそうだな」

「大きな企画を立て続けに任せてもらえてるから」

「やっぱり商社と小学校は違うな」

「先生だって忙しいだろ」

 まあな、と得意げに笑う様子から康貴の充実ぶりを窺える。

「明後日の昼に帰るのは変わらんのか?」

「ああ。月曜の朝一で取引先に行かないと」

「祐理さん、あと二日じゃ生まれんぞ」

「分かってるよ」

 祐理が武志の実家で出産したいと言ったのは妊娠が分かってすぐのことだった。長男の悠斗がまだ四歳で育児に手間がかかること、仕事の忙しい武志にはそれができないこと、祐理が実の父母と不仲であること。複数の理由が重なり、断られるのを覚悟の上で両親へ申し出てみたところ、二つ返事で承諾してもらえたのだった。

 頻繁に東京へ会いに来てくれる両親と祐理の関係は良好で、悠斗もよく懐いている。問題は武志だった。両親に対して蟠りがあるわけでも煩わしいわけでもない。どうしても実家に帰ることだけが躊躇われた。

 幼い頃から地元を離れることばかり考え、中学卒業と同時に飛び出した。理由は分からない。自分はここにいてはいけないという漠然とした強迫観念にずっと付き纏われていた。それから三十四歳となった今に至るまで、日帰りで来ることはあっても泊まることは決してしなかった。

「悠斗は迷惑かけてないか?」

「全く。俺の生意気な小娘よりずっと良い子だ」

「悪かったな。一ヶ月も任せっきりで」

「気にしてねえよ。俺たちのことはいいから祐理さんを労わってやんな」

 祐理と悠斗が武志の実家で生活を始めてから一ヶ月。仕事を言い訳に片道三時間の距離を電話のみで済ませてきた。愛情が希薄なわけでは断じてない。ただ、ここに来ることが厭だった。

「これからはなるべく帰ってくるよ」

「そうか。親父もお袋も喜ぶぞ」

 自然とそんな言葉が口を衝いていた。嘘を言ったつもりはない。故郷の香りを嗅いでいたら本当にそう思えたのだ。もう子供の頃とは違う。

「お前のために豪勢な料理を用意してっから。今夜は飲むぞ」

 両親と兄夫婦に散々潰された結婚式の夜を思い出して顔を歪めていると、年季の入った家の前で無邪気に手を振る我が子と臨月を迎えたお腹を抱えて微笑む妻の姿が見えた。



「それでね、おばあちゃんが花火を買ってくれてね、パパと一緒にやろうねって言ったの」

 相槌を打つ暇さえ与えてくれない勢いで悠斗は喋り続けていた。あまりむずからない子だが、一ヶ月も会わないのは生まれてから初めてだ。久々に一緒に入るお風呂が嬉しいようで、お湯を掛けたり抱き付いたりと大騒ぎだった。四歳の子ならばこれくらい甘えるのが当然なのだろう。芽生えたと聞いていた兄になる自覚も、今日はどこかに置いてきたらしい。

 武志が子供の頃に浸かっていた小さな浴槽は跡形もなく消え、真新しいユニットバスが白く輝いていた。この町も家族も刻々と変化している。

「明日の夜は花火やろうね」

「おお、やろうな」

「約束だよ。お酒飲み過ぎたら駄目なんだよ」

「分かってます」

 宴会は大いに盛り上がり、酒豪四人の勢いに押されながら酒を進めていると、最近の疲労と相まって早々に酔いが回ってしまった。悠斗がお風呂に入りたいと言ったのは情けない父親の姿を見兼ねたからだろうか。たとえ四歳児でも我が子ならそんな気遣いも、と思うのは親の欲目と言われそうだ。

「お昼も一緒に遊べる?」

「遊べるぞ。何したいんだ?」

「ぼくね、お友達ができたの!」

 両親に似た狐目を更に細ませながら悠斗が自慢げに笑う。零れ落ちそうな頬が愛らしい。

「どんな子なんだ?」

「女の子だよ。優しくて、ぼくよりお姉さん」

「りっちゃんの友達か?」

「違うよ」

 どうやら康貴の娘とは関係がないらしい。我が子が年上の女の子とどのように出会ったのかは気になるところだが、頭がふらついてきた。酒が入った状態で長湯しすぎたようだ。詳しいことは祐理に聞くことにしよう。

「じゃあ、明日の昼はその子と三人で遊ぼうか」

「うん!エリカちゃんっていうんだよ」

「そうか。エリカちゃんに会えるのが楽しみだ」

 エリカ。その名を口にした途端、頭の端を突かれたような鋭い痛みを覚えた。どこかで聞いた記憶がある。珍しい名前ではないから今まで知り合った女性に居たとしても不思議ではない。だが、なぜだか妙に胸が騒いだ。



 蝉噪は鳴りを潜め、扇風機の規則的な回転音が眠気を誘う。開け放した窓から入る空気は昼より涼まり、蚊取り線香の独特な匂いが鼻の奥をむず痒くする。兄夫婦と姪は隣接した自宅へ戻り、両親はもう眠ったようだ。悠斗の寝息も聞こえる。

 薄手のタオルケットは糊がよく効いていた。客人用だろう。自分の部屋も物もこの家にはもう無い。

「大丈夫?疲れてない?」

 隣りの布団で横になる祐理の静かな声が心地よかった。張り詰めていたものが緩んでいく。自分の実家なのに嫁が緊張を解かせてくれるとは不思議な話だ。

「君の方が疲れてるだろ?一ヶ月も夫の実家に居るなんて」

「いいえ。お義父さんもお義母さんも本当に良くしてくださる」

 その声に嘘は無さそうだ。東京でたまに会うのと何ヶ月も共に過ごすのとでは大分違うかと危惧していたが、良い方向に運んだらしい。両親と祐理の気遣いに心から感謝した。

「りっちゃんも悠斗と沢山遊んでくれるの」

「友達もできたって言ってたぞ」

「そうみたいね」

「会ってないのか?」

「家に連れてきたことはないの。でも、毎日楽しそうよ」

「そうか。……ごめんな」

 薄明かりの向こうで祐理がこちらを見た気配を察し、武志も顔を向ける。出産のために髪を短く切り、眼鏡を外した顔は三十二歳という年齢より若く見えるが、切れ長の瞳は彼女の意志の強さをよく表していた。

「二人で決めたことでしょ?」

「ああ…、いや、もっと早くにこうやって連れてくれば良かったと思って」

 孫と一緒に過ごす両親の笑顔、祖父母と遊ぶ悠斗の明るい声、家族が揃ったことを喜ぶ康貴の眼差し、そして義父母を慕う祐理の安らかな表情を見て、今まで自分のせいでこの団欒が叶わずにいたことを深く後悔していた。

「お義母さんが何度も私たちのことを『家族』って言ってくれるの。それがすごく嬉しい」

 両親と不仲である祐理にとって『家族』という言葉は大きな意味を持つのだろう。微かに涙交じりの声が彼女の喜びを表していた。

「この子もこの家族の一員になるのね」

 優しくお腹を撫でる祐理の艶やかな黒髪にそっと触れると、くすぐったそうに口元を綻ばす。その様子がたまらなく愛おしくて、こんなにも可憐な女性が家族である幸せに胸を熱くさせながら、柔らかな体を抱きしめた。



《第二章》


 雲一つない青空。そんなありきたりな表現をそのまま体現した晴天を清々しく感じたのは束の間で、家を出てから十五分も経つと噴き出す汗に武志の肉体は悲鳴を上げた。大音量で騒ぎ立てる蝉が気力まで奪っていく。太陽が照り付ける車道脇の狭い道を上機嫌で駆ける悠斗の活発さが羨ましい。

「パパ、はやく!エリカちゃん来ちゃうよ!」

 飛び跳ねながら手招きする息子の声に促され、重い足を速める。少し前まではガードレールの横をトラックが走るだけで怯えて手を離さなかったのに、子供の成長は親が思うより随分早い。

 悠斗に続いて横道に入ると次第に草藪が足元を侵食してきた。この先に二人の遊び場があるらしい。自分も子供の頃に来たことがあるかもしれないと周囲を見渡したが、草木ばかりで大きな特徴は見当たらなかった。

 草いきれに耐えながら歩き進むと小さな山の麓に辿り着いた。上へと続く急な石段は幅も高さも不揃いで、所どころ苔に覆われている。数段上には鬱蒼とした木々に紛れるようにして古い鳥居が粛然と立っていた。得も言われぬ薄気味悪さに身が竦み、踵を返したくなる。それを止めたのは鳥居の陰から顔を覗かせる少女だった。

「エリカちゃん!」

 駆け寄る悠斗に微笑む少女は小学四年生くらいだろうか。向日葵柄のワンピースから覗く腕や足は姪に比べて随分白い。胸元まである黒髪は麦わら帽子がよく似合っていた。

「こんにちは。悠斗と沢山遊んでくれてありがとう」

「こんにちは」

 まん丸とした大きな瞳が興味深げに武志を見つめる。父親が来ることを悠斗は話していなかったのかもしれない。

「仲間に入れてくれるかな?」

「いつもこの上の神社で遊ぶんだ。パパも行こう」

 傾斜のきつい石段を悠斗が小さな体で勢いよく上がっていき、エリカも軽やかに続いた。真下から見上げると深く茂った枝葉に阻まれ、行き先は見えない。果たして何段あるのか。息を吐き出して気合いを入れてから、一段目に足を乗せた。

 古びた鳥居とは違い、注連縄も紙垂も小綺麗なので氏子はいるらしい。神額の薄い文字を読み取るのは諦めて下を潜り抜ける。その途端、鋭い痛みが蟀谷に走り、後ろを振り返った。誰かに呼ばれた気がしたからだ。

 そこには誰も居ない。誰も居ないはずなのに、階段の下に朧げな姿が見えてくる。周囲には鮮やかな緑と霞んだ緑が混じり合う。これは記憶だ。かつて自分はこの鳥居を潜り、上の神社へ行ったことがある。数名の友達と競い合いながら階段を上がっていこうとするが、そこで背に何かを感じたのだ。確かな存在を感じて振り向いた先には――。

「おじさん」

「うわあっ!」

 浮かない顔をした少女のぼやけた姿に目を奪われていると、後ろから掛けられた声に腰を抜かしそうになった。階段から落ちるのを両脚で何とか踏ん張る。背後を窺うと上段には背の低い女の子が目を丸くして立っていた。

「エリカちゃん」

「ごめんなさい。なかなか上がってこないから」

「いや、いいんだ。おじさんこそ驚かせてごめんね」

「大丈夫。もうすぐそこよ」

 励ますように声を掛け、エリカは再び階段を上り始めた。揺れるスカートからは愛らしい膝の裏が覗いている。

「エリカちゃんは何歳?」

「この間、十歳になったの」

「四歳の子と遊ぶなんてつまらなかったんじゃないかい?」

「悠斗君、良い子だから」

 ありがとう、と素直に礼を言う。もしかしたら同級生にあまり友達が居ないのかもしれない。詳しくは聞かないことにした。

「着いたわ」

 息が弾んできたところで視界が一気に開けた。こじんまりとした境内には手水舎と四つの灯籠、参道を進んだ左右に二匹の狛犬が立っている。拝殿はかなり古びており、歴史を感じさせた。休憩用のベンチがあるので参拝者は多少いるようだが、今は全く人気が無い。

 先に到着した悠斗は手水舎で柄杓を使わずに手を洗っていた。今度、正しいやり方を教えてあげよう。

「さて、何して遊ぼうか」

 武志の問いかけにエリカは悩む素振りも見せないで即座に答えた。

「地面に足が付いたら死んじゃう鬼ごっこ」

「死んじゃう?」

「そう。地獄に落ちちゃうの」

 やりたい!と悠斗は無邪気に喜ぶが、武志は思わず苦笑してしまった。子供は簡単に死ぬという言葉を使う。幼い彼らにとって死は縁遠い存在なのだろう。自分が子供だった頃も平然と虫を苛めたり、このような遊びをしていた気がする。

「怖いなあ。おじさんも地獄に落ちないように頑張るよ」

 わざとおどけてみせる武志を満足げに見つめながら、エリカは鬼を決めるじゃんけんの掛け声を始めた。



《第三章》


 拝殿の階段に座りながら真っ青な空を見上げる。向拝の下は日陰となり、程良い疲労感と相まって微睡んでしまいそうだ。賽銭箱の前で悠斗はすやすやと眠っている。先程まで大喜びで遊んでいたのに、電池が切れたように一瞬で寝てしまった。

「エリカちゃんの家はどの辺りかな?」

「すぐ近くよ」

 二人でゆっくりと話す時間が無かったため、聞きたいことが色々とあった。息子の新しい友達というだけでなく、エリカには無性に興味を掻き立てられる。遊んでいた時の無邪気な姿は子供そのものだが、どこかミステリアスな雰囲気を湛えており、その謎めいた様子に武志の胸はざわついていた。

「赤ちゃんはいつ生まれるの?」

「え?ああ、悠斗が話したんだね。あと二週間くらいの予定だよ」

「私も会える?」

「いつか家に遊びにおいで」

 大きな瞳で見つめられると吸い込まれてしまいそうで妙な居心地の悪さを覚える。心の奥を粗く摩られる感覚がどうにも落ち着かない。

「ねえ、鬼ごっこやろう」

「二人で?」

「うん。私が鬼をやるから、おじさんは追い駆けてね」

 いいよと言いかけて、ふと止まる。

「エリカちゃんが逃げるなら、おじさんが鬼じゃないかな」

「これでいいの。私が鬼で、私を捕まえて」

 そう言い残して拝殿の階段から駆け下り、燈篭や狛犬の台座、ベンチ、階段、大きな飛び石を軽やかに跳ね回る。地面に足が付いたら死ぬルールは続いているらしい。眠る悠斗を気にしつつ、武志もエリカを真似ながら次々と飛び移っていく。

「地獄ってどんなところだと思う?」

「うーん、痛いことや怖いことが沢山あるところかな」

 拝殿の横を抜けて奥へと進んだ先には、拝殿以上に古びた本殿が待ち構えていた。その脇は雑草が生い茂り、瑞垣を器用に使って進むエリカを必死になって追い駆ける。

「かーごめかごめ。かーごのなーかのとりは」

 足元ばかりに気を配っていると前方からエリカの歌声が聞こえてきた。鬼ごっこでかごめかごめとは不思議なものだが、こういう矛盾を気にしないのが子供なのだろう。

 だが、この時期にはちょっと聞きたくない歌ではある。かごめかごめの歌詞には怖い意味が込められていると耳にしたことがあった。その時には馬鹿臭いと笑い飛ばし、今も真剣に受け止めているわけではないものの、現在の状況を思うと神経質になってしまう。

「いーついーつで―やる」

 『かごめ』は『籠女』と書き、籠を抱いているような女性、すなわち妊婦を表すという。そして『籠の中の鳥』は胎児を指す。赤ん坊がいつ生まれてくるかを問いているわけだ。

「エリカちゃん、それ以上奥に行くと危ないよ」

 どうにも胸騒ぎがして声を掛けるが、エリカに止まる素振りは見受けられない。仕方なく付いていくと思わず「ほう」と息が漏れた。本殿の裏側には鎮守の杜が広がっていた。こんなところがあるとは知らなかった。知らなかったはずなのに、妙な懐かしさが心を擽る。子供の頃に来たことはないだろうか。そして、その時ここで――。

「そろそろ戻ろう。向こうでかごめかごめをやろうか」

「かごめかごめはやりたくないんでしょ?」

「そんなことないよ。三人でやろう」

 大木の根っこを渡り歩きながら、二人は更に森の奥深くへと踏み込んでいった。全方位から聞こえてくる蝉の鳴き声に全身を包まれる。鬱蒼と茂る枝葉は灼けつく陽射しを遮断し、乾いていく汗で皮膚がべたついた。薄ら寒さを感じるのは、きっとそのせいだ。

 大きな杉の木の下で止まり、振り返ったエリカのにこやかな表情に安堵したのも束の間、少女はその太い幹を登り始める。あまりにも危険すぎる行為に度肝を抜かされ、自ずと大きな声が出た。

「危ないよ!下りておいで」

「よーあーけーのばんに」

 機敏に登りながらエリカは平然と歌い続ける。目を凝らすと幹の要所要所に切り込みが入っているらしい。エリカはそこを器用に使って登っていた。

 『夜明けの晩』とは至って奇妙な言葉だ。夜が明けているのに『晩』という矛盾。先程の解釈を続けると『夜明け』も『晩』も光を見る前であり、胎児からの視点で臨月に当たるとされている。

「つーるとかーめがすーべった」

 吉兆の象徴である『鶴と亀』が滑ってしまうのは縁起の良くないことを表す。姑が後ろから背中を押したせいで階段から足を滑らせた嫁が流産するという顛末に辿り着くらしい。我が家の嫁と姑は円満だが、それでもこんな歌を今の時期に聞きたくなかった。エリカに対して少しずつ苛立ちが募り、草葉が風に揺れる音すら神経を逆撫でていく。

「もう止めてくれ。悠斗が心配だ。帰ろう」

 見上げるほど高所にある枝の上に座ったエリカは、武志が来るのを待ち侘びているかのように両足をぶらつかせている。その隣りの木の、大地から盛り上がった根っこの上に足先だけ乗せた状態は不安定で、それもまた武志に落ち着かない気分を助長させた。

 蝉時雨の中、高い木の上に座る黄色い服を着た少女を下から仰ぎ見る映像に、全く同じ絵が重なる。だが、もう一人の朧げな少女は足を震わせて涙を溢していた。それは、子供の頃にみんなと一緒に無理やり連れてきた、あの子の名前は――。

「君は」

「うしろのしょうめん、だあれ?」

 耳元で聞こえた少女の声に息を呑む。耳に触れた吐息が体を硬直させる。武志はその背にはっきりと何者かの気配を感じた。この森には今、二人しかいないはずなのに。見えない両手で強く背中を押され、体勢を崩した体は前方へと倒れていく。木の根に乗せていた右足が滑り落ちた先に、地面は無かった。


   ●


 どこまでも続きそうな落下がもうすぐ終わることに武志は気付いていた。鎮守の杜でエリカと鬼ごっこをしたのが最後の記憶だからだ。この世に、いや、現世に生まれてから過ごした時間を早送りで見せられ、鬼ごっこの場面に至ったところで鮮やかな映像が途切れた。今は暗闇が全身を包み込んでいる。過去の映像は封じ込めていた記憶を揺り起こし、自分が故郷を避けていた原因を突き付けた。そして、少女の名も。

「永矢恵里佳」

「やっと思い出してくれたのね。加賀武志君」

 名を呼ばれた方へ顔を向けると、視界が光で埋め尽くされる。激しく吹き付けてくる熱風に思わず目を瞑った。足の裏に地面の感触を得て、高鳴る鼓動に煽られながら徐に瞼を開けていく。そこには到底信じることのできない世界が広がっていた。

 火を噴き出す山や煮え滾った赤い川。歪に隆起した大地からは血に濡れた大小様々な刃が飛び出している。真っ黒な空には太陽や月といった自然の光はないものの、屋内だとは思えない。悪臭を伴う風に吐き気を催した。強烈な暑さの原因はあちこちで燃え盛る炎によるものだろうか。だが、その熱に逆らうように武志の全身は鳥肌に覆われていた。

「ここは…」

「地獄よ。武志君、地面に足を付けちゃったでしょ。だから、地獄に落ちたの」

 正面に立つ少女、恵里佳は両腕を大きく広げる。そんな馬鹿なことがあるかと言い返したいのに、ここへ落下する間に見せられた鮮やかな映像と目の前に広がる異世界としか思えない空間に言葉を封じられた。頬を襲う熱風や耳に届く悲鳴と怒号が、これは紛れもない現実だと主張する。

「あれを見て。醜く争っているでしょ?ここでは殺し合いをしないといけないの」

 恵里佳が指さした先には鉄の爪で互いを殴り合う大勢の人間たちが居た。飛び散る血の生々しさに顔を顰める。あまりにも悲惨な光景に目を逸らすが、どこもかしこも残酷な光景しかない。鬼と思しき者たちに身体を切り裂かれ、粉砕され、寸断され、燃やされる人々。ここにはおぞましいものしかない。

「逃げようとする人たちは獄卒に殺されちゃうの。地獄の獄卒は鬼なのよ」

「だから僕じゃなくて君が鬼だったわけか」

 意味ありげな笑みを浮かべる恵里佳の様子は、鬼よりも小悪魔の方が相応しい。肉体は十歳のままだが、人の心を乱す蠱惑で満ちていた。向日葵柄のワンピースから覗く脚に艶めかしさを覚え、自らの中に芽生えた背徳の感情に怖気が立つ。

 目の前で繰り広げられる殺戮の連続に歯を食いしばりながら耐えていると、喧騒が途絶え、全ての人間が血で塗り潰された大地の上に倒れ込んだ。紅の川が煮え、炎が燃え滾る音だけが残された灼熱の世界。そこに足元から涼風が流れてくる。風に促されるように鬼たちが一斉に言葉を発し出した。低音で「活きよ、活きよ」と繰り返される合唱に従い、横たわっていた人間たちが目を覚ます。再び立ち上がった彼らの肉体には傷一つ残っていないが、その表情には絶望と諦念が満ちていた。そして、先程と同じ拷問が始まる。

「地獄では死んでもすぐに肉体が再生して、五百回も責め苦が繰り返されるのよ」

「どうしてこんな場所に僕を連れてきたんだ」

「どうしてだと思う?武志君はもう全てを思い出したでしょ?」

 小学四年の夏休みが終わりに近づいた頃だった。いつものように仲の良い男子が集まって遊んでいたところにやってきたのが、同じクラスの永矢恵里佳だった。大人しい性格で口数は少なく、学校では目立たない存在ながら、どの男子も彼女の可愛らしい顔や声にほのかな好意を抱いていた。好奇心旺盛な少年たちは内心を窺い知れないミステリアスさにも惹かれていたのだと思う。だが、その年齢の男子というものは屈折した態度でしか気持ちを表せない。彼女の視線を気にしつつも、その存在を無視して遊び続けた。

 これといった大した理由があったわけではない。友達の一人がいつものように新しい悪戯を思い付いただけだ。神社で一緒に遊ぼうぜ、と誘う声に含まれていたのは、この後に待つ慰みへの期待感。かごめかごめをやりたいと言った恵里佳の意見は当然の如く却下され、地面に足が付いたら死んじゃう鬼ごっこが始まった。

 全員で示し合いながら鎮守の杜の奥深くへと進んでいく。森の中にある杉の大木のいくつかには木登りで遊ぶために子供たちが傷跡を付けていた。それを恵里佳に教えてあげたのは武志だった。

「この上に登ったら捕まらないよ。そう教えてくれたのは武志君だったよね」

 地獄へ落ちる間に見せられた過去の映像が、あの日の出来事を鮮明に想起させていた。まだ声変わりをしていない自分の声が脳内でこだまする。そこには純粋な好意と幼気な悪戯心しかなかった。虐める気持ちなど一切ない。ましてや傷つけるつもりなんて微塵も持ち合わせていなかった。

「本当に捕まらなかったわ。ありがとう」

 怖がる恵里佳を無理やり登らせ、大木の上で怯える様子を下から仰ぎ見た時の興奮が明瞭に思い出される。そこにあったのは、優越感だった。

 下ろしてと頼む恵里佳の声を笑って流した少年たちは、森の中をどんどん移動して鬼ごっこを続けた。遊びに飽きた頃には日が傾いており、多少の後ろめたさを感じながらも無言で神社の階段を下りていった。もし彼女を心配する素振りを見せたら皆に揶揄われてしまう。小学四年の男子にとって、それは何よりも恥ずべきことだった。勝手に帰っただろうと都合よく決めつけて、各々の帰路に分かれていった。永矢恵里佳が神社裏の森で大木から落下したと母親から聞いたのは、翌日の夜のことだった。

「だから私は鬼にならなかったのよ」

「君は鬼じゃないのか?」

「ええ。私は鬼になれなかったの」

 だったらなぜ自分を地獄へ連れて来ることができたのだ、という疑問を投げかけようとしたところで、漆黒に塗り潰された空から聞き慣れた声が届いてきた。

『パパ!』

「悠斗!」

 無明の天に向かって呼びかけると、空の一部にうねるように穴が開いていく。そこからは眩い光が差し込み、その奥に涙を溢して叫ぶ悠斗の姿が見えた。

『パパ!お願い、起きて!パパ!』

「向こうに居る武志君はもう死んじゃったから起きられないのよ」

 地獄からの声は悠斗に届かないらしい。悠斗の名を何度叫んでも父を呼ぶ声が止むことはなかった。悲痛に満ちた顔は見えているのに何もできないことが歯痒い。

「悠斗君は本当に良い子ね。一人で怖かったでしょうに、こんな森の奥まで武志君を探しに来るなんて」

「悠斗のところに戻してくれ」

 恵里佳は眉を下げて悩む素振りを見せるが、綻んだ口元からただの見せかけであると察せられた。弄んでいるのだ。あの日の少年たちと同じように。

『ぼく、良い子にするから。優しいお兄ちゃんになるから!』

 悠斗はもう十分に良い子だ。公園やデパートで見かける他の子供達に比べて我儘を言うことは少なく、いつでも明るい笑顔を見せてくれる。自分が兄になると知ってからは今まで以上に強くなり、泣き言を我慢するようになった。身重の祐理を助けてあげる姿が誇らしかった。

『パパ、花火の約束してくれたよ。ママと、ママのお腹の中に居る赤ちゃんと、四人で一緒に花火しよう!』

「ああ、やろう…絶対にやろう…」

 悠斗の純粋な願いに涙が止まらなかった。この子が成長していく姿を傍でずっと見続けていたい。悠斗の望む幸せな家庭を何としてでも守りたい。拳をきつく握りしめ、意を決して恵里佳に真正面から向き合った。

「あの日のことは謝る。本当にすまなかった」

 夏休み明けの学校に恵里佳は居なかった。教師からは頭を強く打ったために入院していると説明され、目を覚ましたという話を聞かないまま、五年生になるタイミングで転校したと人づてに知った。なぜあんな神社の裏にある高い木に登ったのか。一緒に居た人や目撃した人は居ないかと教師に何度も問われたが、仲間たちは誰一人として手を挙げなかった。自分だけが抜け駆けすることなどできなかった。そのまま記憶を封印した。

「痛かったわ、とても」

「本当にごめん」

「生きて、大人になって、悠斗君みたいな子供を産んで、幸せな家庭を築きたかった」

「……申し訳ない」

 鋭い刃が突き出る地面に跪き、両手をついて深く頭を下げる。脛の肉にいくつもの刃がめり込んできた。掌から血が滲み出し、灼熱と苦痛が相まって汗がしとどに流れる。その苦しみに耐えながら許しを乞い続けた。

 惨たらしい阿鼻叫喚が耳をつんざく。この残虐な世界で恵里佳はどのような顔で自分を見下ろしているのか。呑み込まれそうなほど黒く大きな瞳には今、何が映っているのか。顔を上げて確認したい衝動を抑え、額にも刃で傷を付けながら頭を伏せた。

「『鬼』には色々な意味があるの。地獄の獄卒、人を食べる妖怪、人に禍をもたらすもの、恨みを持った怨霊、死んだ人間の魂」

 絶叫と咆哮が飛び交う中、場違いに愛らしい声が頭上から聞こえる。恵里佳は武志のすぐ横にしゃがんだらしく、目の端に小さな靴が見えた。

「どの鬼も全て『悪いもの』。だから、ここに居るのは鬼だけなのよ。地獄には悪い人たちしか来ないもの」

 ―――私も、鬼になるわ。

 一瞬、世界が止まったようだった。静寂に恵里佳の呟きだけがぽつんと響く。唾を飲み込んでおずおずと顔を上げると、そこには向日葵を思わせる満面の笑みが待っていた。

「地獄には八つの種類があるの。ここは一番上の等活地獄。生き物を殺した人が落とされる場所よ」

「僕は君を殺すつもりなんてなかった!」

「ええ、分かってるわ」

「それなら…」

「だから、武志君は許してあげる。そもそも私はまだ死んでないもの。武志君が地獄に落ちる必要は無いのよ。今日のことはお試し体験だったと思ってちょうだい」

 あの日の少年たちも……自分もこんな風に笑っていたのか。悪戯を心底楽しんでいる様子に眩暈を覚えた。恵里佳を通して自分の中にある悪と向き合わされる。今にも自分が鬼へと変貌してしまいそうで恐ろしかった。痛みも熱も感じられない程に感覚が麻痺している。遠くから聞こえる悠斗の声だけが武志の正気を保たせていた。

「ここよりもずっと奥底、地獄の一番下にあるのが無限地獄。舌を百本の釘で打たれたり、火炎で骨の髄まで燃やされたり、想像を絶する最大の苦しみを気が遠くなるほどの長い年月にわたって与えられ続けるの。そこに堕ちる人はどんな罪を犯したと思う?」

 殺人を犯した者より重い罪。高熱で脳味噌が溶けてしまったかのように何も考えられない。困惑して口ごもる武志を慈愛に満ちた眼差しで見つめながら、恵里佳は噛んで含めるように、ゆっくりと答えを告げた。

「親殺しの罪」

 その瞬間、跪く武志の火照った体を冷風が撫でた。もしやと思って周囲を見渡すが、先程の等活地獄における復活には早すぎるようだ。人々は未だ争い、鬼たちの唱和も聞こえない。

 空から降り注ぐ光の量が急激に増していく。眩しさと冷えは武志の意識を明瞭にさせ、確信めいた予感を与えた。これは自分だけに与えられた再生だ。自分だけがここから解放される。だが、それはきっと許しではない。

「悠斗君は良い子ね。大好きなパパとママの話を沢山してくれたわ」

「止めてくれ」

「祐理さんはご両親と仲が悪いのよね」

「止めてくれ!」

「ねえ、武志君」

 止めてくれ…。

「元気な赤ちゃんが生まれるといいわね」

 強風に引っ張られ、体が勢いよく天へと持ち上げられる。息苦しさと止め処ない後悔による涙で滲んだ赤黒い大地の上では、黄色い服の少女が最後まで獲物を逃さないように大きな眼で武志を捕え続けていた。地獄に響く歌声が、次第に遠ざかっていく。


  かーごめ


           かごめ



      かーごの




               なーかの




《終章》


 大型の看板もコンビニの広すぎる駐車場も一週間前と何ら変わらないが、今日の空はゲリラ豪雨の接近を告げる暗雲に覆われている。康貴が運転する車の助手席で外の景色を見遣りながら、武志は娘に会える興奮と不安に苛まれていた。あの日以来、嘗てより更に故郷へ戻ってくるのが怖くなっていた。

 恵里佳と会ったあの日、地獄から現世へと戻され、目を覚ましたのは森の中だった。泣きじゃくる悠斗を強く抱えて一目散に家へ帰ると、魂が抜けたように倒れ伏した。祐理にも両親にも話せるわけがない。様子がおかしい武志と悠斗に戸惑いながらも家族は寛容に受け入れてくれた。その優しさにどれほど救われたことか。それでも花火の約束を果たすことなど到底できず、日曜の早朝にはまた秩父から逃げ出した。

 その翌日に予定よりも早く祐理が出産した。連絡を受けた時、喜び以上に心を占めたのは、恐怖。それからの五日間は憂慮との戦いだった。悪夢に魘され、仕事にも身が入らないまま、今日を迎えた。祐理と悠斗に会いたい。その希望だけに縋り、再び秩父へ戻ってきた。

「この間の話だが」

 突然の声に驚いて肩を震わせながら隣りを窺うと、いかつい顔を更に険しくさせた康貴が鋭い眼光で前方を睨んでいた。

「お前の同級生だよ。調べてほしいって言ってただろ」

 あの後、恵里佳が今どうしているのかを知りたかったが、卒業アルバムに彼女の連絡先は載っておらず、地元の友人とは全く連絡を取って来なかった武志には調べる伝手が無かった。小学校の教師をしている康貴ならわかるかもしれないと思い、無茶を承知で依頼したのだ。切羽詰まった様子の弟に驚きながらも、詳しく問い質すこともなく、兄は快く引き受けてくれた。

「ずっと植物状態だったらしい。東京の病院へ転院した後、ご自宅で療養していたそうだ」

 それでだな、と気まずそうに一拍置いてから話を続ける。

「今週の月曜日に亡くなった」

「え?」

「祐理さんが産んだのと同じ頃かもしれん」

 形容しがたい寒気に襲われ、思わず目を瞑った。頭から追い出そうとしても厭な考えばかりが膨らんでいく。そんなはずがない。そんなこと、できるはずがない。

 沈黙が暫く続いた頃、車は横道へと逸れていった。自分の妻が世話になった産院だというのに、ここへ来たのは初めてだ。返す返すも夫として不合格だが、今はそれを気にする余裕すらない。このまま逃げ帰ってしまいたいという慄きに必死で抗い、入口の重いドアを開いた。

 不甲斐無い弟の代わりに毎日通ってくれていた康貴は慣れた様子で院内を歩いていく。おめでとうございます、と晴れやかに掛けられる祝福の言葉に会釈で応えながらも、その足は今にも崩れ落ちそうだった。

「母子共に健康だから明日の朝には退院できるぞ。賑やかになりそうだ」

 嬉々とした表情とは裏腹に、康貴の声には困惑の様子が混じっていた。やはり何か問題があるのだろうか。固唾を呑みながら廊下を歩いている内に、奥の病室から激しい号泣が響いてきた。

「生まれてからずっとあの調子なんだ。暇さえあれば泣いてる。父親が恋しいんだろうな」

 康貴に続いて入った病室では、ベッドの上で赤ん坊をあやす祐理と、その様子を目を細めて見守る父母と悠斗が武志の到着を待っていた。祐理の顔には疲労が窺えるが、武志に向けた朗らかな微笑から彼女の充足感が伝わってくる。

「パパ!見て見て。可愛いでしょ。僕の妹なんだよ!」

 いつも以上に陽気な悠斗に服を引っ張られ、無理やりベッドの傍へと連れていかれる。こじんまりとした個室では心を整える間もない。躊躇いを隠せずに立ち竦む武志を、祐理が凛とした瞳で励ました。赤ん坊の泣き声は短い命を嘆く蝉のように苛烈で、否が応でもあの森を思い出してしまう。

 大きく息を吐いてから差し出した腕に、祐理が赤ん坊を慎重に受け渡した。両腕に重さを、続けて柔らかさを感じ、次第に温もりが伝わってくる。娘の精彩な生命は恐怖も不安も全てを消し去り、武志を慈愛で満たしていった。安堵で全身から力が抜けていく。

 武志がしっかり抱え直すと、娘の声量は少しずつ静まっていった。まだ涙を湛えながらも、固く瞑った目が徐々に開かれていく。

「パパに会えて嬉しいのね」

 祐理の声が、虚しく脳を通り過ぎて行った。家族の温かい視線を肌で感じる中、湧き上がってくる悲鳴を必死に堪える。目を逸らすことができない。畏怖。そして絶望。その想いが伝わったかのように、赤ん坊は黒目がちの大きな瞳で武志を見つめ、ニンマリと笑った。

原作:原作者はHERO-TAKAさんです(編集者注)


登場人物

・加賀 武志……三十四歳の男性。東京で商社勤務。実家には帰りたがらない。

・加賀 祐理……三十二歳の女性。臨月の妊婦。両親と不仲で父方の家で里帰り出産。

・加賀 悠斗……四歳の男の子。兄になる自覚が沸くが、まだまだ甘えたい年ごろ。

・永矢 恵里佳……十歳の女の子。悠斗と遊んでくれる近所の子。


オープニング

・武志は電車の中で眠り夢を見る。悪ガキと遊ぶ中で、自分のことを見つめる儚げな少女がいた。

・目を覚まし、電車から下りる。木造駅舎の改札の先は夏の田舎町。彼の故郷に戻ってきた。


第一章

・駅からの兄の車で実家へ。臨月を迎えた奥さんである祐理と息子の悠斗が出迎える。両親と兄の家族と自分たちで宴会がはじまる。

・悠斗と久しぶりにお風呂に入る。新しい友達ができたと言うので翌日紹介してもらうことになる。

・皆が寝静まった夜半、武志は祐理と話す。里帰り出産だが、みんなによくしてもらっているようだ。この子もこの家族の一員になるのね……と嬉しそうにお腹を撫でる。


第二章

・悠斗に連れられ恵里佳と名乗る十歳ぐらいの少女と会う。

・恵里佳と悠斗は遊び場に向かう。武志もついていくのだが、その途中でフラッシュバックが起こる。昨日見た夢と同じぐらいの子どものころ、悪ガキたちとどこかに向かっていた。後ろからついてくるのは、浮かない顔の女の子……。

・遊び場は古びた人気のない神社だった。恵里佳は「地面に足がついたら死んじゃう鬼ごっこ」というゲームを提案。子どもって死ぬとか簡単に言うな、と武志は思う。


第三章

・悠斗は大喜びで遊ぶ。恵里佳も楽しそうだ。

・やがて悠斗は疲れて寝てしまった。武志は恵里佳と話をする。やがて、恵里佳は自分が鬼になるから、追いかけてきて欲しいという。

・恵里佳が逃げた先は、大きな杉の木の枝の上だった。そこは昔、武志が近所の悪ガキと一緒に無理やり連れてきた少女を置き去りにしたところだった。

・少女は自分で下りられず、やがて落下し打ち所が悪く植物状態になっていた。

・武志は恵里佳と話している最中に地面に足がついたので地獄に落とされる。

・目覚めた悠斗が家族の幸せな家庭を彼女に願ったため、武志は地上に戻り、恵里佳は消えた。


エンディング

・数日後、祐理は無事に元気な女の子を産んだ。

・少し前に二十四年間の闘病の末、ひとりの女性が息をひきとっていた。

・武志が赤ん坊を抱きあげると、泣いていたはずの赤ん坊が嬉しそうに笑った。(終)

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