本を、貴方に 正午
佐倉さんは今日も、本を読んでいる。
休み時間特有の教室の喧騒から離れ、彼女だけの空間を作っている。窓際中央の列で本を読む佐倉さん。その佐倉さんを廊下側一番後ろの列で見る俺。見るだけの俺。本を読んでいるときの佐倉さんは、最高に窓際の席が似合う。何でなんだろう。不思議だ。奇跡だ。
「――――――おい」
いや、別に不思議じゃないか。佐倉さんだったらどこにいても可愛いもんな。逆に佐倉さんが窓際の席を特別なものにしているんだ。それにしても、本を読む佐倉さんは可愛さだけでなく、凛々しさも十割増しだな。
「―――おいって、聞いてんのかよ、中山」
不意に肩をどつかれる。
「いてーな。いきなり叩くなよ」
俺はむっと伊達を睨む。下品にも俺の机に半ケツで座っている。
「だってお前、佐倉ばっか見てて話聞いてねえじゃん」
教室の反対側まで届くくらいの、何の配慮もないボリュームだ。
「ばっか伊達、声でけえよ!」
俺は慌てて言いつつ、ちらと佐倉さんを見やる。伊達の大きな声が耳に入ってしまったからだろうか、丁度佐倉さんが振り返った。
俺と目が合った。
すると俺の視線は反発する磁石のように、廊下側に逸れてしまった。ああ、俺の馬鹿野郎。せっかく目が合ったのに、即逸らすやつがあるか。でもいいや。やっぱり可愛かったわ、佐倉さん。今日の残りの授業は今のだけで頑張れるな。ありがとう佐倉さん。好きだぜ。目を逸らして後、これを考えること実にコンマ0.2秒。おーい、帰ってこーい。呆れ顔の伊達に背中を叩かれた。
◇
「中山、お前なあ、いくらなんでも佐倉のこと見すぎだぞ。流石に露骨すぎるわ」
俺と伊達はバレー部の活動を終え駅へ歩いている。七月の午後七時。太陽が沈みかけ、二人の影が道路に長く伸びる。
「そんな見てないだろ。普通だよ、普通」
「普通じゃねえって、お前の専心っぷりは」
「専心って言うやつ初めて見たわ」
「そんなに好きならさっさとアタックしやがれってんだ」
「アタック?」
「共学の高校で、同じクラスに好きな子がいる。素晴らしいじゃないか。でも、その子を見るだけで満足してたら、本当に見るだけになっちまうぜ?高校生男子の春は短い」
「伊達お前、とうとう悟ったのか」
「ツッコミはいいからさ。何かアクション起こせよ。これはマジのアドバイスだからな」
そう言うと伊達は、またな、と駅前の小路を曲がっていった。伊達の家は高校の近くだから、あいつは電車に乗らない。俺は一人になり、改札を通る。・・・さて。
アタックとは何か。どうすればいいのか。ホームへの階段を上りながら俺は考える。
十七年間の人生において俺に彼女ができたことはない。即ち、アタックの方法が分からない。
ホームに出る。
まず何だろう。挨拶か?確かに挨拶は大事だよな。でも、挨拶なら既にやっている。登校した時に下駄箱の所で佐倉さんと一緒になることがあったら、内心狂喜しながらも「おはよ」とクールに言っている。
他に話すきっかけがないだろうか?
ぷしゅー。電車が来た。
無意識で乗り込む。
きっかけなら・・・ある。
部活の練習の帰り、伊達たちと駅へ向かうとき、前方に同じく部活の帰りらしい佐倉さんと(ちなみに佐倉さんは陸上部だ)、佐倉さんと仲よしの子が一緒に歩いていることがこれまでに何回かあった。しかし、残念ながら俺は、佐倉さんに追いついて「よっ。佐倉さん、おつかれ。また明日ね」と言える胆力までは兼ね備えていない。だからそんな時、俺は、佐倉さんを抜かさないようになるべくゆっくり歩くようにしているのだった。伊達たちに変な奴と言われながら。
・・・なぜそんな挙動不審になってしまうのか?
がくん。加速した電車が大きく揺れた。隣の仕事帰りらしいサラリーマンが慌てて吊り革に掴まる。
それは共通の話題がないからではないか?共通の話題があれば佐倉さんに話しかけられるよな。うん、そう思う。
でも共通の話題って何だ。もしや俺、佐倉さんのこと好きって言いながら、彼女のことあまり分かってねえ・・・・・?
俺は窓の向こうを右から左に移りゆく建物群を眺めつつ、小さく絶望する。吊り革を握る力が弱くなる。
否。一つ確かに分かっていることがある。しかも、これはかなり重要なこと。
――――――佐倉さんは、本が好きだ。
俺は、吊り革を再びぐっと握り締める。
間もなく電車は減速し、最寄駅のホームにぶるっと身を寄せた。ドアが開き、どやどやと人が降りる。俺も流れに乗る。
そしたらあれだな。佐倉さんと本の話をしてみよう。何か面白い本を見つけて、佐倉さんに「この本面白かったよ」とか言ってみよう。そうしたら佐倉さんといろいろ話せるようになりそうだ。
俺はわくわくしてきた。
スキップしたいような気持ちで階段を上る。その勢いのまま改札を通る。
しかしその直後、一つの大きな問題に思い当たり、足が重くなる。
「俺、面白い本知らねぇわ」
呟くと俺は、人の流れがまばらになっていく改札前で立ち尽くした。
ぽーんと、駅のホームが間抜けな音を放った。
◇
「なるほど。佐倉と本の話をしたいが、そもそも普段本を読まないから、どんな本が面白いのか分からなくて困っている、と」
腕を組んだ伊達が言う。
「なんでそんなに説明口調なんだよ」
「日頃の行いだな、中山。四六時中エロ本を読んでるからこうなる」
伊達は、ぽんと俺の肩に手を置き、聖母マリアのような慈しみの目で俺を見る。随分横幅の大きい聖母マリアだ。
「エロ本は読むだろ。男子高校生だぞ」
「すまん中山。俺はネット派だ。そして四六時中の方は否定しないんだな」
「そっちは確かに否定できなかった」
「いいだろう」
「何がだよ」
「まあ焦るな。ネット達人の俺から一つアドバイスだ。ネットには趣味嗜好を同じくする人たちが集まるサイトやコミュニティがあるものだ、そして」
「そして」
「エロ本じゃない本もいいものだぞ、中山」
◇
この伊達のアドバイスは確かに参考になった。俺は映画を観たら記録するアプリをスマホに入れている。これの本バージョンのアプリやサイトがあってもおかしくない。
早速調べてみた。そうしたら、あった。白地に緑の縦三本線のロゴ。「読書メーター」というらしい。
ここならおすすめの本を紹介してくれる人がいるかもしれない。ありがとう、伊達。俺は、早速ユーザー登録をすることにした。
名前はどうしよう。バレー部だからバレー要素入れるか。バレーは英語で谷だから、「中山」の山の代わりに谷。でも中谷だとなんか普通だ。中の殻を破る意を込めて外にしよう。外谷。アイコンはバレーボールでいい。適当だけど、これで登録。
さて、登録したはいいが、使い方が分からない。初めてなんだから当たり前だ。分からないなりにいじってみよう。とりあえず右上の横三本線がメニューだろう。タップ。いろいろ出てきた。みんなのつぶやき、相性、共読・・・分からん。下にスクロール。ランキング、読書家検索、コミュニティ・・・・・。―――コミュニティ?
確か伊達がコミュニティがどうとか言っていたな。タップ。すると「おすすめコミュニティ」や「新着コミュニティ」の表示。コミュニティ名には『さらに読書友達を求める会』『本屋大賞の本を読もう』などいろいろ。・・・どうやらそれぞれのコミュニティがテーマを持っているようだ。『○○への愛を曝け出す会』ってのがある。そんな語れるほど本を知らないから困ってるんだよな。『○○オフ会』ってのもある。直接会うのか?ネット上で知り合った人と?ちょっと想像がつかない。
そんな風に適当にページを漁っていると『おすすめの本ありますか?』というのを見つけた。目的や好きなジャンルを言ったら、おすすめの本を紹介してもらえるみたいだ。ここで聞くのがよさそうだ。
俺はそのコミュニティに入ることにし、すぐに質問を投稿した。
【男子高校生です。あまり本は読まなかったのですが、好きな人と話すきっかけにしようと、面白い本を探しています。おすすめの本を教えていただけると嬉しいです。】
いきなり「好きな人」なんて言っちゃって大丈夫か?とも思ったが、匿名だし、目的ははっきりさせた方がいいだろうから気にしない。よし、今日できることはこんなところだろう。よくやったぞ、俺。
◇
「なるほど。読書メーターを見つけたか」
翌日。俺は昨日読書メーターに登録したことを伊達に報告した。本の話になるとなぜか伊達は堂々とする。
「知ってたのか、伊達」
「ああ、俺もやってるからな」
「まじかよ」
思わず大きな声が出た。
一瞬教室の皆が会話をやめ、こっちを見る。
その視線の中には佐倉さんのものも入っていた。恥ずい。
「ネット上にはいろいろなアカウントがあるものだが、アカウントの持ち主は生身の人間だ。近くの知り合いがやってたっておかしくない。そんなもんだぜ。ネットっていうのは」
にやりとする伊達。キメ顔のつもりだろうか。
◇
学校から帰ると俺はベッドに寝転がり、読書メーターにアクセスする。そして、例のコミュニティのページを開く。俺の質問にコメントしてくれている人が二人いた。ちょっと嬉しい。コメントをしてくれたのは「マサムネ」さんと「桜」さんという方だ。ありがとうございます。俺は体を起こして姿勢を正し、合掌する。
心の準備をして、二人のコメントを読む。
まずマサムネさん。黒い眼帯のイラストのアイコン。伊達正宗が好きなのだろうか。
【好きな人と本の話をしたい。素晴らしい。青春ですね。丁度私の親友も同じような話をしており、外谷様とご縁を感じましたのでコメントさせていただきます。私からは五十嵐一誠著『孤高の読書』をご紹介します。この本では、読書で私たちが得られることについて著者の意見が明瞭・簡潔にまとめられています。外谷様はまだ読書をそんなにはされていないとのことですが、この本を読まれたらもっと読書に興味を持っていただけると思います。その上で、僭越ながら私の意見を申し上げますと、好きな方とお話をするための本はご自分でお探しになるのがよいかと思います。自分で見つけた本を相手にご紹介して、相手にそれを気に入ってもらえることは無上の喜びですから。外谷様とお相手様が関係を深められることを陰ながら願っております。】
なんだこのめっちゃ丁寧な人は。聖人オーラが半端ない。実際に会ったら緊張しちゃいそうなレベルだ。でもそうか、やっぱり面白い本は自分で見つけるのがいいのか・・・。俺はちょっと落ち込む。
次に桜さん。薄桃色の桜の花びらの写真がアイコンだ。素朴で可愛らしい。
【はじめまして!私からは、環史代さんの『わたがし』をおすすめさせていただきます。高校生が主人公の短編小説です。あまり詳しくは言えませんが、高校生ならではの甘酸っぱさと切なさ、爽やかさがあってとても素敵な本です!長編ではないので、お気軽に読んでいただけると思います!本で好きな方とお話しできるといいですね。応援してます!】
桜さん、元気そうな人だなあ。それに俺のこと応援してくれるって。いい人なんだなあ。
『わたがし』、か。面白そうだ。これを読んでみよう。マサムネさん、すみません。マサムネさんに教えてもらった本は、もっと本に慣れたら読んでみます。
◇
俺はすぐに自転車を走らせ、家の近くの書店に向かった。普段は行かないが、これぞという本についての品揃えはいいと聞いたことがある。店に入り、慣れない小説のコーナーに足を踏み入れる。た、た、た、た。口の中で著者・環史代の頭文字を発しながら、本棚を一つずつ舐めるように見ていく。
・・・・・それは、ハードカバーのコーナーにあった。黒色の側面に、「わたがし」のほっそりと白い文字。厚さは三センチに満たないだろうか。並んでいる本の中では薄めの方だ。そっと引き抜く。
表紙はぬらりと吸い込まれそうな黒地。そこに赤、緑、青、それぞれ原色の花火が描かれている。花火は店の蛍光灯の光をしっとりと反射し、不思議な光沢を放つ。指で火の線をなぞる。微かな凹凸が感じられる。・・・本の表紙ってこんなに凝ってるんだな。すごくきれいだ。俺は新しい発見に胸を高ぶらせ、本を片手にレジに向かった。
◇
土日で噛り付くように読み、読破した。『わたがし』は面白かった。
主人公は女子高生。彼女は進路に悩み、自分の思いと世間のズレとの間で葛藤し、もがいていた。そして精一杯に不器用な恋をしていた。まさしく青春だった。主人公と性別は違えど、これは俺だと思うこともあった。くだらないことや俺より悩んでいると思うこともあったし、一方で喝を入れたくなることも数え切れないほどあった。読んでいて感情を揺さ振られた。たったこれだけの、両手で持てる量に過ぎない紙の中に、こんなにも広がる世界が秘められていたということに、ただただ驚いた。
そして、俺は思った。
――――――佐倉さんにも読んでほしい。
◇
「俺、佐倉さんデートに誘う」
月曜日の朝、授業が始まる前に俺は伊達に表明した。
「まじか。思い切ったな」
「今、俺は青春の中にいるから」
伊達の右眉がピクリと上がった。
「青春。いい言葉だ。素晴らしいな」
「ああ、これは青春だ」
「頑張りやがれ」
伊達は満足げに言った。
◇
その日の昼休み。意を決して、俺は佐倉さんの席へ向かう。
「あの、佐倉さん」
震える声で、佐倉さんの右前から声をかけた。
佐倉さんの肩がびくりと動く。本から顔を上げて俺を見る。上目遣いの瞳には驚きの色。
「ごめん、読んでる邪魔しちゃって」
佐倉さんは首を横に振って、読んでいた本を閉じる。
このまま話して大丈夫かな。そう信じる。そうであれば。行け、俺。
「佐倉さん、本、好き・・・だよね」
つっかえながらの俺の言葉。・・・・・・佐倉さんはゆっくりと頷いた。
頷いてくれた。
それならば・・・・・。
行け、俺。行け。
「佐倉さんに、本のこと、教えてほしいです。よかったら、今度、一緒に本屋に行きませんか」
言い切った。
佐倉さんは顔を伏せた。
俺はもう何も考えない。
ただ佐倉さんの言葉を待つ。
背中をじっとりと汗が伝う。
「うん・・・・・いいよ」
佐倉さんの声だった。
聞き間違いじゃ、ないよな。
ゆっくりと反芻する。
言葉の意味をなぞる。
そして、俺は、ガッツポーズをした。そりゃもう、両手で。
◇
俺が佐倉さんを本屋に誘った週の土曜、午後一時四十分。待ち合わせの二十分前。
この日のために俺は、恋愛経験及びそれに伴う知識がないに等しい脳みそを振り絞って、プランを練った。舞台はシャンク堂書店池袋本店。俺の高校の沿線で最大級の本屋だ。
今日俺が目指すは、佐倉さんの好みを知ること。本屋中のありとあらゆるジャンルを巡り、彼女の「これ好きなんだ」の言葉を聞き逃さないこと。そして、それらをあまねく網羅し、日を改めて本を購入し、余すことなく読み、ゆくゆくは彼女とそれらの本の話をできるようにすること。
そして、今日のデートの終わりでは、佐倉さんにプレゼントをする。俺のために時間を割くことを決めてくれた佐倉さんへのお礼だ。プレゼントは、『わたがし』。なぜならこれが、俺が知る唯一の、しかし間違いなく面白いと思った本だから。きっと楽しんでもらえる。
かくして俺は鞄の中に二冊目の『綿菓子』を秘め、シャンク堂の入口で佐倉さんを待つ。伊達、俺はやるぞ。桜さん、マサムネさん、俺、頑張ります。俺は合戦場に赴く伊達正宗よろしく兜の緒を締める。
午後一時五十五分。・・・・・佐倉さんが横断歩道の向こうに現れた。その瞬間を俺は見逃さなかった。見逃すはずがなかった。だって、可愛い。紺色のワンピースに麦わら帽子。私服姿の佐倉さんだ。これってまじか。
佐倉さんが俺に気付いた。照れたように手を上げ、さりげなく振ってくれた。俺は嬉しさ故の笑いを堪え切れず、だらしなくなってしまった顔のまま手を振り返す。信号が青になった。佐倉さんが近づいてくる。紺色のワンピースが、彼女が歩くのに合わせてふわふわと揺れている。可愛い。可愛いぞ、佐倉さん!
「おはよ、中山君。ごめん、待たせちゃった?」
最後少し駆け足になった佐倉さん。息がはずんでいる。
「全然!俺も今来たとこだよ!」
よかった、と佐倉さんは笑う。そして建物を見上げて言った。
「池袋のシャンク堂、久しぶりに来たけどやっぱり大きいなあ。中山君もここ来たことあるの?」
「いや、俺は本そんな詳しくないから、調べてみて、ここがいいかなって」
「調べてくれたんだね。ありがとう」
佐倉さんがにこっと笑う。戦の末、今日俺がここで倒れたとしても、俺は成仏できるに違いない。しかし成仏するにはまだ早い。佐倉さんとの本屋デートはこれからだ。・・・よし。
「それじゃあ行こうか」と俺。「行こ!」と佐倉さん。
一緒にドアをくぐった。
◇
一階は本の陳列が凝っている。売れ筋だったり、書店が押し出したい本だったりするのだろうか。「お酒と本」というコーナーがある。お酒の図鑑のような本や、お酒が登場するであろう小説などが壁一面にずらっと並べられている。まるで博物館みたいだ。
二階へ上がると、ここにもキャンペーンのような台。「夜空と星の俱楽部社」の創業50周年フェアとの台紙がある。星座の本や夜空の写真集が平置きされている。台の脇には天体望遠鏡まである。ここだけの話星空観察に興味のある俺は、興味深く見てしまう。佐倉さんはこのコーナーの隣にあるブックカバーと栞売り場に夢中だ。なぜか本屋で天体望遠鏡を買いたくなってしまった俺は、早くここから離れなければと佐倉さんに頼み込み、エスカレーターへ。いろいろあるね、面白いねと言い合う佐倉さんと俺をエスカレーターは三階へ運んでいく。
三階のお出迎えは平台に置かれた本。見るとカタカナの作者。外国文学だ。すごい配置だと驚きつつ左折。するとフロアが見渡せ、小説が収められた本棚がずらり。まさに無数の小説。壮観だ。表紙が通路側を向くように陳列された本棚もある。そこに並ぶ本にはことごとく帯が巻かれている。それぞれの帯には芥川賞や直木賞、本屋大賞など、どこかで聞いたことのある気がする賞の名前が堂々と載っていて、自らの存在を誇示している。本棚のあちこちには、店員さんが手書きで本を紹介した紙が貼られており、本棚の脇には有名であろう作家先生方のサインが所狭しと並べられている。まるで紙と文字でできた密林だ。
「すごい」
俺は呟かずにはいられなかった。
「すごいね。こんなにもたくさんの本・・・・・」
佐倉さんの言葉に、俺は頷く。
「でもね、私、本屋さんは好きだけど、ときどき嫌にもなっちゃうんだ」
「嫌?どうして?」
佐倉さんの口から発せられた意外な言葉に俺は驚いた。
「来るたびに、素敵な本はこんなにたくさんあるのに、私の人生じゃその中の、ほんの、本当にほんの一部にしか触れられないんだなって思っちゃうから」
俺と佐倉さんは、鬱蒼と茂る本の森をゆっくりと進む。
「そうか。佐倉さんみたいにたくさん本を読む人でもそう思うんだね」
「本を読むからっていうのかな。読めば読むほど、その世界の果てしなさに気が遠くなっちゃうの」
「確かにこれは果てしない気がする」
「ね。悲しくなるくらい」
たまたま読んだ本を好きになるのは、すごいことなのか。俺はむさぼり読んだ『わたがし』のことを思う。
「それでも、そんな中で面白いなって思える本を見つけられたらいいよね」
「うん。だから、本を全部読むことはできないけど、一冊の本を読んで、その本が素敵だったら、とにかくその一冊に、自分の手元に来てくれてありがとうって感謝するんだ」
「一期一会だね」
「本当に」
果てしない本の世界で、佐倉さんが出会ってほしい本がある。
「俺、全然小説読んだことなかったんだけど、最近面白い本を一冊見つけたんだ」
「本当?なんていう本?聞かせて!」
佐倉さんの声が上擦る。今にも話したくなる。
だけど、その本の名前を伝えるのは今じゃない。
「まだ秘密。今度、教えるよ」
今日、この後にね。俺は心の中で言う。
じゃあ、その時を楽しみにしてるね。佐倉さんがはにかんだ。
その直後。
「あ!」
佐倉さんがぴたりと歩みを止めた。
「何かあった?」
俺は佐倉さんの横顔を見る。
「これ、私が一番好きな本」
佐倉さんの右手人差し指が、本棚の一点を指し示している。
「た」から始まる小説家の辺り。佐倉さんの近くに寄り、目を凝らす。作者名、「高宮修」「滝瀬こずえ」・・・・・・・・「環史代」。
環史代さん?
俺は、知らない人ばかりの集まりで、偶然、友人に出会った感覚を覚えた。しかし、その友人に会うタイミングは今であってほしくはなかった・・・。さらに「環史代」の文字の上方向にゆっくりと視線を移していくと・・・・・「わたがし」の文字。
それは、俺に本の面白さを教えてくれた本。読書メーターで桜さんがおすすめしてくれた本。そして、俺が今日のデートの終わりに佐倉さんに渡そうとしている本に違いなかった。
――――――足元がくらりとした。
「この本、すっごく好きなんだ」
本を抜き出し、大切そうに手に取って佐倉さんが言う。
「中山君にも読んでほしいな」
屈託の欠片もない佐倉さんの声が、随分遠くの方から聞こえる。
そうなんだ、佐倉さんのおすすめの本なら絶対に読むよ。抑揚のない返事はうわ言のようだった。今のセリフ、俺が言ったのか?・・・なんて、どこか他人事のように思う。
目の前にいる佐倉さんを差し置いて、俺は考え始める――――――。
まず、今判明したことを整理しなければいけない。即ち、つまり・・・。俺がプレゼントに用意していた本を、彼女は既に読んでいた。以上、終了。非常にシンプル。
さらに現状として、彼女に俺の好きな本の名前は言ってない。今日プレゼントを用意していることも。だから、それらを言わずに今日を終えても多分、何の問題もない。また後日面白い本を探して、シャンク堂の時に言ってた俺の好きな本はこれなんだ、と別の本の名を言うことも十分可能だろう。無理に今日、彼女が読んだことのある本を渡したって、困るだけだろう。・・・・・・・・今日は渡すの、やめようか?
そこまで考えが至ると俺は、はっとした。頭を振る。今のようなせこいことを考えるために、俺は佐倉さんを本屋に誘ったわけじゃない。佐倉さんのことを少しでも知るために勇気を出したんだ。
顔を上げると、佐倉さんがきょとんとして俺を見ている。彼女を見て俺は思う。だから今はとにかく、佐倉さんと一緒にいるこの時間を、佐倉さんと楽しむことを、考えるべきだ。プレゼントのことを考えるのは、今じゃない。
ふーと息を吐いた。「『わたがし』のこと、後で教えてよ」と俺が言うと、佐倉さんは「もちろん」と笑って、本を棚に戻した。俺と佐倉さんは、また歩き出した―――――。
その後も、たっぷりと建物中を見て回った。いろいろな本があった。円周率の数字が全てのページにびっしりと書かれている本を見つけて笑い合った。ここ綺麗だねと、ファンタジーのような風景を集めた写真集を眺めた。靴磨きの本を見つけたら、俺が毎月革靴を磨いていることを話し、まめだねと佐倉さんに褒められた。レシピ本を見たら、彼女が最近手作りピザを焼いた話を聞いた。旅行本を見たら、どこに行ったことがあるか、これからどこに行きたいかをお互いに話した。いろいろな世界がここに秘められ、ここから広がっていた。その世界を、その入り口を、佐倉さんの言う通り「ほんの一部」、佐倉さんと分かち合うことができた。
◇
午後五時。シャンク堂巡りを終え、建物を出た。太陽は西日になっており、暑い。歩きすぎて俺も佐倉さんもちょっとくたびれていた。一息つくために喫茶店に入る。戸を開けると、りん、と鈴の音。アンティークで落ち着いた雰囲気。涼しい。カウンターの席に腰かけると俺はホットコーヒーを、佐倉さんはアイスコーヒーを注文した。
そこで、彼女が好きな本の話を聞いた。
好きな小説家は環史代。日常を丁寧に見つめ、こまやかに縁取っていく。そんな環さんが織り成す優しい言葉に包まれるのが好きなのだという。楽しそうに話す佐倉さんの瞳は、お店の琥珀色の照明を反射し、きらりと光っていた。その瞳を見て、俺も佐倉さんと、環さんの本の話をしたいと思った。
お待たせしました、と店員さんが2つのコーヒーをテーブルに置いた。
一口飲む。苦みが口に広がる。熱さが喉を伝い、胸にまで浸みていく。カップをテーブルに置くと、俺は言った。
「実は俺も、環さんの『わたがし』読んだんだ。それで、俺も好きなんだ、『わたがし』」
「え」、と佐倉さんの声。
ああ、今の今まで嘘をつくような態度をとった俺を、彼女は怒るだろうか。軽蔑するだろうか。
「中山君も読んだんだね。いいよね・・・環さん」
覚悟していた返事とは異なり、その声音は親密さに満ちていた。
彼女は右手でストローを柔らかくつまみ、アイスコーヒーをくるくると回す。指が細い。グラスに高く積まれた氷が崩れ、からん、と涼しげな音がした。
俺は、浮かんでくる思いをゆっくりと話していく。
「環さんの文章・・・優しくて・・・・・環さんの思いやりが、話全体に滲んでいる感じがして。すごく、いいなって・・・」
佐倉さんはストローから手を離し、穏やかな目で俺を見た。
「私も環さんの書くお話の、そういうところが好き」
その中でも私にとって、今日お店で中山君に見せた『わたがし』は特別で・・・。佐倉さんが、言葉を紡ぐ。
「やることが全部裏目に出て、何もうまくいかないことがあったの。辛くて、元気なんて出しようがなくて。そんなときに読んだんだ。本屋さんで、表紙を見て。いいなって思って」
「表紙で・・・」
「うん。きれいだよね、花火がきらきらしてて」
俺は頷く。佐倉さんは微笑み、続ける。
「読んでみたら、環さんと、話の全部に寄り添ってもらっている感じがしたんだ。それは、無理に元気出せよっていうんじゃなくて、ただ側にいてくれいる感じだった。そうしたら私・・・落ち込んではいるんだけど、ほっとしたんだよね。ああ、この本のおかげで、私は大丈夫になれるぞって・・・」
佐倉さんはそこまで言うと、ほっと息をつき、アイスコーヒーを飲む。グラスに結露した水がテーブルへぽとりと落ちる。
「そうなんだ・・・。俺は『わたがし』読んで、なんか・・・熱くなった。本ってすげーなって、思ったよ」
この本のおかげで今日、貴方と一緒に過ごすことができた。とは、言えないけど。
「中山君はどうして読もうと思ったの?」
「人に教えてもらったんだ。・・・・・教えてくれた人も『わたがし』すごく好きそうだった」
「その人と私、仲良くなれそう」
ふふ、と笑う佐倉さん。
「教えてくれたのは、中山君のお友達?」
俺は一つ首を振る。
「ネットで知り合った人。読書メーターっていうサイトがあって、そこでおすすめしてくれた」
そう言うと、なぜだろう、彼女は俺の両目をしかと見、息をのんだ。そして、目を細めて、
「私、うれしいな。中山君が『わたがし』読んでくれたの」
と言った。
その言葉を聞いて俺は、思った。
今日だ。この本を贈るのは。
「渡したいものがあるんだ」
俺は口を真一文字に結び、鞄から、それを取り出す。
「佐倉さんに」
両手で彼女の前に差し出す。
リボンで口をきゅっと締めた、緑色のラッピング袋。
「ありが・・・とう」
佐倉さんが、ゆっくりと、両手で受け取る。
開けていい?―――――うん。目でのやりとり。
彼女がリボンをほどく。袋から、そっと中身を取り出す。
現れたのは、黒地に色鮮やかな花火の装丁。
『わたがし』。
彼女の手元で、オレンジ色の照明に装丁が煌めく。漆黒の夜空に咲く、大輪の火の華。
佐倉さんは本を手に持ち、じっと見つめる。
「ごめんね・・・・・佐倉さんが読んでたって、知らなくて」
決まりが悪く、俺は苦笑いしながら言う。
ぽーっと表紙を見ていた佐倉さん。
すると、違和感がある手触りに気付いたのか、本を引っ繰り返す。
背表紙には、マスキングテープで留めたメッセージカード。
【あまり本を読まない俺に、読書って楽しいと思わせてくれた本です。佐倉さんにも読んでもらえたらうれしいです。佐倉さんとこれからも、本の話とか、他にもいろいろな話をしたいです。今日はありがとう。 中山】
「俺の、気持ちです」
伝えた。
佐倉さんが、顔を上げる。
「ありがとう。とっても・・・うれしい」
彼女は胸の前で本を抱え、笑った。
◇
家に帰って、ベッドにダイブ。布団に顔をうずめ、今日の出来事の余韻に浸る。本屋巡りは楽しかったし、プレゼントも多分うまくいった。頑張った、俺。
やったぞ、伊達。ありがとう、桜さんとマサムネさん。
――――――そうだ。コミュニティで二人に報告とお礼を言おう。
俺はベッドに仰向けになり、読書メーターを開く。左手にスマホ、右手でスワイプの構え。このスタイルも板に着いたなあ・・・なんてぼんやり思っていると、ホーム画面に初めて見る表示があった。
「新着メッセージが一件あります」
何だろう、これは。読書メーターにメッセージ機能があるのか。
訝りながら、タップする。
未開封のメールマーク。差出人は桜さん。タイトルは「外谷さん(中山君)へ」
俺の名字だ。どうして桜さんが?心臓が、ばくんと鼓動する。緊張しながら、メッセージを開いた。
【今日はシャンク堂楽しかったよ。『わたがし』ありがとう。これからもたくさん本おすすめするから、たくさんお話ししようね! 佐倉】
俺は顔上のスマホ画面を凝視し、そのまましばし静止。
そして、両手で無言のガッツポーズ。
ごつん。
手の支えを失い、自由落下したスマホがおでこにぶつかった。
俺の視界で花火がはじけた。
原作:原作者は こむこむさん です(編集者注)
【起】登場人物は、本はあまり読まない男性と、本を読むのが大好きな女性、他。好きな本のジャンルや二人の関係はおまかせ(初対面ではない)。男性は女性が読書好きなことを知っている。
【承】男性から女性に(サプライズで)本をプレゼントすることを思いつく(できれば自然なシチュエーションで)。男性は本は詳しくないので、SNS(読書メーター)でアドバイスをもらうことにする。すると、ある女性ユーザから1冊の本を激推しされる。男性が紹介された本を購入して読んでみるととても面白く、その本をプレゼントすることにする(プレゼント用にも購入)。
【転】プレゼントする当日(誕生日でも記念日でもデートでも面会?のときでも可)、男性から女性にプレゼントを渡す。女性はありがとうと言い、その場で包みを開けると…(女性が読んだことのある本。心当たりがないこともない。実は男性に本を紹介したユーザは彼女だった。)
【結】おまかせー(ネタばらしをして笑い飛ばしても良いし、機転を利かせて切り抜けても良い。二人の馴れ初めのエピソードということにしても良いし。とにかくハッピーな終わり方で)。