失われた私を求めて ヤギ郎
1 Prague, Czech: recall
市内に新築された劇場を待ち合わせ場所に指定された。一世紀以上の歴史があるこの劇場は、ある日突然その歴史の幕を閉じた。十年前の事件によって建物が倒壊したのだ。それから時が経ち、再建工事も行われて、いよいよ来週に開館式が予定されている。新聞は劇場の倒壊から再建までの十年を「忘れられた十年」と呼んでいた。
連れてきた部下を劇場の入口で待たせて、私はガラス扉を押し開けて、劇場の中へ入った。赤い絨毯が敷かれ、天井には大きなシャンデリアがある。レセプションやクロークの周囲には開館準備に追われている劇場職員がいる。彼らは私を一瞥しただけで、すぐに仕事に戻った。私は彼らの視線に気にせず、そのままメイン・ホールへと続く中央階段を上がっていく。咎められた場合は、身分証を見せて謝ればよいだろう。
防音仕様の重い扉を開けてホールの中へ踏み入る。出入口は客席の一番高いところに設置されていて、ここから客席を一望できる。ホール内の電灯は薄く点灯していて、淡い光を放っていた。開館前の誰もいないホールは静かで寒かった。ゆっくりと客席の間の階段を下りていく。自分の呼吸音や段差を踏む足音がホール内を反響して、木霊のように響いている。
長い階段を最下段まで降りる。遠くからはそれほど大きく見えなかったステージは、近づいてみると、段差の高さが一メートル五十センチほどあった。短い助走をつけてから跳躍し、一気に舞台に上がる。勢いよく飛んだことにより、ジャケットの裾が捲れてしまった。片手で直しつつ、ステージの中央まで移動する。ここから、客席の全てを見渡せる。
十年前のことを思い出す。私は前から三列目、中央に近いところに座っていた。その席で私は、劇場に溢れていた歓声や激情を感じていた。ステージに目を向けば、そこには母がいて、左を向けば彼女がいた。
私はそってしゃがみ込んで、黒く塗りたてのステージを触れた。
ステージは冷たかった。
2 Prague, Czech: meeting
「赤音さん、赤音……中尉、時間です」
部下の声で現実に引き戻された。ステージの下にはスーツをきっちりと着た少女がいた。
「悪い、ぼうっとしていた」
ステージを軽々飛び降りた。
「まったく、ふらふらと歩き回らないでください。劇場の人に『スーツを着た女性が入ってきませんでしたか?』って聞くの恥ずかしかったんですから」
「悪かったね、篠子」
「これから重要な会議なんですから、しゃきっとしてください」
「はーい」
劇場職員の視線を浴びつつ、劇場から出た。正面には黒塗りの高級車が止まっていた。助手席から黒服の男が降りてきた。篠子はその男にちらっと身分証を見せたところ、男性は後部座席の扉を開けた。
「乗ってください、赤音さん」
私と篠子はすばやく車に乗り込み、男によって扉をしっかり閉められた。男は周囲を一瞥し、助手席に乗り込む。それを確認した運転手はすばやく車を発進させた。
劇場から十分ほど走ったところで、低層ビルの地下駐車場へ入った。助手席の男が先に車から降りて、後部座席の扉を開けてくれた。篠子、私の順で車から降りた。外には、別な黒服の男が待機していた。彼に促されて、私たちはビルの中へ入った。
男を先頭に私たちは建物の三階まで移動した。どうやらこの建物には複数の企業が入っているようだ。会議室の並ぶフロアで男は、ある部屋の扉を短くノックをした。それから部屋の中と外で数回やり取りをしてから、内側から扉が小さく開いた。
私と篠子は素早くその隙間に入った。
案内された部屋は中型の会議室で中央のテーブルを十脚の皮張りのイスが囲んでいた。正面の壁には液晶テレビが設置されていた。テーブルには三人の男性が着席していて、部屋の奥にいた二人の黒服がいた。ここまで案内してくれた黒服と扉を守っていた黒服を合わせると、ここには黒服が四人いることになる。
「お待たせして申し訳ございません」
テーブルに着席していた三人の男性のうち、中央の男性が立ち上がった。
「こちらこそ、手間をとらせました」
私は立ち上がった男性の向かいのイスに腰を下ろす。篠子は私の左後ろに控えた。
「平和交渉の仲介に応じていただきありがとうございます」
男は恭しく頭を下げた。
「私は命令に従っているまでです。それに、私たちはあくまでも交渉の代理人であって、まだ平和が実現されたわけではありません。お礼は後日にとって置くとよいと思います」
「そうですね。噂はかねがね耳にしておりましたが、あなたにお会いできて光栄です」
「私のことをご存じでしたか?」
「ご存じもなにも、戦場ではあなたの噂で持ち切りですよ。『名もない少女たち』を率いる国連機甲科部隊、赤音・ディートリヒ・ライト中尉」
現在の国際連合《United Nations》には、陸・海・空・宇宙・情報の5つの直轄軍がある。そして、情報軍には義体化した戦闘員で構成された機甲科大隊がある。
「私たちがなぜそう呼ばれているかご存じですか?」
「…いいや」
「…」
黙り込んだ私を見て、男は篠子に視線を向ける。
「あなたも機甲科隊員かな?」
篠子は表情を変えずに男を見返す。
「本題に入りましょう、副議長」
「うん」と言い、男は言葉を続けた。
「我々スラーヴ・プロテスタント民主同盟は、国連を通じてクルーアン共和連合に平和交渉を申し入れたい」
男は一枚の厚紙を差し出した。そこには英語とロシア語で平和交渉を申し入れる旨とスラーヴ・プロテスタント民主同盟の議長、軍司令官の署名が記されていた。受け取った紙片に素早く目を通し、後ろに控えていた篠子に手渡す。
「拝見いたします」
篠子も紙の中身に目を通し、裏も確認する。
「問題ありません」
篠子の右目は義眼で、紙幣の偽造を見分けられるくらい高性能である。本部のサーバーに登録されている議長と軍司令官の署名を照合したのだろう。
「平和交渉を開始する条件として言われたものも持ってきた」
副議長はテーブルの下から、大きなブリーフケースを取り出した。
「全てを用意することはできなかった。人口と軍の人員については、調査をしていないので、二年前の国勢調査の記録を添付した。外資関係の債券は私が出発するまで保管していたものを全て持ち出した」
紛争をはじめるために必要なものは、一も、二も、「お金」だ。現代の戦争は全て「お金」から始まると言っても言いすぎではない。お金があれば、武器も弾薬も人員も買える。お金が必要になれば、お金を借りればいい。今でも儲けるために紛争地帯に出資する人たちがいる。そういう人たちがいるから戦争が無くならないんだ、と言った評論家がいた。
平和交渉を行うためには、その国や地域の経済社会情勢を知らなければならない。外部からの情報だけでは足りず、こうして関係者から内部の情報を収集することもある。
受け取ったブリーフケースを篠子の前に置く。篠子は手首に嵌めたデバイスをブリーフケースに当て、電子錠を解除する。OPENと印字された赤いボタンを押すと、ぱかっとブリーフケースの口が開いた。中身を確認した篠子は、「問題ありません」と短く答える。
「平和交渉の申し入れと書類の受け渡しはこれで以上となります。今後、国連直轄情報軍はスラーヴ・プロテスタント民主同盟の代理人としてクルーアン共和連合と平和交渉を行います。今後、クルーアン共和連合が平和交渉の代理人として国連を指定した場合は、内部にファイアウォールを設置して交渉を行います」
ファイアウォールとは利益相反の防止や不正な取引を規制するために設けられている施策で、部署間の情報を遮断する手続きである。
「わかりました。どうぞよろしくお願いいたします」
対面する三人の男たちは深々と頭を下げた。
立ち上がろうとしたところで、首のNCIを通して脳内に直接情報が流れてきた。本部から速報だった。ウェブブラウザを立ち上げて、世界最大手の情報配信会社のホームページを開く。同じタイミングで副議長はポケットからキーボード付きの小型デバイスを取り出した。画面を一見しただけで、悲痛な表情を浮かべた。両脇にいる仲間にロシア語で囁きかけた。
「空爆ですね?」
副議長と目が合ったところで、私は短く問いかけた。彼はうんと短く頷き。
「私たちの国、故郷を救ってください。お願いします」
彼らは再度頭を深く下げた。
私と篠子は会議室を後にした。行きと違い、私のジャケットの内ポケットに副議長からもらった申し入れ書が入っていて、篠子の手にはブリーフケースが握られていた。
「悲惨ですね」
篠子は本部から送られてきたニュースのことを言っている。
「時間が無いということさ」
私たちが会議室で儀式的な手続きを行っている間に、クルーアン共和連合によってスラーヴ・プロテスタント民主同盟の3都市が空爆された。
「私はこれからプラハの国連事務所へ行きます」
「了解した。気をつけてね」
私たちの仕事はこれからだ。受け取った書類を速やかに指定の部署へ運搬しなければならない。この過程で平和交渉を良く思わない人たちが妨害してくる。だから、書類の受け渡しは秘密裏に行われ、私や篠子のような軍人が“運び屋”に任命された。
「赤音さんも気をつけてください」
篠子はブリーフケースを国連の駐在所へ運び、そこで中身のコピーをとってから、パリの国連欧州拠点へ送る。私は宿泊したホテルに戻り、部屋に置いたままの荷物を回収してからプラハでのバカンスを楽しんでいる部隊の後輩と合流する。そして二人でヴァーツラフ・ハヴェル国際空港へ行き、情報軍本部のある東京へもどる。
ビルの前にはプラハ事務所が用意した黒塗りのセダン車が止まっていた。篠子はブリーフケースと共に、その車に乗り込んで走り去った。残された私は徒歩でホテルへ向かった。
3 Prague, Czech: chase
ホテルの部屋に戻り、スーツから普段着に着替えて荷物をまとめる。それからフロントでチェックアウトをし、時間までホテルのロビーでくつろいでいた。
「赤音さん」
キャップを被り、半袖と短パン姿の少女が目の前にいた。
「遅かったね」
「まだ時間前っすよ」
キャップの鍔を上にあげて表情を見せたのは、部隊の後輩である涼葉・クリスティ・ターダネル一等兵曹だ。
「行こう」
ソファから立ち上がる。
「赤音さん、荷物それだけっすか?」
私が肩に襷掛けをした小型のスポーツバッグを見て涼葉は尋ねた。
「うん。涼葉もそれだけ?」
「フットワークが軽いことが私の取り柄ですから」と涼葉は背中に背負ったリュックをパンパンと叩く。
一週間のバカンスにしては荷物が少ないように思うが、特殊部隊の人間と思えばそれほどでもない。
「お土産類のほとんどは送っちゃいましたよ」
二人揃ってホテルから出る。
「まだ少し時間がありますから、観光しましょう」と涼葉はカレル橋のほうへ歩き出した。
涼葉の土産話(?)を聞きながら、石畳の通りを進んでいく。
「カレル橋で石像を眺めていたら、変なおじさんに声をかけられて……」
「涼葉」
「わかってます、赤音さん」
涼葉も気が付いていた。
――後をつけられてますね。
涼葉は首に巻いたチョーカー型デバイスであるニューロ・コネクティング・インターフェイス(NCI)を介して通信する。NCIは首の後ろのアクセス・プラグに接続することで脳とネットワークを直接繋ぐことができる。情報軍機甲科大隊に所属するほとんどの兵士はアクセス・プラグのインプラント治療を受けている。
――人気の少ないところへ行こう。上空を飛んでいる飛行ドローンのアクセス権を渡す。
――中尉と違って、私、飛行ドローンの扱い苦手なんですよ。
――私が支援するから、必要な時に映像を見て。
――了解っす。
――それでは、行くよ。
私と涼葉は大通りから人の少ない通りへ入る。
――これ、中尉の件ですか?
――そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
私と篠子が副議長らと会談する三時間前に、国連情報軍はプラハ上空に四台の飛行ドローンを放出した。その内の二台は私と涼葉の上空を飛んでいる。ネットワークを通してドローンにアクセスし、私たちを追跡している人たちの様子を探る。
――中尉って器用っすよね。
ドローンから送られてくる映像を見ながら、複雑に交差する路地を歩くこと、その両方を全て脳内で行っていることを言っているのだろう。
――無駄口叩かないで、次の路地を曲がったところで仕掛けるわよ。
――武闘派ですね、中尉。
――白黒をはっきりつける人と言って欲しいわ。
肩や手首を回して、仕掛ける準備を始める。私たちを追っている人たちは一人から三人へ増えたり減ったりしている。今はだぼだぼのパーカーを着た一人の青年だ。彼はこれから私たちに殴られることを少しも想像していないだろう。
そういうわけで、私たちは哀れな青年に完璧な不意打ちを喰らわせることができた。
私たちが角を曲がったところを見て慌てて追ってきた青年に、私は彼の鳩尾に一発くらわせ、彼が怯んだところで涼葉は彼の脇腹に蹴りを入れた。
「あっけなかったっすね」
うんと私は頷く。うつ伏せに倒れている青年を仰向けにする。それから、彼の顔面を会話ができて、出血しない程度に殴った。あまり殴りすぎると鼻や擦り傷から血を流してしまう。その血がうっかり私に付着するおそれがある。特殊部隊の隊員であれば血の痕跡を消すことは、リサイクルのためにペットボトルの包装紙を剥がすくらいめんどうで手間のかかることである。
何発か殴ったところで彼に尋ねた。
「君は何者?」
「お、俺はただ頼まれただけだ」
これ以上長居すると彼の仲間がやって来るかもしれない。
「採取して」
「了解です」
涼葉は自分のリュックから手のひらサイズのデバイスを取り出し、青年の左目、右目の順に当てた。それから、デバイスを操作して彼の青く腫れた顔面を撮影した。最後に彼の人差し指にデバイスを当てた。涼葉は青年の網膜、顔写真、血液型を採取したのだ。
「完了しました」
「行こう」
ボロ雑巾のようになった青年を離そうとしたところで、彼のパーカーから銀色のペンダントが落ちた。
「これ君の?」
「違う! それをあんたに渡すように言われていて」
私は地面に落ちたペンダントを拾う。
――赤音さん。
涼葉は「早く行こう」と目で訴える。
「これ、貰っておくわ」
そして、青年を路地の隅に放った。
「それ、持ち帰っていいんですか」
青年を殴った現場から急いで移動した。行き先はプラハ近郊にある、ヴァーツラフ・ハヴェル国際空港。
「問題無いと思う。何かあれば空港で処分すればいい」
私のジャケットのポケットにペンダントが仕舞われている。
空港までの道すがら、尾行をされることはなかった。さっきは何事だったのだろう、と疑問を抱かないこともないが、無事に空港にたどり着いた。
「さあ、東京へ帰ろう」
4 to Tokyo, Japan: on board
飛行機に乗り込むことは、まるで“頭の無い鳥のはらわたへ入る”気分である。現代の航空旅客機は鳥の筋肉を模倣して開発された人工肉が使われている。鉄とプラスチックでできた胴体部分に人工肉が貼り付けられているわけだが、その外見がまさに“頭の無い鳥”である。
客室乗務員の案内に従って、割り当てられた部屋へ移動する。旧世紀の旅客機は座席がぎっしりと並べられていて、まるで出荷を待っているジャガイモのように座らされると聞いたことがある。その点でいえば、全ての乗客に個室を与えてくれる現代の旅客機は最高である。
割り当てられた部屋へ入り、備え付けの棚にカバンを置く。
手足を伸ばしても十分の広さがある部屋で、中央に一人用の大きなソファがある。さしずめここは“頭の無い鳥の細胞の中”ということだろうか。どっさりとソファに腰を下ろす。これから東京まで十一時間時間二十三分のフライトである。
「赤音さん・・・あかねさん」
ドアが開き、誰かが入ってきた。
「赤音さん」
肩を強く揺すられた。目を開けると涼葉の顔があった。
「おはよう、涼葉」
「おはようじゃないですよ、起きてください」
手には青年から取り上げたペンダントが握られている。ペンダントを眺めながら、いつの間にか眠ってしまったらしい。扉の開閉音で起きたものの、宿舎以外の場所で眠ってしまうという珍しいことをしてしまった。疲れが溜まっているのだろうか。
「どうしたの、涼葉?」
欠伸を噛み殺しながら、涼葉に問いかける。
「本部より連絡が来ています」
「あ…うん」
個室に入った時、首に巻いたNCIを完全にシャットダウンしてしまった。デバイスの喉に近いところに触れて電源を入れる。
「メッセージが来ているね」
「赤音さんと一緒に見るように言われています」
「そう」
涼葉のNCIとリンクをして視覚共有を選択する。これで、私の脳内における視覚部分が涼葉と共有される。それからメッセージをクリックする。
メッセージは国連情報軍統合本部から送信されている。添付ファイルに映像クリップがついていた、ウイルス検査をしてからファイルを開く。
映像は、ニュース番組の一部分だった。
>>本日未明、クルーアン共和連合はスラーヴ・プロテスタント民主同盟の第四の都市を空爆し、宣戦布告をしました。両者の間では密かに平和交渉が行われていると噂されていましたが、この一件により平和交渉は白紙に戻ったといえるでしょう。えー、あー……たった今ニュースルームに入りました。クルーアン共和連合の宣戦布告を受けて、スラーヴ・プロテスタント民主同盟は直ちに反撃作戦を展開し、クルーアン共和連合の三つの街を襲撃し、虐殺を繰り広げました。国連平和調停委員会は本件について声明を発表し……
「大変なことになりましたね」
「今頃情報軍の事務局は大慌てだろうね。到着まで、あと」
「7時間くらいです」
「到着までゆっくりしていていいよ」
「一応ネットワークから拾える情報だけ拾っておきます」
「休憩も大事だよ」
「ほどほどに作業しますよ」
涼葉は部屋を出て行った。
情報収集も大切だが、むしろ今後の行動指針が大事になってくる。国連情報軍はスラーヴ・プロテスタント民主同盟の支援を行っていた。支援と言っても肩入れをするのではなく、平和交渉を進めるための土台作りに協力していた。ビデオクリップによるとスラーヴ・プロテスタント民主同盟が虐殺行為を行ったそうだが、その事実関係の調査も必要になってくるだろう。
「仕事が増えるな」
クッションの効いたソファにゆっくりと沈み込む。
5 to Tokyo, Japan: recollection
年老いた王様は引退にあたり、領土を娘たちに分け当たること決意した。王様はもっとも親孝行をした者に最大の領土を与えることを三人の娘に伝えた。長女と次女はあの手この手で父である王様への敬意をアピールした。三女は王様に向かって「申し上げる事は何も無い」と言った。三女にとって、父に敬意をしめすことは当然のことだと思っていた。王様は三女の言葉を聞いて「もう一度言ってみろ」、三女に発言を促したが、三女は言葉を改めることはなかった。
物語の悲劇はここから始まった。
十年前、私の母はプラハの劇場で「三女」を演じていた。
その日は開演初日だった。母の取り計らいで、ステージ真ん前の一番いい席を用意してもらった。かわいいドレスを着て、親友と共に劇場へ訪れた。
開演時間が近づくにつれてホールの照明が徐々に落とされ、観客席は暗闇に包まれた。期待や興奮が渦巻く中で、幕が上がった。
ステージはその全てを吸い上げ、歓喜や悲哀、激情をと変化させた。
幕が下りる頃には、観客席にいる誰もが手が真っ赤になるくらいに拍手をし、最大級の歓声をあげていた。
その時だった。
劇場が小さく揺れた。不自然な揺れだったので、拍手を止めてしまった人が何人かいた。
それから、ステージが爆発した。
目を覚ますと、そこには杖をついた老人がいた。私は、老人に向けて言葉を発しようとした時、呼吸に違和感があった。鼻先へと視線をゆっくり降ろすと、マスクが装着されていた。人工呼吸器を装着されていたらしい。
「私のことが見えるかね?」
老人ははっきりとした声で私に問いかけた。
私は頭を上下に動かして頷こうとする。実際に体のどこを動かしているかわからない。
「君には二つの選択肢がある。生きるか死ぬかのどちらかだ?」
――生きると死ぬ?
「生きることを選択した時、君は世界のために生きることとなる。反対に、死ぬことを選択した時は、」
老人は手に持っていたパイプを口に咥える。
「その先のことは儂にはわからん。なにせ死んだことが無いからな。さて、どちらを選ぶかな?」
選択肢は決まっていた。
私は生きることを選択した。
直ちにアクセス・プラグを埋め込む手術が行われた。アクセス・プラグを埋め込んだことにより、損傷していた一部の神経網を再接続することができて、全身麻痺になることを防げた。
後の調査により、劇場の爆破は反政府集団のよるテロ事件だとわかった。劇場にいた1200人もの命が失われた。
テロによって母を失い、独り身になった私を老人は引き取ってくれた。そして、創設したばかりに国連情報軍へ入隊することになった。最初の任務は、劇場のテロをきっかけに暴力と虐殺で溢れたプラハの街の鎮圧だった。私は入隊したばかりだったため、物資の補給や医療部隊の支援といった業務が中心だった。
いつの間にか私は親友と別れていた。
「間もなく着陸態勢に入ります」
目を覚ますと、プラハの青年から奪ったペンダントが手に握られている。このペンダントは王様の三女の衣装の一部である。そして、あの日母が身に着けていたものだ。
これを瓦礫とかした劇場から回収し、私に送りつけようとするものはこの世でただ一人である。
「生きていたのね、リリー」
悲劇は終わっていなかった。
6 airborne (33,000 feet): ready to drop
上空一万五千メートルを飛行している巨大な二等辺三角形の中にいた。国連情報軍の保有するステルス輸送機で作戦地帯へ空中輸送されているところだ。ステルス性を高めるために機体の高さが極限まで削られ、貨物スペースを確保するために横幅が大きくなっている。この機体を巨大なブーメランと例える隊員もいるけど、狭くて苦しいだけでいいことはあまりない。機内で装備の点検と準備運動を手早く済ませてから、早々と投下用ポッドに乗り込む。まるで棺桶のようなポッドは、輸送機から素早くかつ隠密に隊員を運ぶためにできている。旧世紀の空挺部隊はパラシュートで降下していたが、現代では科学技術をたっぷり詰め込んだポッドで降下する。もちろん隊員の装備も最新科学でがちがちに固めている。「現代の戦争を制するのは、テックとギーク」とはよくいったものだ。
「降下10分前です」
機上隊員の声がNCIを通して脳内に流れてくる。空挺隊員は降下10分前までにポッドに乗り込まなければならない。
目を閉じて、呼吸をゆっくり整える。
二十四時間前のことを思い出す。
東京の国連情報軍本部で作戦指令書を渡された。直ちに該当する作戦要員を招集した。ミーティングルームには、私の指揮下にある情報軍機甲科大隊特殊機動第六小隊の隊員が集まっていた。指揮官である私を含めると総勢16名の部隊である。
私は部下の前に立って作戦を説明した。
「クルーアン共和連合支配地域にある城塞都市ダッハームには約600人規模のゲリラ集団拠点を築いている。このゲリラ集団はスラーヴ・プロテスタント民主同盟の流れを汲んでいるものの、情報軍法務官は現在クルーアン共和連合と紛争状態にあるスラーヴ・プロテスタント民主同盟と関連性は無いことを認定した。ダッハームには紛争の拡大に関わった人物が潜伏している。今回の作戦はその人物の暗殺である。四名で構成される各分隊は、ダッハームからおよそ10キロメートル地点に降下し、東西南北各方面からダッハームを目指す」
暗殺する標的の顔写真とプロフィールは隊員全員に配られた。情報部が必死で手に入れた情報は、特殊作戦を行う私たちが有効利用することになるのだ。
「ターゲットは、リリー・クリスホーファ。彼女は世界各地の紛争を渡り歩いて、紛争の平和的終結を妨害していると思われる」
「今回は逮捕ではなく、暗殺で間違いありませんか?」
一等兵曹の一人が手を挙げてから発言をした。
「逮捕ではなく、暗殺である」
「了解です」
その他に二三点の連絡事項を伝えてから、ミーティングが散会した。
ミーティングから十二時間後、私たち第六小隊は作戦地帯へ向けて飛び立っていた。
「降下!」
機上隊員の合図に合わせて、私を収めたポッドが空中へ放出された。風を切る耳障りの音を聞きながら、ポッド内の電子パネルに表示されている高度計をみつめる。姿勢制御機能により、ポッドは一ミリの誤差もなく正確に着陸する。それまで、搭乗者はおとなしく待つだけである。
数千回に一回、姿勢制御機能の故障やパラシュートが開かないといった誤作動により、ポッドが地面に穴を開けることがある。今回は地面に叩きつけられることなく、地表にたどり着いた。
カメラやセンサーで周囲に敵兵がいないかを確認してから、ポッドのハッチを開き、速やかに近くの茂みに身を隠した。ポッドから出た瞬間が撃たれる時だと、散々訓練の時に言われた。
視界の左上に映っている分隊員の生体情報を確認してからNCIで呼びかける。
――リーダーから各分隊へ、各隊状況報告
――ベータ隊、タッチダウン、オール・クリア
――シータ隊、オール・オーケー
――デルタ隊、いつでも行けます
――リーダーから全体へ、作戦続行
各分隊長の返事を聞いてから、通信を終了した。
――隊長、私たちも移動しましょう
私の指揮するアルファ隊の一員である涼葉から無線通信が届いた。
――マップに合流ポイントをプロットした
NCIの中の地図を呼び出し、私のいる場所から二十メートル北の地点にマーカーを書き込んでから、涼葉を含める他の三人にマップを送った。
――移動開始
――了解です!
「赤音中尉」
集合場所には副官の篠子と涼葉、そして菜穂一等兵曹がいた。
「全員揃いました」
「行こう」
ダッハームへ向けて行軍を開始した。
一定のペースを維持しながら、草の中をかき分けていく。体に装着したパワードスーツのおかげで、長距離の行軍も苦にはならない。
「赤音さん」
「何、涼葉?」
「『リリー』は赤音さんの友人だったんすか?」
「知っていたのか」
高い草で視界が悪い。小銃についたセンサーを使いながら周囲を警戒する。
「ターゲットのプロファイリングをしていた子が見つけました。もう、隊の全員知っていますよ」
女性隊員ばかりの部隊には決まった特徴がある。それは、噂・ゴシップ・悪口に限らず、情報が早く広まることだ。情報戦もお手のものである特殊部隊の場合、その情報の伝達速度は“一瞬”だ。
「リリーとは一〇年前に別れた。それから一度も会っていない」
「リリーさんに会ったら、どうしますか?」
私は手に持っている小銃を握りなおす。
「銃口を向けるだけだ」
作戦区域であるダッハームが見えてきた。ダッハームは高い壁に囲まれた城塞都市で、東西南北それぞれに城門がある。
――こちら、デルタ隊。東門にて会敵。応援を求む。
――こちらシータ隊、作戦区域に潜入成功。
各隊から送られてくる情報を聞きながら、マップで各隊の位置を確認する。
――シータ隊、東門へ移動しデルタ隊を援護。
――シータ隊、了解です。
――こちら、ベータ隊。ターゲットを捕捉。現在追跡中。
――アルファ隊はこれからベータ隊に合流する。
周囲を警戒しながら、南門をくぐって都市へ入る。
ベータ隊と合流するため、街の中を移動する。
ベータ隊とは、寂れた劇場の前で合流した。
「中尉、ターゲットは劇場の中へ入りました」
「了解。アルファ隊がこれから中へ入る。ベータ隊は周囲の警戒をせよ」
「了解です」
タタタタタ、タタタタタ、タタタタタ
短い連射音が鳴り響いた。
――敵です、赤音さん
――規模は?
――各10名規模の集団が四つ、四方向から劇場を包囲しています。
近くの建物で狙撃手を担当している菜穂が無線で周囲の情報を伝えてきた。
――アルファ隊とベータ隊は応戦。シータ隊とデルタ隊が合流するまで戦線を維持すること
――赤音さん、先に劇場へ入ってください。
涼葉はリズムよく単射をしながら、無線通信で話かけてくる。
――早くこの戦いを終わらせて帰りましょう。
私はうんと頷く。身を低くしながら、すばやく劇場の中へ駆け込む。
7 King Lear
厚い扉を押し開けて、劇場の中へ踏み込んだ。外の銃撃戦が微かに聞こえる。
ボロボロに剥がれた絨毯の上を歩きながら、プラハで訪れた真新しい劇場のことを思い出していた。レセプションデスクの後ろへゆっくりと回り込む。埃が厚く積もっていて、長らく人が訪れなかったことを表していた。
キーと大きな音を立てながら客席へ入る扉を開けた。
もし銃を持っている人がいれば、この音に反応して、ズドンと打たれるところだろう。不思議とその心配は無い。
客席と客席の間の通路を歩いていく。天井に開いた穴から柔らかい太陽光が降り注ぐ。外の銃撃音の感覚が伸びている。戦闘が膠着状態になったのかもしれない。
ステージには、白いワンピースを着た少女がいた。
私は彼女に銃口を向けた。
「ご無沙汰だね、アカネ」
「久しぶり、リリー」
「来ると思ったよ。よくこの場所がわかったね」
「国連には調べ物が得意な連中がいて。どうでもいいことまで調べるんだ」
「そうなんだ。アカネも大変なんだね」
「リリーがこれを起こしているの?」
「これとは何かな、アカネ?」
「この……紛争だよ」
「アカネ、覚えている? プラハの劇場のこと」
「…テロがあったこと?」
「そう、テロ。そのテロで1200人もの命が失われたこと」
「……」
「私はね、その1200人のために戦っているんだよ。1200人の願いを私が実現しているんだよ」
「……どういうこと?」
「アカネは知らないの? あの時、劇場には差別、偏見、侮辱、軽蔑、憎悪、売春、麻薬、レイプ、殺人、強盗、浮気、不倫、エトセトラ、エトセトラ、いろんなものが渦巻いていたんだよ。誰にも見えないように、バレないように、みんな仮面をかぶってあの劇場に集っていた。罪深い羊たちや悲劇の脇役たちが客席を埋め尽くしていた。そして、ドカーン、全てを塵と芥にしてしまった」
「塵と芥じゃなくて、血と肉の間違いじゃないのかい?」
「そうそう、血と肉。アカネの言う通り」
十年前のプラハの劇場で起こったテロ事件には、気味の悪い噂話が付きまとっていた。それは、あのテロ事件で亡くなった全ての人に、人には言えない罪を抱えていたということだ。
「十年前のテロ事件が、なぜ今の紛争と関係があるんだ?」
「あの劇場にいたみんな懺悔したかったのよ。そして、断罪してくれる偶像を求めた」
「偶像?」
「そう、真実と愛で心を浄化している偶像よ。そして、私はその偶像で断罪者になるのよ」
「この戦場で?」
「そう戦場で。アカネも知っているでしょ、この紛争のこと」
国連情報軍はスラーヴ・プロテスタント民主同盟の平和交渉代理人となったことで、この紛争について徹底的に調べた。調査をするなかで、一見二極による対立と見えたものが、複雑に絡み合った構図が浮き彫りになった。賄賂、人身売買、麻薬、対立構図の水面下ではさまざまなものが行き来していた。ダッハームを占拠しているゲリラ集団の誕生も、この複雑な流れから誕生したと言われている。
「ここには偶像も断罪者もいない」
「そうかな、アカネ?」
「ここにあるのは、誰のものかわからない肉と血だけだ。何もない」
沈黙。
「……そう。アカネのいう通りかもしれないね」
「リリー……」
パン。
一瞬の痛み。太ももに開いた穴から血が流れ出た。じわじわと傷口が熱くなる。
ステージ上のリリーを見上げると、彼女の手には旧世紀のピストルが握られていた。
「それなら、終わりにしましょう」
リリーはゆっくりと拳銃を自分のこめかみに当てた。
私はすかさず小銃の引き金を引いた。
撃たれたリリーは驚きの表情を一瞬浮かべたが、すぐに慈しむような顔に変わった。
負傷した足を引きずりながら、ステージ上に倒れたリリーに歩み寄った。
「アカネ、あの時の、演目、覚えている?」
うんと頷いた。
「……悲劇だよ、悲劇」
そこでリリーの命は終わった。外の銃撃戦も聞こえてこなかった。
8 All's Well That Ends Well
リリーの死亡が確認されたところで、司令部は作戦終了を宣言した。近くの空軍基地からヘリコプターが発進したとの連絡を受けて、私たちはヘリコプターとの合流地点まで移動した。私は足を負傷したので、隊員の手を借りることとなった。怪我した者は複数人いたが、殉職した者はおらず、作戦として及第点となるだろう。到着したヘリコプターに隊員全員が乗り込んだことを確認したところで、ヘリコプターは飛び立った。
「……帰ろう」
国連情報軍本部へ帰還したところで、全隊員に2週間の休暇が言い渡された。私はプラハへ旅立った。
最後にプラハを訪れてから一ヶ月が過ぎていた。劇場のオープニングセレモニーも盛大に行われたらしい。
劇場の近くに小さな公園がある。ここは10年前のテロ事件で亡くなった人を慰霊するために建てられた場所である。公園の奥に亡くなった1200人の名前を刻んだ石碑がある。
石に刻み込まれたある名前に指を這わせた。
「ここはただの公園じゃいんすね」
「赤音さん、こんにちは」
後ろを振り返らずとも、そこには顔見知りの少女が二人いた。
「赤音さんも、私たちと同じなんですね」と涼葉がいう。
「赤音さん、休暇を邪魔して申し訳ございません」と篠子がいう。
「なんで私たちのことを『名もない少女たち』というか知っている?」
二人の返事を待たずに話を続ける。
「私たちは名のある私を失ったのさ」
私は石碑から指を放し、出口へ向かって歩き出す。
「これからどこか遊びに行きましょう、赤音さん」
涼葉は赤音の後を追うように歩き出した。
篠子は石碑に目を向ける。ほんのり人の体温を感じる箇所に二つの名前があった。
アカネ・ディートリヒ・ライト
リリー・クリスホーファ
「篠子先輩! 置いていきますよ」
涼葉に呼ばれて篠子は歩き出した。
国連情報軍機甲科大隊第六小隊は、私を失った少女たちで構成されている部隊である。
本作品は実在の人物、団体、組織と一切関係ありません。すべて作者の創造によります。
〇プロット :原作者は まつさん です(編集者注)
ここは、忘れられた劇場。
自分の呼吸さえも耳障りに感じるほどの静寂。
微かに差し込む光はすぐに暗闇に塗り込められていく。
私は舞台の中央に立ち、失われた日々を回顧する。
ここにはあらゆるものが満ちていた。
空気を震わす歓声も、
流れ落ちる涙と汗も、
燃えるような激情も、
振り返った彼女の面影も、
全てが失われ、この場所だけが取り残された。
かつてあったはずの熱に触れようと、その場にしゃがみこみ指を這わせる。
──あの日、ここに私の《偶像》が立っていた