嘘つき 春
「こんなに優しい気持ちになれる嘘があったのだもの」
「ねえおばあちゃん、落し物」
少女の小さな掌には、控えめにきらめく簪が握られていた。
「まあ、ありがとう。大切な物なの。お嬢ちゃんは、お遣いかしら?」
「そう。今日はね、にんじんを買いに行くんだ」
「そうなのね。じゃあ……」
老婆はそう言って微笑むと、腕に提げた鞄をごそごそと漁った。
「優しいお嬢ちゃんにおすそわけ」
「あっにんじん。いいの? ありがとう」
ふわりと、しっとりとした甘い匂いが掠める。
「あれ? 雨桜……?」
「本当ね。今年は少し早いって誰かが言っていけど、やっぱりこの匂いは落ち着くね。もうそろそろ咲き始めるんじゃないかしら」
「うん、私もこの匂い大好き。じゃあ行くね。林檎もありがとう」
「どういたしまして。気を付けて」
○
正直者ばかりが住むその村は平和だった。
○
「ただいまあ」
玄関を開けると、大好きなお母さんが晩御飯の準備をしていた。
「お帰りなさい。早かったね」
「あのね、ちゃんとにんじん買ってきたよ」
「ありがとう。あれ?林檎も入っているよ」
私は嬉しくって、もったいぶって言う。
「林檎はね、落し物を拾ったらおばあちゃんがくれたんだ」
「そうなのね。偉かったね」
そう言ってお母さんは頭を撫でてくれる。
「それとね、もう雨桜の匂いがしたよ。」
雨桜は、この小さな村固有の桜の品種であった。桜といえども花の色が、まるで雨粒のような薄い青であることから「あまざくら」という名が付いた。梅雨入りの始めの雨が降ると、雨桜の蕾は雨粒を吸い込み一気に膨らむ。貯め込まれた雨粒は蕾の中で結晶化し、開花とともに芳醇な香りを纏わせながら花びらから零れ落ちる。その姿はさながら桜が泣いているようでもあり、その結晶は「雨桜の涙」とも呼ばれている。
この村でしか見られない雨桜の涙は、髪留めや首飾りなどの装飾品や、粉状にして化粧品などに姿を変え、外の町へ輸出されていった。雨桜の希少性は極めて高く、このちいさな村の産業を大きく支えていた。
「もう雨桜の季節なのね。今年もたくさん涙が取れるかしら」
そう言って、お母さんは庭の雨桜の木を眺めた。私も見る。蕾はびー玉みたいにいくつもなっていて、とても綺麗だった。
「きっとたくさん取れるよ。それで、たくさん取れたら、お祭りに行きたいな」
「そうね、リリーももう7歳だから、今年はバスに乗って隣町の大きなお祭りに行ってみようか」
「バス!! いいの?お金がかかるよ?」
「それぐらい大丈夫よ。今年は豊作なんだから」
お母さんはにこにこして私の髪の毛を撫でてくれた。学校の友達も、バスに乗ったことがある子は半分くらいしかいなかった。がたがた揺れて、窓から眺める景色はびゅんびゅん変わっていくらしい。
○
「こほ、こほ」
「リリー? 大丈夫?」
お母さんが振り返った。
「平気。ちょっと喉がひっかかっただけ」
そう言ったものの、咳は止まらない。なんだかぜーぜーとして息をするのが少し苦しい。
「風邪かしら。最近気温の変化が大きかったから」
お母さんが背中をさすってくれると少し楽になってきた。ふう、と息をつくと口から、ぽろりと小さなガラス玉のようなものが零れ落ちた。薄くて楕円型で、指でつまむと「ぱりん」という音を立てて割れてしまった。お母さんが静かに息を飲む音だけが聞こえた。
○
「残念ですが、リリーさんは発病しています」
朝一番に、お母さんは私を八百屋さんの隣のお医者さんに連れて行った。赤ちゃんの時からお世話になっているお医者さんだ。おたふく風邪をひいてほっぺを真っ赤にした時も、お母さんにお味噌汁を作ろうとして火傷をした時も「大丈夫、大丈夫。すぐに良くなるよ」と言ってくれた先生が、悲しそうな顔をして言った。
「ここの区域対象の療養所です。できればすぐにでも向かった方がいいですが、今日はもうバスがありません。明日一番のバスで連れて行ってあげてください。療養所の方には、私から連絡を入れておきます」
そう言って、町医者から渡された紙には療養所の住所が書かれていた。
○
「ここが、リリーちゃんの部屋だよ。ほら、窓が大きくて気持ちのいいところでしょう?ほら、ちょうどこの辺も昨日から雨桜が咲き始めたのよ」
お母さんに連れられ、初めてバスに乗った。お祭りに連れて行ってくれるはずだったバスは、暮らしている町よりももっと寂しいところに停車した。あの子が言っていた、がたがた揺れるのも、びゅんびゅん変わる景色も本当だったけど、どちらも霞んで見えた。
「お母さんに会いたい」
医師の言葉に目玉だけ動かして窓の外を見やるが、すぐに視線を下に戻した。だって元気だもの。何も具合の悪いところなんてない。なのに、どうしてこんなところに閉じ込められないといけないのだ。本当だったら、今日は学校に行くはずなのに。
「具合なんて悪くないもん。どうしてお家に帰れないの?」
「今は大丈夫だけど、リリーちゃんの病気はこれから悪くなるかもしれえないんだ。だから、ここでよくなるまで治療しようね」
「よくなったら帰れる?」
「そうだね。今日は疲れただろうからもう寝よう」
そう言って医師は窓を閉めると病室から出ていった。
「おはよう、リリーちゃん」
目が覚めると、昨日の医師とは違う男の子が朝食をもってやってきた。私よりはお兄さんだけど、医師よりは若い。医師というよりはお兄さんのようだ。
「おはよう」
お母さんは元気かな。庭の雨桜は咲いたかな。ぼんやりと考えていると、お兄さんが続けた。
「僕はリリーちゃんの担当看護師のコウタといいます。今日からよろしくね。困ったことがあったら、ここのベルを押して。」
○
それから、コウタは毎日私のところに来る。朝昼晩のご飯を運び、朝と寝る前には体温や血圧を測る。時々採血もする。採血は最初は怖かったけど、慣れてきた。コウタは外に出れない私のために、いろいろな話をしてくれる。
「今日はリリーちゃんの村の雨桜を見に行ったんだ。今年は一段と綺麗だった。空との境目が分からくなるくらい透きとおった青で、すごく美しかったよ」
「そうそう、村の雨桜は本当に綺麗なの。でもね、冬の間は枝だけで葉っぱもなくって、ガイコツみたいなんだよ」
「なんだよそれ。面白いねえ」
「だからね、村の子たちは肝試しを夏じゃなくって冬にするの。ガイコツみたいなアマ桜の並木道でする肝試しはそれはそれは怖いんだよ。」
「冬の肝試しは嫌だなあ。余計に肝が冷えそうで」
私の村の話をしてくれると嬉しくって、ついつい身を乗り出して話してしまう。コウタは私が話すことをよく聞いてくれるから、看護師というより友達のお兄ちゃんみたい。
「こほっこほっ」
たまにあの日と同じ咳がでる。コウタはお母さんみたいに、優しく背中をさすってくれる。咳の終わりに、必ずあの薄いガラス片みたいなものが出る。コウタはそれを手袋をした手でそっと拾うと、ビーカーに入れて部屋から出ていく。あれはどこに行くのだろう。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
「リリーちゃん、おはよう。よく眠れた?」
「うん。おはよう」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
何度も何度も繰り返される挨拶。朝昼晩規則正しく持ってこられる食事。もうここにきて何日経ったのかも分からない。コウタは毎日来てくれるし、
「そろそろ、お家に帰りたいな。お母さんに会いたいな」
そういうと、コウタは定型文みたいに言う。
「リリーちゃんの病気がよくなったら帰れるよ」そう言って優しく笑う。
「よくなったらって、私元気だよ?どこも悪くない」
「そうだね。もうちょっとゆっくりしたら、きっと帰れるよ」
コウタは穏やかな声で言うけれど、それは私を宥めるためだけの声のようで、取り合ってくれない。「帰りたい」というと、のらりくらりとかわしていくのだ。
「そうそう、今日も雨桜が綺麗だったよ。いい匂がしてね」
ほら。またかわした。
「ねえ、今日はもう八月よ。雨桜はもう枯れている。梅雨の間しか咲かないのよ。コウタ村になんか行っていないよね。村の皆はどうしているの?なんで私は一人でここにいるの? 嘘は嫌。本当のことを教えて」
「……ごめん」
コウタはひどく寂しそうな顔をして部屋から出ていった。
次の日も、その次の日もコウタは来なかった。もともと静かな場所だけど、自分だけが一人ぼっちで取り残されたようだった。ここに来てから、部屋を出たことはなかった。外に出る。
「本当に、誰もいないのね」
病室を出ると、白い廊下が続いている。バスに揺られて初めて来たときと同じ。静かに階段を下りていく。
「あれ、リリーちゃん? なんでここに?」
「先生……」
一階のロビーにいたのはここに来た初日に会った医師だった。コウタ以外の人に会うのは数か月ぶりで、思わず声が上ずってしまった。
「もう君は退院したはずだよ。病気も治っている」
「え……?どういうことですか」
「もう退院許可はでている。担当看護師にも伝えたはずなんだけどなあ」
「……次のバスは何時ですか?」
「あと十分もすれば来ると思うよ」
○
何がどうなっているのかよく分からない。コウタは嘘をついていた?
どうしてずっと私を病院に縛り付けていたの? でも、優しく声を掛けてくれた姿を思い返すと、コウタを責める気持ちにはなれなかった。
バスが到着した。数か月ぶりに外の空気を吸い込み、バスに乗り込む。
目に飛び込んできたのは、何もない場所だった。小さいけれど賑わっていた店も、学校も、家々も何もない。あるのはなぎ倒された建物の残骸と、季節外れのガイコツみたいな雨桜の木々。
コウタが言っていたことが耳の奥で蘇る。「今日は、雨桜がきれいだったよ」「リリーの村はいいところだね」何度も何度もこだまする。
呆然としていると、バスの運転手が教えてくれた。正直者の村に、「嘘」が持ち込まれたのは数か月前。嘘に体制のないこの村は、いとも簡単に嘘に飲まれ、浸食されていった。強盗に博打が横行し、村の人々の優しさは奪われていった。涙が出そうになった。お母さんの嘘つき。
原作:原作者は 正午さん です(編集者注)
プロット
正直者ばかりが住むその村は平和だった。
村の少女Aは病気になる。
村の集落から離れた山奥に療養所に入る。
医師には病気が治るまで外には出てはいけないと言われる。
入院し、窓際のベッドから外を眺める少女A。
翌日少年Bが部屋に現れる。少女Aの看病担当だという。
建物の外に出られない少女Aの看病をしながら、少年Bは外の様子を語る。来る日も来る日も語る。
やがて少年Bの話に矛盾が生じる。
少女Aはその矛盾を指摘し、「本当のことを話さない」のは嫌だと少年Bを否定する。
そして少年Bは少女Aの元へ現れなくなった。
数日部屋に放置される少女A。部屋においておいた食べ物もなくなる。食べ物には少年Bが、持ってきてくれたものもあった。
たまりかねて、部屋の外に出、医師に遭遇。
医師に聞くと少年Bのことは知らないと言い、少女Aがまだ退院せず病院にいたことに驚く。
少女Aの病気はとうに治っていたため。
本来看護を担当する人は別にいたが、村の荒廃の「原因」が元で療養所にはもう来なくなっていた。
少女Aは療養所を出、集落に久しぶりに戻る。
目にしたのは荒れ果てた村。
疲れきった様子のに村人聞くと、外から博打が持ち込まれ、村に「嘘」という概念ができたという。嘘に耐性のない村では略奪や暴行が横行し、いとも簡単に荒廃していった。
そこで少女Aは気づいた。
少年Bは少女Aにこのことを知らせまいと「本当でないこと」を語っていたのだと。
探しても少年Bはもう村のどこにもいなかった。
■補足
・医師は療養所に常駐しない。療養所に入る対象となりそうな人がいるとき診断をする。普段の看護は看病人に指示をし、任せる形。この話では指示をした本来の看病人(少年Bの兄とするのがいいか)が村荒廃の影響で失踪
・兄の失踪を不審に思った少年Bが原因を探るため療養所を訪問。窓際の少女Aを目にしたのはその時。そして惚れた。
・少年Bは最初は嘘は語っていなかった。純粋に少女と話すのを楽しんでいた。しかし、村が荒廃していき、少女Aが知る村とギャップが生じるようになると「嘘」を語り始める。
・カルテは療養所の机にあり、少年Bはそれを見て少女Aに適切に処置をしていた。