マルチレベル・ノベリスティング つみれ
思い出すのも忌々しいが、先ほど、担当の編集者に言われた心無い言葉が脳内をぐるぐるまわっている。それなりに俺の心に刺さったということだろう。
「デビュー当初は確かに光るものを感じていたのですけど。いいですか? 小説家としてデビューしたとしても、二作目三作目が続かずにひっそりと消えていく新人作家はたくさんいます。それこそ、掃いて捨てるほどにね。あくまで経験則ですが、このままいけばあなたも遠からず彼らと同じ末路を辿ることになるでしょう」
「デビュー作もたいして売れず、その後の作品もパッとしないものばかり。そんなことでこれから先やっていけると思っていますか?」
「同時期にデビューした倉崎紫苑さんや陰山ポン太さんなんかはずいぶんと先に進んでいますよ」
「あなたはなぜ作家になりたかったのですか? あなたは作家になって何を書きたかったのですか? 少し自分を見つめ直してみてはいかがですか?」
(くそッ・・・! そんなことは俺だってわかってるんだよ)
賞を一つもとっていなかった時分には、自信作であろうが駄作であろうがとりあえず書き終わったものをどんどん出版社に送り付けていたものだ。気楽なチャレンジャー気分というやつである。たとえ酷評されたとしても失うものはなにもなかったから、挑戦し続けることができたのだ。
ところが、いざ新人賞をとってデビューしてみると、それまで山奥の湧水のようにこんこんと湧き続けていたアイデアがとたんに枯渇してしまった。理由はよくわからない。が、「デビュー後に二作目が続かない新人作家が多い」だとか、「矢継ぎ早に作品を世に出していかないと存在を忘れられてしまう」だとか、そういった世間の無責任な声が異様なほど耳に響くようになってしまった。これはいわゆるスランプというやつなのではないかと自分なりに分析していて、案外当を得ているんじゃないかと思う。
まあ、そんな分析ができたところで、文章が書けなきゃ意味がない。俺ははやく新作を書かなければいけないのだ。
そんなことを考えながら出版社からの帰り道を歩いていると、行きつけの小さなカフェが見えてきた。カフェというより喫茶店といったほうが、その雰囲気やたたずまいをより的確に伝えているかもしれない。言っちゃ悪いが、お世辞にも流行っているとは言えない店だ。でも、このカフェには俺のお気に入りポイントが三つもあるのだ。
一点目は、客が少なくて(店にとっちゃダメなことなんだろうが)比較的静かであるということ。
二点目は、マスターの淹れるコーヒーが抜群に旨いということ。
そして三点目は・・・。
13時30分。ドアを開けると、「カランコロン」と乾いたドアベルの音が心地よく響く。マスターは俺の顔を認めると、特に確認することもなくコーヒーを淹れ始める。そして店の最奥の席を見やると、一人の女性が原稿用紙に向かってサラサラと文章を綴っている。若干ツリ目気味で、髪は短め。三点目は、この女性の存在だ。
自慢じゃないが、俺は学生時代からの筋金入りの陰キャだ。トップ陰キャーと呼んでくれ。だから特別な理由がない限り女性に話しかけることなんてできない。当然のことながら、彼女の名前も知らない。それを知ることすら恐れ多い。それでもいいのだ。カフェという心地いい空間のなかで、創作活動という同種の目的を共有できる仲間がいるというだけで俺は満たされるのだ。
13時30分過ぎにこの店に来ると、彼女はだいたいあの奥の席に座っている。まあ、彼女に話しかけることはおろか、近づくことさえ恐れ多いから、俺は彼女から一番遠い入口付近の席にかけることになるのだが。
俺のなけなしの情報収集能力を総動員した結果、だいたい次のことが判明している。彼女はいつもこのカフェで原稿用紙に向かってなにやら作品らしきものを書き綴っている。そして、いつも同じすみれ色の数珠ブレスレットをつけている。わかっているのはそれくらいだ。我ながら貧弱な情報収集力といっていい。
実際、今も彼女は市販のボールペンで一心不乱に原稿用紙に文字を書きつけている。これは俺のカンだが、彼女はおそらく覆面小説家の類だろう。今時、手書きで小説らしきものを執筆している彼女の古風なやり方に俺は少なからず好感を抱いていた。なぜなら俺も手書き派だからだ。こういう些細なことでも仲間がいるというのはなんとなくうれしいものなのだ。
そうそう、もう一つわかっていることがあった。彼女はいつも思考に詰まると、とある本を熱心に読み始める。その黒い装丁には頭蓋骨が一つ描かれていて、そのこめかみをペンが貫いている。若干悪趣味なデザインである。彼女はしばらく読書に没頭したかと思うと、再びペンをとって猛然と書き始める。あの黒い本はアイデアを書き留めた手帳か何かだろうか? ともあれ、彼女が読書と執筆とを交互に繰り返す様子を尻目に、俺ははかどらない執筆活動を続けるのだ。
この居心地のいい空間の雰囲気に酔いつつも、一方では、執筆がはかどっている様子の彼女と、一向にペンが進まない俺との実力の差に軽い絶望を覚えてしまう俺がいた。
17時11分。いつもの感じだと、彼女はそろそろ席を立つ。あっ、ほら帰り支度を始めたぞ。いつも17時過ぎにこのカフェを出ていくのだ。彼女が俺の席の脇を通るとき、フッとバイオレット系の匂いがした気がした。
彼女がいなくなった後も執筆を続けようと思うのだが、彼女とともにこの空間から魅力が霧散してしまったかのような錯覚にとらわれる。結局、最近は、彼女がいなくなってから30分と経たないうちに退店するのが常になってしまった。
その日もぜんぜん執筆がはかどらなかった。こんなことじゃ本当に世間から忘れられてしまう。このまま家に帰っても、酒を飲んで寝るだけだ。俺は散歩がてら、いつもと違うルートで家に帰ってみることにした。歩いているときというのは、意外と小説のアイデアが浮かぶものなのだ。
ふと天を仰ぐと、群青色とオレンジ色が境目で溶けあったような色合いの夕空であった。夕方の空の色遣いを見ると、異界に引きずり込まれそうなふしぎな感覚にとらわれる。この時間帯特有の妖気をまとったような空気感は嫌いじゃない。逢魔が時なんて、ちょっとドキドキするじゃないか。
たまにしか歩くことのない暮れ行く通りをゆったりと歩いていると、ふいにドヴォルザークの『家路』が聞こえてきた。通称、夕方のチャイム。この町では今の季節、17時30分になると、この『家路』が流れるのだ。町の子供たちはこれが聞こえると三々五々帰り始める。もちろん俺も例外でなく、子供の頃はこれが聞こえてくるとなんだか帰宅を急かされているような気がして、慌てて帰り支度をはじめたものだ。その頃は認めたくなかったが、この電子音がちょっと怖かったということもある。と、小説のアイデアのことなどそっちのけで少年時代の思い出にふけりながら歩いていると、ふと視界の端に闇が落ちているような気がした。何かと思ってその暗黒に目を向けると、そこにはうらぶれた路地があった。
(ここに、こんな路地あったかな?)
俺もこの界隈に住んで長いが、これほど古ぼけた路地があったとは知らなかった。ただの路地であるはずなのに、岩壁にぽっかりと空いた洞穴のようにも感じられたし、うっそうと茂る山深い森への入り口のようにも感じられた。いずれにせよ、そこにあるのは吸い込まれそうな闇なのであった。新しい帰り道を開拓してみるか、と思って、俺はその路地に足を踏み入れた。突如、俺の体をかすかな悪寒が走りぬけたような気がした。風邪をひいたときの不快な寒さを水で三倍に薄めたような感じである。そして、それまで聞こえていた雑踏の音が次第に遠くなっていった。いつの間にか『家路』も聞こえなくなっている。
音のない路地を10分ほども歩いただろうか。やがて小さな明かりが見えてきた。露店のようだ。
露店には小柄な老婆が一人いて、時代物のランタンで商品を照らしていた。そして、その商品とは小さな黒い本が一種類だけなのであった。
(この本は・・・?)
本のタイトルは『止まらないアイデアブック』。値段は百円。しかしなによりこの装丁には見覚えがあった。頭蓋骨のこめかみをペンが貫いている不気味なデザインは、見間違えようにも見間違えようがない。明らかにいきつけのカフェで何度も見てきた彼女の本と同じものだった。
「おい、婆さん。止まらないとはどういう意味なんだ?」
老婆はこちらに向き直ると、俺の心の内を見透かすかのような鋭い眼光を向けてゆっくりとした調子で言った。
「止まらない、という意味でございます」
俺は内心カチンときた。こういう禅問答みたいな舐めくさったやり取りは大嫌いなのだ。こんな変な婆さんからものを買うのは癪だったが、しかし、カフェの彼女がどのような本を読んでいたのかも大いに気になるところだ。
「なんだそりゃ」
「……」
俺はたっぷり5分ほど迷ったあと、やがて購入を決心した。
「まぁいいや。百円だし買うよ」
「ありがとうございます」
黒い本を受け取ると、本を媒介して婆さんから不気味な冷気が伝染してくるような感じがした。どうもさっきからからだの調子が悪い。本当に風邪でもひいたのかな?
ともあれ、思わぬ掘り出し物をゲットしたことに俺は満足した。
(さっそく家に帰って読んでみるか)
俺は来た道とは反対側に抜けようと路地を歩き始めた。背中に視線を感じる。老婆の両の目がずっと追いかけてくるような気がした。俺は後ろを振り返らずに路地を歩いた。
露店を背に十数メートルほど歩き、暗い裏路地を抜けると、一気に町の喧噪がよみがえってくるようだった。体にへばりついていた悪寒もいつの間にか消えていた。そして、町にはまだ『家路』が鳴り響いていた。腕時計を見ると、17時31分をさしていた。
あのカフェから数分歩いたところにある安アパートの二階、部屋番号203号室が俺の部屋だ。表札プレートには自分の特に珍しくもない苗字が印字されている。自室に入ると、さっそく例のアイデアブックとやらを開いてみた。すると。
頭のなかの霧が晴れる。
余計な雑音が消える。
無限にアイデアが湧いて出る!
すごい! すごいぞ! このアイデアブックは一体・・・!?
脳がリフレッシュされたような感じだった。
久しぶりの感覚だった。
めくるめくアイデアの奔流に、俺は一種の陶酔感につつまれていた。
気付けば朝になっていた。
さっそく、思いついたアイデアのうち、一番おもしろいと思ったものをあのにっくき編集者に話してみることにした。
「・・・これはなかなかおもしろいです。やりましたね」
「いや~、急に頭のなかがすっきりしましてね! 俺もやればできるんですよ!」
「あなたは本来、これくらいのハイレベルな作品を書ける作家なんです。さっそく、これを物語に書き起こしてみてください。短編で構いません。二ヵ月で書けますか?」
「二ヵ月もいりませんよ。一ヵ月で充分です!」
爽快だ! 今まで俺のことをバカだアホだとさんざんに悪罵しやがったあの編集者の鼻を明かしてやったぞ! 爽快すぎる!
そしてこれはチャンスでもある! スランプを抜け出して一躍ベストセラー作家の仲間入り! 人生バラ色! 『止まらないアイデアブック』のお陰だ!
久しぶりの執筆依頼に胸を躍らせながら自室に戻ると、突如スマホが鳴り響いた。画面には後輩作家の名前が表示されていた。大学時代の一個下の後輩で、所属ゼミが同じだったことに加えて、俺と同じく読書好きだったから自然と友人付き合いが始まったのだ。その後、彼は俺とほぼ同時期に小説家デビューした。この後輩というのが、実は編集者の言っていた陰山ポン太なのである。スカーフを十数種類もコレクションしていて、外出時は常に黒いスカーフを身につけているという変わり者だ。隣町に住んでいるので今でもたまに会ってバカ話に興じたりできる貴重な友人だ。そして、くやしいが、正直こいつは俺よりも文才に恵まれている。
「先輩、調子どうっスか?」
「久しぶりに執筆依頼がきたぞ」
「マジっスか? 先輩と言えばスランプの代名詞だったのに」
「うるせえ」
このとき、どういうわけか、ポン太に『止まらないアイデアブック』を自慢したくなった。本来、作家としては、アイデア出しをこんな本まかせにしていることなど口が裂けても言いたくないはずなのだが、無性に喋りたくて仕方がなかったのだ。
「お前、小説のアイデアに困ってないか?」
「先輩ほどじゃないと思いますけどね。ハハ。まぁ、困ってますよ。年中困っているから、もはや困り慣れましたよ。ウハハ」
「ウハハじゃねーよ。おい、おもしろい店を知っているんだ」
俺は調子に乗って、あの路地の露店と婆さん、『止まらないアイデアブック』の話を余すことなく後輩に語りつくしてしまった。
「なんかウソくさいっスけど。今度自分も行ってみますよ。どうせ暇ですし」
「マジだったら、焼肉おごれよ」
通話を切ると、意気込んで作品執筆に取りかかった。今度こそ書けるはずだ! 先ほど編集者に話したアイデアで足りないようなら、また『止まらないアイデアブック』を読めばいい。そうすればたちどころにアイデアが湧き出てくるのだ。人生楽勝だ!
机に向かって『止まらないアイデアブック』を開き、既存のアイデアを新しいアイデアで補完する。そしてアイデアのかたまりが変幻自在に形を変える! 俺は、天才だ! しかし、一方で割り切れない部分もあるのだった。
(これは俺の実力じゃない。俺はこのあと、『止まらないアイデアブック』に頼り切った人生を生きていくのか?)
本当は、俺は自分の力で小説を書きたかったのだ。
(いや、状況の打開に『止まらないアイデアブック』は有効だ。いつまでも頼り切りになるわけじゃない)
この時の俺は、自分の力で小説を書くという本来的な願望を抑え込み、『止まらないアイデアブック』に頼り切る人生を無理やり正当化しようとしていたのだ。そのほうが、精神的に楽だったから。
編集者に会って、アイデアを話して、久しぶりの作品執筆依頼を受けてからはや二週間が経過した。しかし、やはり作品は書けなかった。アイデアはどんどんと湧き出てくるのに、それを文章化することができない。依然として『止まらないアイデアブック』を使うことに対する葛藤があったし、何より思いついたアイデアがハイレベルすぎて、俺の拙い表現力とつりあっていなかったのだ。
(所詮、これが俺の実力だ・・・! 賞をとったのもまぐれだったんだ・・・! 『止まらないアイデアブック』があっても、俺は・・・、俺は・・・!)
あまりのくやしさに、俺はボールペンを二つ折りに折ってしまった。
一ヵ月で書けるなんて啖呵を切ってしまったから、あとにも退けない。俺は馬鹿だ。
(こういうときに俺はどうしていたっけ?)
13時26分。
(そうだ、あのカフェに行ってみよう)
カランコロン。ドアを開けると、相変わらずドアベルの音が心地いい。マスターはコーヒーを淹れる準備をし始める。彼女もいつも通り、店の奥の席に座っていた。すでに執筆を始めていたらしい彼女はこちらを一瞥すると、軽く頭を下げて、再び執筆作業に戻る。
それにしても、やっぱりここは落ち着くなあ。最初からここに来ればよかったんだ。ここなら俺は小説を書けるかもしれない!
彼女はいつものように執筆と『止まらないアイデアブック』を読むのとを交互に繰り返していた。彼女と俺の間には、同じ『止まらないアイデアブック』を持っている者同士という共通点はあっても、書ける者と書けない者という決定的な違いがあった。お気に入りのカフェに来ても、書けないものは書けないのだ。俺は、自分の才能のなさを恨んだ。
一つ、気づいたことがあった。
以前まで、彼女は執筆時に市販のボールペンを使っていたはずだ。しかし、今の彼女はノック部にドクロの意匠が施された気味の悪いボールペンを使用していた。
なんとなくピンとくるものがあった。
(あれもあの婆さんの露店で買ったものだな)
もしかしたら、彼女が使っているあれは、スラスラと文章が書けるとかそういう類のペンではないのか・・・?
17時14分。彼女はだいたいいつも通りの時間に、バイオレット系の香りをまき散らしながら退店していった。さて、俺もそろそろ店を出よう。今日はまた、あの婆さんのところに行ってみるのだ。
店を出てすぐに、スマホに着信があった。ポン太だ。
「先輩・・・マジでした。先輩の言ってた露店、行ってみたんスよ。マジで『止まらないアイデアブック』すげえっス。アイデアが止まらないっス」
「焼肉の約束を忘れるなよ」
「いやー、自分もこれで有名作家の仲間入りっスね。焼肉くらい安いモンっスよ」
ポン太は喜んでいるが、本当にこれでよかったのだろうか。ポン太は『止まらないアイデアブック』なんかに頼らなくても、いずれ有名作家になるだけの才能と実力を持ち合わせていたのだ。
「でも先輩。一個、ふしぎなことがあったんスよ」
「ふしぎなこと?」
「自分、こんなすごいアイデアブックならもっと大々的に売り出せばいいんじゃないかと思いましてね。話を持ちかけようと、買った翌日に婆さんの露店に行ってみたんスよ」
「その様子だと断られたのか? あんまりそういった金儲け的なことに手を出しそうな婆さんじゃなかったしな」
「違うんスよ。たどり着けなかったんス」
黒いスカーフの後輩が言っている言葉の意味がよくわからず、声を発することができずにいると、彼はスマホの向こうで続けた。
「あの店にたどり着けなかったんス。あのあと、何回も行ってみようと思ったんスけど、あの路地が見つからないんス」
「道を間違えたんじゃないのか」
「こんなおいしい話、他のやつに横取りされたらたまらないと思ってまっ昼間から押し掛けたから、道は間違えてないと思うんスけどねえ」
「ちょうど今から、気分転換がてらあの露店に行ってみようと思っていたんだ。あとで連絡するよ」
通話を切ると、あの暗闇の路地を目指して歩いた。ふと天を見上げると、群青色とオレンジ色がきれいに空を二分していた。この前あの露店に行ったときも確かこんな空模様だったような気がする。もうすぐ、あの路地だ。ドヴォルザークの『家路』が聞こえてきた。そして、視線の端に暗黒のかたまりを感じたので、そちらを見やるとその闇のなかに例の路地が浮かび上がってきた。
「本当に露店にたどり着けないのかな」
俺は再び薄暗い路地裏を進んでいった。路地を進むほどに、徐々に肌寒くなっていき、徐々に音が遠ざかっていった。以前、来たときには気にしなかったが、この路地は両側ともに壁だけで構成されている。壁向こうの民家への入口はみな他の路地側にあるようで、この路地はどの家からみても裏側というわけなのだった。だから進むか、戻るかしかできないのだが、そういう特殊な条件も相まってか、人の気配を全く感じないのであった。そんなことを思いながらゆっくりと路地を進んでいくと、3分ほどで闇の中に明かりが見えてきた。例の露店である。
(なんだよ。ちゃんとたどり着けるじゃないか。ポン太の野郎、適当なこと言いやがって)
なんとなく予想はしていたことだが、婆さんが古臭いランタンで照らしている商品は、ドクロの意匠が施された例のペンだった。千円の値札が付いている。もう、『止まらないアイデアブック』は取り扱っていないようだ。
「婆さん! この間のアイデアブックは良かったよ。おかげで次々と作品のアイデアが閃いた」
婆さんはくぐもった声で答えた。
「それは、よろしゅうございました」
俺はさっそく気になっていることを聞いてみることにした。
「今度のはどういう商品だ? ペンみたいだが」
「『止まらないペン』でございます」
(俺の睨んだ通りだ。カフェの彼女は市販のボールペンを捨て、このふしぎなペンの力を使って執筆しているに違いない)
「ほほう、今度は『止まらないペン』だと? 執筆が止まらないくらいはかどるってことか?」
「止まらない、ということでございます」
相変わらず人を食ったような受け答えしかできない婆さんだ。腹が立つが、まあいい。ペンさえ手に入れてしまえば、こんな婆さんに用はないのだ。
「千円か。買うよ」
「ありがとうございます」
これで小説が書けるにちがいない・・・! この露店は、俺の悩みを解決してくれる。アイデアブックのことがあるから、このペンの力も本物だろう。楽しみだ。やはり人生は楽勝だ。婆さんからペンを受け取ると、そのペンを伝って名状しがたい異様な冷たさが身体を侵食してくるような気がした。いわゆる金属のような物理的な冷たさではなく、身体の芯から冷えるような気味の悪い冷たさだった。
さて、目的のものは手に入ったことだし、こんな不気味な露店に長居は無用だ。さっさと帰ろうとする俺の背中には、やはり婆さんの視線が張り付いているようだった。
(見てはいけない!)
そう直感した俺は、以前と同じようにまったく振り返ることなく前だけを見てひたすらに歩いた。壁だけの暗い路地を抜けた。気温がわずかに高くなった。空を見ると、まだ群青色とオレンジ色の領土の比率はさきほどとさほど変わっていないようだ。人の気配がよみがえった。世界が音を取り戻した。気づくと、どこか切ないような『家路』のメロディが終盤にさしかかるところだった。腕時計が17時32分をさした。
『止まらないアイデアブック』と『止まらないペン』の効力は絶大だった。アパートに帰りつき、さっそく執筆を開始したところ、『止まらない』の名は伊達ではなく、本当に身体が止まらないのだった。結局、一夜で一つの作品を書き上げてしまった。久しく味わっていなかった達成感である。はやくあの編集者をあっと言わせてやりたくて、書き上げた作品を編集者に送り付けると、徹夜の疲れがどっと出たのか、それこそ泥のように眠りについてしまった。
何時間眠っただろうか。すっきりと目覚めるとスマホに一通のメールが届いていた。あの編集者だ。
「最高におもしろかったです。出版に向けて動き出しましょう」
快感だった。他人に認められることの快感を味わうこと自体、久しぶりのことだったのだ。すぐに次作に取りかかろうと思った。もはや、『止まらないアイデアブック』や『止まらないペン』を使用することに対する葛藤はなかった。俺の人生は、これらのアイテムによってすばらしい方向に向かっていくのだ。
その後、俺は流れるように作品を発表していった。いずれも『止まらないアイデアブック』、『止まらないペン』の力を使って書いた作品だ。すべてがベストセラークラスの作品となり、俺は作品を発表すれば必ず売れる百発百中作家と話題になった。いままで俺に見向きもしなかった出版社や編集者が、手のひら返しで尻尾を振り始めたのは傑作だった。
しかし、数作の作品を発表して、新人ベストセラー作家としての地位が盤石になったと思った矢先に事件が起こった。『止まらないペン』のインクが切れたのだ。普通のペンに持ち替えて作品を執筆しようとしたが、俺の実力では『止まらないアイデアブック』の着想を生かす作品を生み出すことはできなかった。結局、俺は微塵も成長していなかったのだ。俺はくやしさよりも焦りを感じた。いまのこの地位を守らなければ! 俺は苦肉の策で『止まらないペン』のインクを新しいものに入れ替えてみたが、それでもだめだった。
「あの露店に行こう」
取るものもとりあえず、俺はあの暗闇の路地目指して走った。まっ昼間といっていい時間帯だから、もしかしたらまだ露店なんてやっていないかもしれないと思ったが、焦りが俺を衝動的に突き動かしたのだ。ところが、あの露店はおろか、暗闇の路地にすらたどり着けなかった。路地があるはずの場所には、壁しかなかったのだ。
俺は思考を整理するために、行きつけのカフェに向かった。13時34分。カランコロン。マスターはコーヒーを淹れはじめる。奥の席に彼女の姿はなかった。
(あれっ・・・)
マスターは落ち着いた声で言った。
「あの女の子ね、最近来ないんだよ。夢中になって何か書いてたのを見てたから、ひそかに応援していたんだけどね」
俺も同じ気持ちだったが、あの女性のことを考えていたことを見透かされてなんとなく気恥ずかしかったから、咳で必死にごまかして無視した。
(引っ越しちゃったのかな)
このカフェの魅力が一つ減ってしまった。正直、がっかりしてしまったが、今はそれどころではないのだった。俺には『止まらないペン』が必要なのだ。
「マスター。路地が消えたり現れたりするなんてこと、ありますかねぇ?」
「なんだい急に」
「ちょっとそういう小説を書いてみようかと思いましてね」
「私が小学生の頃、そんな都市伝説が流行ったよ。逢魔が時に暗い路地が現れるとかなんとかというのが。迷い込むと出られなくなるみたいな話だったかな。小学生って、そういう話好きだよね」
(逢魔が時・・・)
なんとなく、あの路地の謎が解けた気がした。
空は群青色とオレンジ色の二色刷り。17時25分に、俺はあの路地のあった壁の前にいた。
(きっとこれが答えだ。俺もポン太も時間を間違えていたんだ)
時間になると、ドヴォルザークの『家路』が聞こえてきた。壁から暗闇のかたまりがにじみ出てくるように現れた。あの路地である。
さっそく路地に踏み入れると、例の冷気と無音が俺を包んだ。そして、路地に入って1分と経たないうちに老婆の露店が見えてきた。露店にはもう『止まらないペン』は売っていないようだ。
「婆さん」
「・・・」
「『止まらないペン』を売ってくれないか」
「取り扱いを終了しております」
こんなバカなことがあるか。せっかくここまでたどり着いたんだぞ!
「それじゃ困るんだ、たのむ。取り寄せとかできないのか」
「もっといい商品がございます」
「なんだって?」
『止まらないペン』よりもいい商品があるなら、それを買えばいいだけじゃないか。この露店の商品がホンモノであることは十分に承知している。
「『終わらないワープロ』でございます」
俺は心底がっかりした。俺は手書き派なのだ。他人は俺を笑うかもしれないが、ワープロなんて使ったことがない。
「婆さん、俺はこういう機械はまったくダメなんだ。やはりあのペンを売ってくれ」
老婆は地獄の底から響いてくるような声で言った。
「ご心配には及びません。ご自身の意思や経験とはかかわりなく身体が勝手に動くところに当店の道具の妙味があるのでございます」
確かにそうだった。『止まらないアイデアブック』も『止まらないペン』も俺の意思や経験を超越した行動を、俺にとらせた。
「買おう。いくらだ」
「百万円です」
(このばばあ、足元見やがって・・・! 最初からこれを売りつけるつもりでいたな・・・!)
ベストセラー作家である俺からすれば、払えないことはない金額だ。ただ、こんな婆さんのセールステクニックにまんまとハマった自分自身に怒りを覚えただけである。しかし、これを買わないことは、せっかく確立した今の地位を失うことを意味する。悩んだ挙句、俺は購入を決心した。
「・・・買うよ」
「ありがとうございます。ご自宅まで届けさせましょう」
入金と配送の手続きを行うと、俺はこの胸糞悪い路地をさっさと抜けてしまおうと来た方向とは反対側に向かって足早に歩きだした。老婆の視線が俺の背中に突き刺さる。俺は後ろを振り返ることなく歩いた。
路地を抜けても、音のない世界は続いていた。悪寒も一向に消えてくれない。俺は、重い身体を引きずるように自分の安アパートを目指して歩いた。アパートの外階段をあがり、自室の隣、202号室を通り過ぎようとしたとき、フワッとバイオレット系の香りがした。そして、そのドアノブになにかがかかっているのに気が付いた。
(これは?)
ドアノブにかかったそれは、すみれ色の数珠ブレスレットだった。202号室の表札プレートをみると、
「202 倉崎紫苑」
と書いてあった。
カフェの彼女が倉崎紫苑であったことも驚いたが、その彼女が俺の隣室に住んでいたことには心底びっくりしてしまった。
(よくカフェで出くわしていたことを考えると、こんなこともあるか)
のんきに構えていた俺は、何気なしに自室をはさんで反対側の204号室を見て凍りついた。
204号室のドアノブには黒いスカーフがぐるぐる巻きに巻き付けてあり、ドアには「契約済」のシールが貼り付けられていた。
表札プレートには、
「204 陰山ポン太」
とあった。
そして目の前の自室の表札プレートをみると、自分の苗字ではなく、ペンネームが印字されていた。
俺は自室に異様な雰囲気を感じ取り、入ることをためらった。
(この世界はおかしい)
結局、外階段をおりて、ポン太の携帯に電話をかけてみることにした。相手が電話に出た手ごたえがあったので話しかけようとすると、スマホから聞こえてきたのは、ドヴォルザークの『家路』だった。俺はすぐに通話を切った。
この世界はやばい。直感が告げていた。あの路地を反対側に抜けなければならない。気づけはあの路地に向かって走っていた。元の世界に戻らなくては。
すべてがわかった。誰かが俺たち若手作家を陥れようとしている!
倉崎紫苑がこの世界に囚われたのも、俺がこの世界に来てしまったのも、陰山ポン太がこれからこの世界に来ようとしていることも、誰かの書いた筋書きなんだ! 同じ筋書きが俺たち若手作家それぞれに割り当てられている! 若手作家から若手作家に連鎖するように! 輪唱のように少しずつ時系列をずらしながら巧妙に! 連鎖を止めるには、俺が元の世界に戻ってポン太を止めるしかない! 見えた! あの路地だ!
暗闇の路地に入ると、あの老婆とあの編集者が道をふさぐように立ちはだかっていた。
「小説を書きなさい」
老婆が俺に向かって両手をかざすと、俺は深い眠りに落ちていった。
目を覚ますと、俺は自室のデスクに座っていた。厳密に言えば、自室ではない。ペンネームの表札プレートがついた自室のほうだ。俺は逃げられなかったのだ。
デスクには新品のワープロが置いてあった。自分の意思や経験と関係なく、俺は電源を入れてしまった。それからずっと執筆が終わらない。なんとなく、こうなることはわかっていた。終わらないとは、文字通り終わらないという意味なのだ。
耳を澄ますと、隣室の202号室と204号室から、間断なくキーボードの打鍵音が聞こえてくる。
打鍵が止まらない。
外界と接触する唯一の手段は、自分の書いた小説だ。
打鍵が止まらない。
小説のなかにSOSのサインを隠し、読者に気付いてもらうしかない。
打鍵が止まらない。
あの編集者に気づかれないようにそれをやってのけるにはどれほどの時間がかかるだろうか。
打鍵が止まらない。
いまこれを読んでいるあなた。俺をたすけてくれ。
打鍵が止まらない。
ああ、俺に割り当てられた筋書きには最後になんと書いてあるんだ。
打鍵が止まらない。
俺は助かるのか。助からないのか。誰か教えてくれ。
原作:原作者は JOJOさん です(編集者注)
作家デビューして数年が経った主人公。
しかしデビュー作も売れずその後もヒット作品はなし。
このまま作家としてやっていくか先行きが不安。
ある日、作品のアイデアを考えようと散歩をしていて路地裏に入ると、老婆が小さな露店を出していた。
商品は一種類のみ。「”止まらないアイデアブック” 百円」とある。
主人公は老婆に問う。
主人公「止まらないとはどういう意味なんだ?」
老婆「止まらない、という意味でございます」
主人公「なんだそりゃ。まぁいいや百円だし買うよ」
老婆「ありがとうございます」
こうして主人公は”止まらないアイデアブック”を手に入れた。
さっそく読むと、次々と作品のアイデアが閃いていく!
編集者にアイデアを話すと、面白いのでぜひ書いてくれと頼まれることになった。
久しぶりの執筆依頼。
だが、久しぶりに書くのでなかなか執筆は進まない。アイデア自体はあるのに文章化することが難しい。
主人公は気分転換に散歩に出かけ、路地裏に入ると再び露店を出していると老婆を発見した。
主人公「婆さん! この間のアイデアブックは良かったよ。おかげで次々と作品のアイデアが閃いた」
老婆「それは、よろしゅうございました」
主人公「お、今度は”止まらないペン”だと! これは執筆が止まらなくなるくらい捗るってことか? 千円か。買うよ」
老婆「ありがとうございます」
こうして主人公は”止まらないペン”を手に入れた。
さっそく使ってみると、ノンストップであっという間に作品を一つ完成させてしまった。
編集者に送ると「面白い」とのことですぐに出版が決まった。
主人公は”止まらないアイデアブック””止まらないペン”を駆使して、次々と作品を発表する。
その後いくつもヒット作が生まれ、売れない作家から一躍大ベストセラー作家となった。
ある時、次の作品を書いているとペンのインクが切れてしまった。
インクを交換したが執筆が捗らない。”止まらないペン”の効力が切れてしまったようだ。
主人公は婆さんから再びペンを買おうと路地裏へと向かう。
文字数制限により詳細は書けないので
主人公と老婆のやり取りを簡略に。
老婆は”終わらないワープロ 百万円”を売っていて、主人公はそれを買う。
こうして主人公は”終わらないワープロ”を手に入れた。
だが、このワープロ、一度執筆をし始めると文字通り”終わらない”ので、主人公は一生ワープロの前にしがみついて、作品を書き続けるだけの人生を送ることになった。




