眠れる炬燵の姫 yo
【2025年4月5日】
未だに、おっぱいのことばかり考えている。
もうあの日から10年が経過している。10年もかけたのに、僕は結局何の手がかりも見つけられずにいる。小学生の頃は、毎日1つずつ賢くなっていくと思っていたし、事実そうだった。僕は毎日賢くなり、毎日偉くなり、ぐんぐんと大人になっていっているという自負と自覚があった。にもかかわらずこの10年は全く成長していない。ずっと彼女のことばかりを考えてばかりで、そこから一歩も進歩していない。僕は、彼女のせいで全く成長しなくなってしまった。何も成長できないままに、29歳の誕生日を迎えている。しかも、この会室で。10年前と全く同じ場所にいる。変わったことと言えば、当時より髭の濃くなったこの顔くらいだ。
怒りが沸々としてきたら、僕は必ずおっぱいのことを考える。とりわけ、お姉さんのおっぱいについて。おっぱいについて考えている間だけは、心を落ち着けていられるからだ。思えば、お姉さんと会えなくなってからも、何度もお姉さんのおっぱいに救われてきた。
【2015年4月1日】
今日も今日とて、おっぱいのことばかり、考えている。
ついに念願の大学入学を果たしたというのに、である。大学とは、学問の聖域ともいうべき場所である。大学は、自らが志す学を修める場所である。そのはずだった。いざ大学に入学してみたら、大学の敷地内には喧噪とアルコールの沼が広がっていた。入学式直前のオリエンテーションの日、期待に胸を膨らませながら構内に一歩足を踏み入れると、道の両脇から大量の紙が投げ込まれた。要らないと断る間もなく、両手にはどんどんと紙が積まれていく。大学に無数に存在する公認・非公認のサークルが勧誘をしているのだ。大学の門からオリエンテーションの教室まで、徒歩1分程度の距離しかないというのに、その間に僕の手にはなんと68枚ものビラが収まっていた。テニスサークル「シルバーキャノン」だけで5枚ものビラが入っているのを確認したときには、絶望と呆れで空いた口が塞がらなかった。
そんな衝撃的な大学初日を経験した後、僕が最初に参加したイベントは「新入生歓迎会」というものだった。各サークルが企画し、新入生を囲い込み、入会を強要するイベントである。しかし、形式上の「入会」という対価を払えば、無料でご飯が食べられるという特異な構造を持っており、僕は日々の食費を浮かすためだけに新入生歓迎会に参加していた。
今日参加しているのは、国際交流サークル"Rainbow Party"が開いたものである。このサークルには僕も少しだけ期待していた。日本での学びを志す留学生が集まっている場所ならば、語学の鍛錬だけではなく、外国の文化に直接触れることができるし、彼らの出身大学とのパイプを形成することができる。まさに僕の学問世界を広げる媒体となるべき人材の宝庫だと言えるだろう。
だが、目の前に広がる光景は、他のサークルと何ら変わるところはなかった。留学生は夏に日本へやってくるため、4月の新歓の時期にはほとんどいないのだそうだ。総勢50名を超える大宴会に、外国人の姿はなく、僕はまたしても期待を大きく裏切られることになってしまった。いくら無料でご飯を頂けるからと言って、これでは心にかかる負荷が高すぎる。こんなときこそ、おっぱいのことを考えて心を落ち着かせるのだ。
「私、酔っちゃいましたぁ」
不意に太腿に温もりを感じた。気づけば見知らぬ女性が隣に座り、僕の太腿に触れていた。
「さあさあ、このお店は麦茶が名物なんですよぉ」
女性に言われるままに飲み物を受け取る。酒などという思考を乱すものを摂取する気は毛頭ないが、麦茶というのなら注いでもらうのはやぶさかではない。
「ありがとうございます」
僕はこのような軽薄な女性の前でも、こちらの礼儀は忘れない男だ。丁寧に礼を言い、麦茶をいただいた。
いただいた麦茶は、明らかに普通の麦茶ではなかった。そもそも白い泡が立っている。飲んでみれば、心地よい苦みと、ゴクリと飲み込んだ時に舌から喉を伝う炭酸のような弾ける刺激は、僕の知るどんな飲み物とも異なっていた。しかも、一口飲んだだけで、なんだか体が温まってくるのだった。
「これがほんとうにむぎちゃなのですか」
「えへへ、麦茶ですよー。おいしいですね。 かんぱーい!」
自分でも驚くほど言葉を発するのが難しくなっていたが、なぜこの一瞬で滑舌が悪くなったのかを考えることさえ、今の僕には難しかった。
「おいしくないですか? あんまり好きじゃない?」
女性が心配そうに僕の顔を覗き込んできた。
「い、いえ、おいひい、おいしい、です!」
何とか言葉をひねり出すと、女性は安心したような緩んだ笑顔を湛え、「いいですねー」と言いながらまた麦茶を注いでくれた。
○●
「あ、黒猫さんですねー」
彼女の陽気な声で精神が浮上した。気づけば人気の無い夜道を二人で歩いていた。なるほど、良い麦茶というのはこんな風に良い気分になるものなのか。状況から推察するに、僕はRainbow Partyの飲み会からの帰り道を歩いているらしい。だが、なぜ彼女がいるのかは、見当すらつかなかった。
「わたし、男の人の部屋に来るのって初めてなんですー」
「へえ、これから男性の部屋に向かわれるのですね」
「嫌だぁ、とぼけちゃってー。『うちに来ますか』なんて誘ってくれたのは紺野さんじゃないですかぁ。みんなの前で急に誘ってくるんですもん、本当に恥ずかしかったんですからね? それなのに、今度はさも自分は知りません、みたいな顔してとぼけちゃって。もう、いけずですね、紺野さん」
彼女が何を言っているのか全く理解できなかったが、僕が、この女性を、僕の自宅に、みんなの前で誘ったのだという。断じてそのような記憶はないのだが、などと思案する間に、僕の家に着いてしまった。
「わーい、おじゃましまーす」
彼女は当たり前のように上がり込み、まるで自分の家かのように棚からグラスを2つ取り出し、「はいはい、どうぞー」と言ってまた麦茶を開けた。
なるほど、いい麦茶というのは泡が立ち、黄金色をしているものなのか。先ほど店でいただいた麦茶はもっと麦茶らしい褐色だったのだが、これはまた別種のものなのだろうか。今度、麦茶の製造過程と品種の区別を調べることにしよう。
「大学に入ってまだ数日ですが、本当に落胆しました。大学だというのに、誰も学問をしている素振りさえ見せないのです。僕は科学の子です。科学をするために大学に入ったのです。科学は大変素晴らしいものですよ」
良い麦茶を一口飲むたびに、僕は科学のすばらしさを彼女に語っていた。アリストテレスは天文学ではあまり大した発見はできなかったが、博物学の世界では、動物の分類を帰納的に実証して見せたこと。これが現代でも使用される実証的観察の元となっていること。現代の世界では民主主義が政治思想として最も優れているとされているが、その思想の元はアテネにまで遡ること。
僕はとにかく語った。日本では文系と理系を分割して考え、アカデミズムの世界でも「文系は科学にあらず」「何も定量的でない手法を用いても、それは科学とは言えない」などの狭量な見解が跋扈していること。僕自身の考えとしては、ものごとを定量的に分析することにも、定性的に分析することにも一長一短あり、研究目的に沿った手法を選択することが望ましいと思っていること。
僕はなおも語った。科学は、本来的にはこの世界の存在、構造、真相を明らかにするのが目的であって、それが人類にとって好ましいか否かは関係ないこと。しかし、僕自身はどうしても自分の科学が人類の幸福に寄与してほしい気持ちを否定できないこと。
「だって、僕が科学をやる一番の理由は、」
「『幸福』だからです、だよね」
うんうんと朗らかな笑みを浮かべて聞いてくれていた彼女が、徐に口を開いた。
「紺野くん、何も変わってないね。ちょっと安心した」
さも昔から僕を知っているかのような口ぶりに、僕の言おうとしたことを言い当てた驚きも相俟って、僕はどう返答したら良いかわからなかった。
「あー、『なぜ美姫ちゃんは、さも昔から僕を知っているかのような口ぶりなのだろうか』みたいな顔してる! 酷いなあ。名前聞いても思い出さなかったの?」
美姫、美姫……。
「ばか。じゃあこうしたら思い出してくれるかな?」
美姫さんはヘアゴムを取り出し、肩のあたりで切りそろえられた髪を後ろでまとめた。ポニーテール姿になった彼女を見て、僕ははっきりと思い出した。
「え、美姫さんって、あの岸本美姫さん!? 小学生のころ、鈴宮くんと3人で海を探索した!」
「やっと思い出した! 店で会ったときから岸本美姫って言ったでしょう。酷いよーもう、ばかぁ」
正直、自己紹介された記憶はない。さらに言えば、見た目もあまり見覚えがなかった。
「ごめんなさい。僕はあまり人の顔を覚えられないのです」
「それは、紺野くんが絶対に人の顔を見ないからでしょ! でもポニーテールだけは覚えててくれたんだ。紺野くん、実はわたしのことを後ろから見てたんでしょ。えっち」
何も言い返せずうな垂れる僕に、美姫さんはふふふ、とまた朗らかな笑みを見せた。
「まぁいいや。結果的には思い出してくれただけ良しとします。紺野くんが人のこと覚えてるなんて思ってなかったし」
「申し訳ない……」
「ねえねえ、そんなことよりさ、またあの頃みたいに探索しようよ! わたしの研究会に入ってさ。この世界を幸せにするための研究をする、それは由緒正しい会なのだよ」
「この世界を幸せにするための研究……」
得意げな彼女の表情が、昔を思い起こした。小学生のころ、山奥に見つけた不思議な球体は、中に水を含んでいた。それを見て美姫さんは「これが海なんだよ!」と堂々と言ってのけた。山の中に海があるはずないのに。
「美姫さんがその顔をするときは、大抵的外れなことを言っている時です」
「あっ! もう、余計なところまで思い出さなくていいのにぃ」
2人でしばし笑いあったあと、僕ははっきりと答えた。
「いいでしょう。やってやりましょう!」
この人となら、なんだかすごいことができそうな気がした。
【2015年4月2日】
翌朝、謎の頭痛と吐き気に襲われながら目を覚ますと、彼女は僕の家のキッチンに立っていた。
「昨日は急に泊めてくれてありがとう。あんまり大したお返しはできないんだけど……」
美姫さんはそう言って少し恥ずかしそうに朝食をふるまってくれた。卵焼き、きんぴらごぼう、魚……はなかったが豆腐と味噌汁、そしてご飯。本人は恥ずかしそうにしているが、僕の冷蔵庫に入っていたなけなしの食材で、想像しうる最高のものを作ってくれたと思う。
「ありがとうございます。いただきます。……! これ、滅法おいしいです!」
「『滅法』って、今日日聞かないよね」
そうして2人で大学へ向かった。まだ講義が始まる前だったが、美姫さんの研究会の会室へ向かい、2人で入会申請を済ませた。会長の高木さんは理知的な雰囲気だったが、どこか少し抜けたところのある女性だった。
【2015年4月5日】
それから3日後、僕は美姫さんがいるだろうと思い、炬燵研究会の会室へ足を向けた。炬燵を研究することと世界を幸せにすることは何か関係があるのだろうか、と訝しんだものだが、美姫さんが「何言ってるの! 炬燵の『こ』は幸福の『こ』!」と言って聞かないので、一旦そういうことにしていた。あまり科学的な説明とは言えないが、そこはこれから僕らで解明していけば良いだろう。会室に入ると、美姫さんは部屋の真ん中に置かれた炬燵に入り、板に頭を乗せて休んでいた。
「美姫さん、炬燵で寝ると風邪ひきますよ」
返事がないので、仕方なく乱雑に放られた毛布を美姫さんにかける。
「美姫さん!?」
美姫さんの目が開いている。美姫さんは人から話しかけられて、意図的に無視できるような人ではないし、事実目が開きっぱなしで焦点も合っていないように見える。肩を揺さぶっても、一切反応を示さなかった。
この日以来、僕は停滞した。
【2025年4月5日】
おっぱいについて考えていたら、少し心が落ち着いてきた。この炬燵も、10年前に美姫さんが入っていたのと同じものだ。あの日以来、本当に多くのことに挑んできたつもりだった。美姫さんは一切反応を示さなくなったが、病院での検査の結果、死んだとは判断されなかった。呼吸も心拍も停止しておらず、瞳孔を検査したところ、正常な瞳孔の収縮が確認されたからだ。また、脳の活動も活発で、何ら異常は認められなかった。脳波検査の結果、美姫さんは大脳を含め脳の各所から微弱な電波を検出したのである。これでは、植物状態とも少々異なる、極めて珍しいケースだと医師は美姫さんの家族に説明をした。
「先生、要するに、美姫は死んではいない、と?」
「そうなります」
「では、いつ意識が戻るのでしょうか」
「それは何とも申し上げられません。一般的な植物状態でも、いつ意識が戻るのか全く分かっていないのです。まして娘さんは、更に特殊な状態。今は信じて待ちましょう、としか……」
了承せざるを得なかったご両親は、それから美姫さんの生命維持費という固定支出を背負うことになった。その間、僕は何度も病院に通い、美姫さんに何か変化がないか観察し、どうにかして美姫さんが復活しないか、考えていた。
ちょうど今日で10年。あの日に会室の隅に隠しておいたタイムカプセルを取り出した。今日ここに来たのは、このタイムカプセルを開けなければと思い立ったからだ。タイムカプセルと言っても、土に埋めていたわけではなく、会室の隅に誰にも見つからないように置いておいただけだ。もっと言えばこの場所は、簡単な捜索のために警察や家族が立ち入って以降は誰も入っていないので、隠さなくったって誰も持ち出したりはしない。タイムカプセルには、当時美姫さんが残したと思われる手紙を入れてあった。
「初めて会った時から好きでした。どうか私の仇を討ってください」
彼女の意識が消えた日、第一発見者であった僕はこの手紙が彼女の手元に置かれていることに気づいた。彼女の意識がないことで既に気が動転していたにも関わらず、彼女に思い人がいたことにさらに気が動転し、思わず手紙をポケットにねじ込んだ。
だが、冷静に考えれば、この思い人は僕であるはずだった。炬燵研究会に出入りしている男性は僕だけだったし、彼女が同性愛者である可能性も考えにくかった。
僕は科学の子である。
となれば、やることは1つしかない。これを復讐と呼ぶのかはわからないが、決意は固まった。
「いいでしょう、やってやりましょう」
【2018年4月15日】
僕はこの3年間、美姫さんの意識の行先をずっと研究していた。幸い大学では比較的自由に研究テーマを設定できる工学部に進学していたため、ヒトの意識を研究テーマとして取り上げ、意識の所在、身体からの遊離可能性等に関する講義をひたすら履修していた。そうした科学的手法から彼女を助ける糸口を探るためだ。
だが、ある意味当然のことではあるが、どんな講義も痒いところには手が届かなかった。3年で分かったのは、脳が情報をどのように処理するかに関する、特に物理的な過程だ。いい加減にまとめてしまえば、五感を通じて得た刺激が、電気信号となって神経系を通り抜け、脳に認知される。脳は認知した情報を理解し、反応として行動を指示する信号を神経系に返す。これによってヒトは身体を動かすことができる。
この構造に美姫さんを当てはめて研究を継続した結果わかったのは、次のような項目だ。
・植物状態である美姫さんには、栄養の補給以外に何ら外部的な刺激は発生していない
・それにも関わらず、脳は活発に情報処理活動を継続しており、毎日定期的に睡眠と思われる脳の状態も示している
・そして、その脳の活発な情報処理活動は、神経系には何ら指示を出していないために、美姫さんは目を覚まさない
こうして検討する中で、美姫さんの身体に起きている事態に対する仮説は2つに絞られた。
・脳から神経系に指示を出す回路が故障している
・脳からの指示を受け取る神経系の機能が故障している
だが、どんな検査を通じても、神経系や脳に不審な点は見つからなかった。
一方で、もう1つ別種の疑問もまだ残っていた。
・外的な刺激がないにも関わらず、なぜ脳は活発に活動しているのか
おかしな話である。それも、夢を見ている時の脳の状態とも異なるとのことで、脳は確実に覚醒し活動しているのである。外部刺激もない、睡眠状態でもない、しかし脳は活動を続けている。
ここまで調べて、僕は科学による謎の解明作業以外にも検討の幅を広げる必要性を感じるようになっていた。
世の中にはまだ科学では解明できない不可解な現象というものも存在する。「まだ科学的に証明されていないだけ」だと信じてはいるものの、今科学的に説明できないからと言って、その現象が「存在しない」と断定するのは極めて非科学的な態度だと言わざるを得ない。もし美姫さんの意識喪失がそちらの類だったらと思うと、現在の科学的手法だけに頼ることに不安を抱えてもいた。
そう思って以来、「科学の子」というセルフイメージを一時的に捨て、非科学的な現象に何かヒントがないかと探すようになった。
植物状態に関する「奇跡」的なエピソードを多数収録した本や都市伝説、マッドサイエンス等の、根拠薄弱にして本来唾棄すべき本にも手を伸ばした。そこで見つけたのが、異世界あるいはパラレルワールドの存在可能性と、世界間の転移可能性に関する本だった。こちらを真と仮定して考えれば、美姫さんの意識は何らかのきっかけによって意識のみが異世界に転移したと捉えることが可能である。この仮説は、美姫さんの脳の活動が活発であることとも奇妙だが符合するため、その他有象無象の「奇跡」よりも信憑性が高いと判断した。
そうなれば、こちらの線で究明すべき点は3つである。
・美姫さんが転移した世界はどこにあるのか
・その世界に転移する入口はどこにあるのか
・入口からはどのように進入・脱出するのか
明らかにすべき点が多いのは苦しかったが、何も仮説が立たないよりはかなりましだった。これから大学院にも進み、さらなる研究活動を行おうとしていた大学4年の4月、美姫さんの両親か急に連絡が来た。
「生命維持装置を外そうと思うんだ」
【2018年4月20日】
おっぱいのことを考えている場合ではない。
今目の前には、極めて渋い顔をした美姫さんの両親がいる。
「君の気持ちはありがたいんだ。美姫のことをそこまで考えてくれて、行動したいという気持ちは。でもね、イマイチ言っていることがわからないんだよ。『炬燵世界』だとか、『世界の狭間へ行くカギ』だとか、どんなに君が天才的な人物で、私たちが凡人すぎると仮定したとしても、そこに賭けてずっと生命維持費を支払う力は、我が家にはもうないんだよ」
3年前の5月から、美姫さんの両親に毎月欠かさず研究状況を報告していた。その状況を知った上で、この決断なのだという。
「ですが、究明すべき論点はもうかなり絞れてきています。この研究を進めていけば、美姫さんは必ず……」
「必ずではないだろう。今まで毎月報告をくれて、本当にありがとう。ただのサラリーマンである私には随分難しい内容だったが、娘のためだし、娘を想ってくれている君の誠意をしっかりと受け止めたいと思って、必死に内容理解に努めたよ。でも、君の報告書のどこを読んでも、今の論点が全て明らかになったからと言って、それが『必ず』美姫を助ける方法になるとは書いていないよね」
「すみません、必ずではありませんでした。ですが、まだ可能性が残っているんです。僕に可能性を残してください! お願いします!」
「ああいや、すまない。重要なことを言い忘れていたよ。なにも、今すぐ装置を外そうっていうんじゃないんだ。私たちの希望が断たれる瞬間までは頑張るつもりだよ」
「希望が断たれる瞬間、ですか」
「ああ。あと2年だ。植物状態の人が、そのまま心拍機能を停止させるまでの期間だ。普通は半年程度、長くて2年から5年という。その5年の期日が、あと2年なんだよ」
あと2年で、今抱えている研究を全て終わらせ、美姫さんを救出する。今までの歩みからしたら、明らかに期間が短い。
「あと2年ですか……」
「ああ。すまないが、飲んでくれ」
僕が縋りつくたび、もうやめてくれと言わんばかりに苦しそうな顔をする。母親に至ってはずっと下を向いて泣いている。
今目の前にいる2人に、これ以上苦しい思いをさせられない。
【2018年5月7日】
あと2年という期日を与えられてから、もう2週間以上経った。僕は、ずっと何にも手につかない状態になっていた。あと2年でこの研究が終わるはずもない。3年でここまで論点を整理できただけでも驚異的なペースだと、自分でも思う。
さらに言うと、美姫さんの父親は言及しないでいてくれたが、僕の研究はここ半年ほど全く進んでいない。どの論点も全く手がかりがなく、研究は完全に暗唱に乗り上げていたのだ。悶々と日々を過ごしていても仕方がないのだが、何をすれば良いのか、皆目見当もつかなくなってしまった。しかし、そうしている間にも期日は近づいてしまう。しかも、その期日は両親が設定したもので、それよりも早く美姫さんが何らかの理由で死を迎える可能性も充分にある。考えてみれば、ここまで美姫さんが安定して生存していることの方が奇跡に近いのだ。
そんな時、ふと研究室の仲間に言われた言葉を思い出した。
「研究に行き詰まったら、しばらく違うことをするのが良い。リフレッシュしてからじゃないと、良いアイデアが浮かばなくなるからな。何がしたいんだか知らんが、紺野は研究のことしか考えてなさ過ぎだよ」
これは確かにそうだ。悶々としているのが最もまずい。他にできることを考えた結果、僕はあることに気が付いた。
「そうだ、僕が期日を伸ばせばいいんだ」
期日を設定したのは美姫さんの両親だ。彼らが抱えている困難は2つ。植物状態で生存可能な年月が迫っていること、そして彼らの経済状況がかなり苦しくなってきていること。僕が思いっきり稼いで、それを生命維持費に充てれば、少なくとも困難の1つは解決できる。美姫さんの生存可能期間の問題はあるにしても、リスクを少なくできるなら、少なくとも美姫さんの生命活動が続く限りは研究に打ち込めるかもしれない。
【2025年4月5日】
古今東西、こんな理由のためにビジネスを立ち上げた人がいるだろうか。7年前の自分を思い出しながら苦笑する。せっかく会室にまた来たので、炬燵を楽しみたいと思った。冷房をガンガンにかけて部屋を寒くした後、僕は炬燵のスイッチを入れた。
当時の僕はビジネスなんて全く知らなかったが、どうにかして2年以内に大金を手に入れようと決意した。まずはいくら必要なのかを試算しないと、どの仕事をするのかを決められない。そこで、美姫さんの生存可能性を広げるための手段の模索も開始した。
植物状態の人の死因として多いのは、植物状態そのものによるものではなく、「ずっと寝たきり」であることによるものだった。同じ姿勢で寝ていると、体の一部への血液供給が遮断されて皮膚が破れたり、体を動かさずにいることで筋肉が永久的に硬直し、関節が曲がったまま元に戻らなくなったり、脚の静脈に血栓ができたりするのだという。さらに、経管栄養による栄養補給では最低限の栄養しか補給されず、一般人よりも免疫機能等が低下する。これらの要因等が重なり、呼吸器感染症、尿路感染症、または複数の臓器の重度の機能不全等が発生して死に至ることが多いのだという。
これを避けるためには、植物状態といえど適度な運動をさせなければならない。専属のトレーナーを雇い、日光浴や外部から強制的に身体を動かす活動を行ったりする必要がある。そもそも、美姫さんが無事に意識を取りもどしたとして、筋肉が全く足りずに結局寝たきりとなるのでは元も子もない。
これらすべてをまかなうための金額を算出し、僕はそれを実現できる仕事を検討した。しかも、この仕事には一定の制約が付きまとう。僕にある程度の研究時間を与えてくれる仕事であることだ。いくら高給取りになったところで、仕事に忙殺されて20代を過ごすようなことがあっては本末転倒である。
「ねぇ美姫さん。僕は本当にバカです。あなたのためだけに、こうして自分で会社を立ち上げて2年で成長させ、大企業にバイアウトしたんですよ。でも、そんなことができたのも全てあなたが生きているおかげです」
手紙を眺めながら、1人で呟く。僕が立ち上げたのはAI開発サービスを行う会社だった。発想自体はさほど新しくないが、僕が意識に関する研究をしていたことが功を奏し、AIに意識に似たものを組み込むことに成功した。これが大いに売れて、バイアウトした際は大手の通信会社が50億円も出してくれた。
こうして僕の手元にも、一生遊んで暮らしていけるだけの大金が手に入ったのだ。
このお金を美姫さんの両親の元へ寄付し、美姫さんの生命維持活動に全て活用してもらうことになった。
だが、本当に苦しかったのはそこからだった。
そこまでの5年間、僕はとにかく障害を乗り越えようと努力してきた。美姫さんの意識喪失の謎に挑み、解明できていないがある程度のところまで進めることができた。金銭的、身体的制約からくる生命維持の困難についても、奇跡的に乗り越えることができた。
今、美姫さんは病院で毎日トレーニングをしている。専属のトレーナーの内田さんが必死で筋肉量を増やすための工夫を、担当医とタッグを組んでずっと試みてくれている。2人にとっては何のやりがいもない仕事かもしれないが、それでもある程度充分な給料がもらえているはずだ。
ここに至ってなお、僕を苦しめるのは「研究が進まない」という原初的かつ根本的な問題だった。起業してからバイアウトするまでの2年間は、結局研究に手をつける余裕を持てなかった。その後、今日にいたるまでの5年間は、本当に進捗が全くないのだ。3年前の秋には、美姫さんの両親から、月次報告書はもういらないと言われてしまった。
「僕は一体、何をしているんだろう」
様々なことに手を出して、研究を進め、ビジネスを成功させても、自分が本当に欲しかったものはまだ手に入っていない。本来、幸福を研究するのだと言って科学の世界を志した人間が、どうしてこうなってしまったのか。
コンビニで買ってきた麦茶――もちろん、僕はあの日以来断固としてこの飲みものを麦茶と呼ぶようにしている――を開け、一気に飲み干した。全く酒に強くない僕の体に、瞬時に良いが周った。炬燵の暖かさと、上半身の寒さ、そして急激な酔いが、僕を睡眠へと誘った。
「美姫さん、僕は、どうすれば――」
○●
眠りに落ちながらも半分起きている頭で、なおも思考を続ける。僕は何のために生きているのだろうか。僕は幸福だったのだろうか。そもそも、僕は幸福を定義することすらしてこなかったではないか。幸福とは何だろうか。手始めに、僕が幸福だと感じた瞬間を思い起こして、帰納的に幸福を定義してみよう。
名前も知らない女の子に「紺野くん、好き!」と言われた幼稚園時代。
美姫さんや鈴宮くんと海探索をしていたあのころ。
お姉さんのおっぱいについて考えている時間。
部活後、部員と一緒に買い食いをしながら、お互いの将来を語り合った高校時代。
そして、大学に入って美姫さんと過ごしたほんの数日間。
やはり美姫さんがいなくなって以降は「幸福」という感覚を抱いたことはなかったように思う。しかし、そこに今、もう1つ事例を加えることができそうだと思った。
寒い中、炬燵の温もりに包まれているこの瞬間。
間違いなく、幸福に包まれているような感覚だった。
○●
夢を見ているような感覚がする。炬燵の暖かさに包まれてとても心地よい。夢のはずだが、僕はなおも炬燵に入っていた。周囲を見渡すと、道行く人も全員炬燵に入っている。驚いたことに、炬燵に入りながらもきちんと移動できているのだ。
「韋駄天炬燵か」
僕も試してみる。夢の中の韋駄天炬燵は、誰かが運ばなくても僕の思念に従って動けるようだった。
人類がみな炬燵に包まれている世界。これはまさに、僕が追い求めていた炬燵世界なのではないだろうか。
「美姫さん……」
彼女がここにいる可能性がある。現実への帰り方はわからないが、とにかく彼女を探さなければならない。
そう決意を新たに、韋駄天炬燵を再び動かし始めると、急に地面が激しく揺れ始めた。
周囲の人は何も起こっていないかのように歩みを進めているが、僕だけは震度7クラスの揺れを感じて全く動けずにいた。周囲にある建物が崩れ始め、青々とした空にさえ亀裂が走る。地面もガラガラと音を立てて崩れ始めた。
「美姫さん! ああ、あああ!」
これからという時に、なぜこうなるのか。何が起きているのか。揺れに耐えて必死に韋駄天炬燵を前進させている間に、意識が途切れた。
○●
目が覚めると、僕はまた相変わらず炬燵研究会の会室にいた。眠りに落ちてからものの30分程度しか経っていない。ちょうど睡眠を始めて、夢を見始めたころに起きた、というような感覚だ。
「なんだったんだ……結局ただの夢か」
それでも先ほどの夢をもう一度見たいと思って炬燵に頭を乗せると、傍らでスマホが振動した。内田さんからの電話だった。
「はい」
「紺野さん! 岸本さんが! 岸本さんが!!」
【2025年4月6日】
もう深夜になり、日付も変わってしまっている中、僕は美姫さんのいる病院に急行した。夜勤の看護師さんに案内してもらい、病室へ到着すると、内田さんが飛びついてきた。
「やりましたね! ついに! 岸本さんが起きましたよ!! ……あ、ごめんなさい、私が抱きついていたら見えませんよね」
美姫さんは何がなんだかわからないといった表情で、僕の顔をまじまじと見つめていた。
「美姫さん?」
聞こえなかった、というように耳をこちらに向ける。
「美姫さん!」
ベッドの横へ行き、美姫さんの手を取る。
「僕ですよ、美姫さん」
美姫さんは何も言わない。
「もしかして、声が出ないのですか」
美姫さんはうなずいた。
「わかりました。Yes No質問に切り替えます。僕のことがわかりますか」
――No.
「はは、酷いな、もう。あの時の仕返しですか。ではちょっと待っててくださいね」
そう言って僕は、看護師さんに髭剃りを借りて洗面所へ走った。髭をきれいさっぱり剃ってもう一度彼女の前へ行く。
「これでどうですか。僕がわかりますか」
――Yes.
美姫さんは心底驚いたという顔でうなずいたと思えば、急に泣き出しそうな顔になって僕に縋りついてきた。
「もう、あの日の僕と同じことしないでください。結構傷つきます」
美姫さんはうん、うんと何度もうなずいた。
なぜ美姫さんが起きたのかなんて、今は心底どうでもよかった。
【2025年4月17日】
覚醒から数日後、美姫さんは徐々に声を出せるようになった。そこから、2人でお互いの今までを振り返っていた。
美姫さんは、今思えばずっと夢を見ていたような感覚だったのだという。みんなが炬燵に入って、炬燵のまま移動する世界にいて、最初は誰も知り合いがいない。でも今は夢の中だから、起きるまではここで何かするしかない。そう思ってずっと生活していたのだ。
その他にも、たくさんの話を聞いた。
不思議とお腹が空かなかったこと。
炬燵人――僕らは炬燵世界の住人をそう呼んだ――はみな優しかったこと。
ずっと炬燵に包まれている温もりは、とにかく幸せだったこと。
優しい炬燵人の中でも、特に仲良くなった人が何人かいること。
そして、僕もお返しとばかりに自分がしてきたことを話した。
「ええー、なにそれ、わたしの生命維持のために起業までしたの? 重いなぁ」
「だって、可能性の芽を潰したくなかったんです。ご両親にただお願いするだけでは申し訳ないとも思っていましたし。あ、麦茶いりますか」
「ありがとう。これ、スタウトだね。あの時わたしが飲ませたやつ。ふふふ」
「ですが、少し残念なこともあります」
「なに?」
「せっかく炬燵世界の謎を解く糸口を掴んでいるのに、それを明らかにする動機を失ってしまいました」
「ごめんなさい、私が起きちゃったせいですねぇ」
「違う、違うんですよ、美姫さんが起きてくれて僕は心の底から幸せです。ただ、ちゃんと謎を解きたかったというか……その……」
なんとも間が悪く言い澱んでしまった僕を見て、彼女はあのころのようにふふと微笑んだ。
「わたし、もう一度炬燵世界に行きたいなあ」
「えっ、どうして」
「だって、紺野くんだけがこっちとあっちを往復できたなんてずるいし、わたし、あっちの人たちともたくさん思い出があるんだよ。また会いに行きたい!」
世の中にはまだ科学では解明できない不可解な現象というものも存在する。炬燵世界などはまさにその代表例だ。もしかしたらただの夢かもしれない。しかし、あの時、僕はおそらく美姫さんと同じ世界に足を踏み入れていた。単に同じ夢を見ていたというよりも、もっと深い結びつきがあるに違いない。僕はやはり科学の子である。こんなに非科学的に見える不可解な現象でも、いつかは証明してみせよう。それは「まだ科学的に証明されていないだけ」なのだから。
「いいでしょう。やってやりましょう!」
今度こそ、2人で。
原作:原作者は 藤原さん です(編集者注)
思えばあの時が一番幸せだったかもしれない。
二十八の歳を迎えた今、十年前に埋めたタイムカプセルを掘り起こして僕は決意した。
喧噪。アルコール。
勉学へとのめりこむことが出来る花園。勉学のサンクチュアリ。
僕にとっての楽園──それが大学……のはずだった。
それがこれはなんたることか。
軽薄さを絵に描いたような、サイエンスからは程遠いこの空間。
新入生歓迎会の一席で僕は肩身の狭い思いをしていた。
「私、酔っちゃいましたー」
不意に太腿に感じる体温。気づけば見知らぬ女性が隣に座り、僕の太腿に触れていた。
「さあさあ、このお店は麦茶が名物なんですよー」
女性に言われるままに飲みものを受け取る。酒などという思考を乱すものを摂取する気は毛頭ないが、麦茶というのなら注いでもらうのはやぶさかではない。
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「あ、黒猫さんですねー」
彼女の陽気な声で精神が浮上した。気づけば人気の無い夜道を二人で歩いていた。
ああ、なるほど良い麦茶というのはこんな風に良い気分になるものなのか。
「わたし、男の人の部屋に来るのって初めてなんですー」
当たり前のように僕の部屋に上がり込む女性。
部屋に帰るまでに彼女が買ったという「麦茶」を開ける。
なるほど、いい麦茶というのは泡が立ち、黄金色をしているものなのか。サイエンスである。
僕は彼女に語った。サイエンスがいかに素晴らしいか。
彼女はうんうん、と朗らかな笑みを浮かべて僕の話を聞いていた。
「それなら、私の研究会に入りませんかー。この世界を幸せにするための研究をする、それは由緒正しい会なのです」
僕は首肯する。それはまさに僕が求めていたものではないか。
サイエンスとは誰かを幸せにするためのものに他ならない。
いいでしょう。やってやりましょう!
そう答えたところで僕の意識は途切れた。
翌日、頭痛と吐き気に耐えながら、僕は彼女に教えてもらった大学の一室に向かった。
そこには「炬燵研究会」の看板が掲げられていた。
その部屋を訪れた三日後、彼女が炬燵の中で変わり果てた姿で見つかった。
部屋で見つかった僕への手紙…。
「初めて会った時から好きでした。どうか私の仇を討ってください」
ここから僕の物語が始まった。
さあ、復讐を始めよう。