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アインシュタインのでんぐり返し ひろ

 1425gの脳みそが目の前に浮かんでいる。

 幻想でも比喩でもない。ぼくの視線の先でホルマリンの中を心地よさそうにたゆたっている。

 脳みそって思ったより小ぶりなんだなと、のん気にぼくは見つめている。周りには赤いシャツを着た教頭先生や美術の先生が立っていて、教室で飼っている金魚を見るかのように観察している。

 白い蛍光灯に照らされた脳みそがゆうらりと動く。まるで生きているみたいだ。

 先生たちから少し離れたところにクラスメイトの津田くんが座っている。絵筆を手に持った津田くんは、お得意の絵で浮かぶ脳みそを描こうとしている。数秒間必死に見つめては、手元の紙に写すという作業を繰り返している。ひどく焦っているようで、うまく筆が動いていない。津田くんの絵は普段からぼんやりとしているけれど、今描いているものはもはや朦朧とした墨の染みにしか見えなかった。

 意識を取り戻したぼくにはお構いなしに、みんなそれぞれの興味で頭がいっぱいみたいだ。ぼくはこの状況に身を委ねるしかない。

 できることといえば、過去を振り返ることくらいだ。

 そう、この奇妙な話の始まりはひと月前にさかのぼる。


  ○


 その日、ぼくは何故か朝早く目が覚めた。

 窓から差し込む光は少し青みがかっていて、部屋には夜の慎ましい香りがまだ残っていた。ベッド横の勉強机に置かれた時計を見ると、六時を指していた。いつも起きる時間よりも一時間も早い。

 何度か寝返りを打ってみたけれども、居心地の悪さは増すばかりだった。すっかり目が覚めてしまったぼくは仕方なく体を起こす。

 部屋に一つだけの窓を少し開けると、まだ太陽に当たっていない草木のにおいが部屋に入ってきた。誰にもかき乱されていない清らかな空気を、ぼくは肺の奥まで行き渡るように思いっきり吸い込む。

 季節は秋から冬に進もうとしている。日に日に森が眠っていくように感じられるこの時期が、ぼくはとても好きだ。

 窓からは朝つゆのベールが敷かれた芝生の庭が見下ろせる。庭の先にはとんがった木々がみっちりと詰まった森が広がり、埋もれるようにしてガラス張りの建物が見える。ぼくが通っている学校だ。一番背の高い時計塔の頭だけが、朝の光を受けてきらきらと輝いていた。

 この寮から学校までは森を抜けて十五分ほどでたどり着く。庭から森へ入っていく登下校の道もわずかに見える。もちろん、そこにも誰もいなかった。

 足元から寒さが這い上ってくる。外の冷えた空気がぼくの部屋を侵略しはじめていた。

 ひとつ身震いして、ぼくは窓を閉めた。


  ○


 ぼくが教室に入ると同時に、時計塔の鐘がちょうど七つ鳴り終えた。起きてから一通りの準備を終えてしまったぼくは、さっさと登校することにしたのだった。

 校舎は大半がガラスでできているため、教室は山あいから顔を出した太陽の光に満たされている。こんな朝早くには誰もいないと思っていたのに、陽の光に包まれた先客がいた。

「おはよう。早いね」

 ひとりで机に向かっていたのはクラスメイトの津田くんだった。声をかけたぼくに対して、津田くんは少し不機嫌そうな口調で応えた。

「あぁ! せっかく今日は頑張って起きたのに。こんなに早く来ないでよ」

 津田くんは手に持っていた絵筆をパレットに置く。ぼくは理不尽な言葉を流して、変わらぬ調子で続ける。

「また絵を描いていたんだ」

「静かな環境で描きたいからね」

 ぼくは近づいて津田くんの手元を覗き込んでみる。白い画用紙にはもごもごとした楕円状のものが複数描かれているだけだった。

 津田くんの絵はいつもこうだ。輪郭線をあえて描かないため、何を描こうとしているのかわからないし、どこで完成なのかもよくわからない。こう言う抽象性がモダンでいいんだよ、などとよく言って津田くんは満足している。そう語る津田くんは、まさに浮世離れした芸術家を思わせて嫌いじゃない。

「今日は森にいるシカを描こうと思ってたんだ」

 津田くんはなんだかんだ、絵筆を置いてぼくとの話を続けてくれる。

「きみも知っているだろ。夜に現れるシカの噂」

「噂も何もシカだろ。昼間だって森で見かけたことあるよ」

 つまらなそうに返したぼくに、津田くんは大声を出す。

「何もわかってないなあ! それは普通の野生のシカ。それとは別に夜にしか見えない緑のシカがいるんだよ」

 津田くんはこういった不思議な話に目がない。なぜなのか前に聞いてみたところ、創作意欲を高めてくれるらしい。そして、津田くんはどんどん変わった人になっていくのだった。

「まあ、でもこうして朝になっても現れなかったし、この噂の信憑性は低そうだね」

 津田くんはひとつあくびをする。よく見ると、津田くんの目の下にはうっすらクマができていた。

「夜の校舎に忍び込んだの?」

「まさか。朝一番に来る先生が校門を開けるのを待っていたんだよ。夜にいたら警備に捕まっちゃう」

 津田くんはそこでニヤリと笑った。

「でも、次は夜の校舎に忍び込もうと思うんだ」

「今、夜は警備がいるから無理だっていったじゃないか」

 津田くんは興奮を抑えきれない様子で声をひそめる。

「こんなシカの話じゃ忍びこもうなんてしないさ。実はとびきりヘンテコな話を仕入れたんだ」

「ヘンテコな話?」

「そう、これまでの話なんて目じゃないぜ」

「それって一体…」

 ぼくが問いかけようとしたところで、廊下から話し声が聞こえてきた。どうやらみんなが登校し始めてきたようだ。

「残念、誰かきちゃったね。またあとで話すよ」

 そう言うと津田くんはいそいそと絵の片付けをはじめた。もうこの場では話すつもりはないらしい。急いで聞こうか迷っているうちに教室にクラスメイトの集団が入ってきてしまった。気になったけれども、ぼくは仕方なく自分の席に向かう。また放課後にでも聞けるだろう。


  ○


 ぼくは五人兄弟の末っ子として生まれた。物心つくころには、兄たちはみな立派に働きはじめていた。兄たちが子どものころは満足なごはんが食べられなかったらしい。苦しい生活を知る兄たちが頑張って働いて稼ぎをうちに入れてくれたおかげで、ぼくは不自由することなく暮らすことができた。

 両親は兄たちから年の離れた末っ子のぼくのことをかわいがってくれていた。ぼくもそんな生クリームにひたるような甘くゆるやかな生活を楽しんでいた。

 けれども成長するにつれて、疑問がむくむくと膨れあがってきた。ぼくはこのままこの環境にいていいのだろうか。

 一度考えはじめてしまうと、ぼくは両親にとって兄たちのおまけのような存在なのではと感じるようになった。兄たちと違って計画もなくできてしまったぼく。特に期待もされず甘やかされるだけの存在。

 このままではダメ人間になってしまう。十一歳の誕生日、なにをすべきか考えたぼくは学校へ通うことを決めた。信じがたいことだと思うだろう。ぼくは両親の過保護をいいことに学校に通っていなかったのだった。

 兄たちの力を借りながら学校を調べ、いくつかの候補の中から人里離れた森に建てられたこの学校へ入学することを決めた。森ばかりが広がる中にポツリとある学校のため、生徒はみな近くの学生寮に入る。まさにひとりで生きていかなければならない環境だった。

 自分で決断したこととはいえ、さすがに怖気づいた。はじめて登校したときは足が震えて、なにがなんだかわからないままに一日が終わっていた。

 でも日々を重ねるごとに、不安はあたたかい日の光を浴びた雪のように溶けていった。ぼくはこの歳になっていきなり学校に通うことになるのを気にしていたけれど、まわりの同級生からしてみれば、また少し変わったやつがひとり増えたくらいの感覚だったようだ。

 実はこの学校はぼくに限らず、普通じゃない境遇の子どもたちが通っている。入学後しばらくして、狸のようなまんまるお腹の校長先生がこっそりそう教えてくれた。どこから来たのか、家族構成はどうか、などを聞くことはタブーなのだとも。

 ぼくはすぐに小学六年生として普通の学生生活を送れるようになった。もともと学校に通っていなかったから、もっと低学年からスタートすることもできた。でも、恥ずかしさに耐えられそうになかったので、年齢に合わせたクラスに振り分けてもらうことにしたのだ。

 授業を受けてみると、兄たちがクイズとして出してくれていた問題が、学校の勉強につながるものだったことに気づかされた。もちろん足りない分は、寮に帰ってから自習した。努力のかいがあって、二学期も終わろうとする今では、問題なく授業についていくことができていた。

 先生が教室のスクリーンに投影する文字をぼんやりと目で追いながら、ぼくは津田くんの朝の言葉を思い返す。

 とびきりヘンテコな話、ってなんだろう。

 津田くんからはこれまでもこの学校にまつわる怪談じみた話をいくつも聞かされてきた。校庭の外れに一輪だけ咲いている百合の花の下には、女の人の死体が埋まっているらしい。一人で校舎の裏手にある大きな杉の木を目指して歩くと、肩にいつの間にか知らない子どもがおぶさってくるらしい。などなど。

 一体どこから聞きつけてくるのかはわからない。津田くんは収集した不思議な話の調査にしばしばぼくを駆り出した。でも、さすがに夜の校舎に忍び込もうなんて言うことはこれまでなかった。

 夜の校舎は絶対に入ってはいけません。

 朝礼や学期末の挨拶など、ことあるごとに校長先生がまんまるお腹を揺らしながら言っている。

 絶対の校則に逆らってまで調査したい話とは一体なんだろう。むくむくと好奇心が湧いてきて、授業する先生の声が遠くなっていく。

 いけない、いけない。ぼくは頭を一つブルリと振る。さっきの授業では考え込んでしまっていて、当てられたのにトンチンカンな答えを言って先生に怒られてしまった。津田くんはあとで教えてくれるって言っていたじゃないか。

 その数時間後に津田くんが教えてくれた話。それは、ぼくの脳みそをいくらひねっても思いつかないものだった。


  ○


「アインシュタイン?」

「そう。アインシュタイン」

 授業が全て終わり、待ちに待った放課後。ガラス窓からは真っ赤な夕日が教室へと注ぎ込まれている。

 津田くんは約束通り話を聞かせてくれたけれど、頭がぐるぐるしてしまって言葉が見つからない。ぼくの様子を見かねた津田くんがもう一度告げる。

「だから、夜中の校舎をアインシュタインがでんぐり返ししているんだよ」

 アインシュタインとでんぐり返し。全く話は見えてこないけれども、確かにヘンテコ度合いは最上級だ。

「どうやら昔から伝わっていた話らしい。調べてみたら、見たっていう話がいくつかあるんだ」

「そんな妙な話、聞いたこともないよ」

「きみは最近この学校にやってきたからね。ディープなところにはこういう話がごろごろしているんだよ」

 おそらく前からこの学校に通っているクラスメイトだって知らないだろう。知っているのは津田くんくらいだ。

「そして、この話はただアインシュタインがでんぐり返ししているだけの話じゃないんだ」

「アインシュタインがでんぐり返ししているだけで十分変だよ」

 ぼくのつっこみを気にせず津田くんは続ける。

「廊下を去っていく後ろ姿を見たり、奇妙な音を聞いたりというのがほとんどなんだけど、その中に一つ実際に目撃してしまった生徒の話があったんだ」

 早速、津田くん好みの怪談になってきた。ぼくはごくりとつばを飲む。

「生徒の名前はK君。当時から夜中には校舎に立ち入らないように強く言われていたらしい。でも夜の学校に何があるか気になったK君は、下校時間を知らせる鐘の音が鳴ったあとも教室に隠れていた。その好奇心がのちのち大変なことになるとも知らずにね」

 射し込む光が津田くんの顔を毒々しいオレンジ色に染める。

「先生たちもすっかり帰ってしまった時間だ。K君は警備の目を気にしながら夜の校舎を探索していた。静まり返った校舎は気味が悪いなあ、なんて思いながら廊下を歩いていると、何かがこちらに向かって転がってくるのに気づいた」

 津田くんはぐいと顔をぼくに近づける。

「転がっているのは人だった。誰かがでんぐり返しでこちらに向かってくる。もじゃもじゃの白い髪の毛。あれはアインシュタインじゃなかろうか」

 津田くんは淀みなく続ける。

「アインシュタインはこちらに向かって一直線に転がってくる。K君は怖いというよりも不思議な心地がした。一体何が起きているのだろう。あっけに取られて見つめていたK君は、アインシュタインが起き上がった瞬間、その目を直視してしまった」

 そこで津田くんは黙り込んだ。そして、たっぷりと間をとり、

「それから、K君の姿を見た者はいなかった」

 津田くんは話を締めくくった。

 話を一通り聞いたものの、ぼくの頭のもやもやは晴れなかった。むしろ質問が口からあふれ出てくる。

「それは本当にアインシュタインなの?」

「白いもじゃもじゃの髪なんだから、きっとそうなんだよ」

「で、どうしてでんぐり返ししてるの?」

「それをぼくらが調査するんじゃないか!」

 津田くんがここまで興味を持つ理由がよくわからず、ぼくは率直な感想を告げる。

「この話、調べるほどの話なのかな?」

「きみは分かっていないねえ。このヘンテコさが、本当の話なのだと告げているじゃないか」

 確かにこれまで聞いたことのある怪談話とは少し変わっている。津田くんの言うことも一理あるかもしれない。

 しかし、そこでぼくはふと気づく。

「もし本当だったなら、K君はそれ以来いなくなってしまったのに、なんでこの話が伝わってるのさ」

 ぼくの言葉を聞いた津田くんの瞳がキラリと光った。

「そう、そこがミソなんだよ。二度と夜の校舎に入らないよう、誰かがこの話を流したのかも」

 そのころには、名探偵にも似た口調で語る津田くんにぼくの心は動かされはじめていた。

 でも、ぼくはここで引き返すべきだったのだろう。禁じられていた夜の校舎は易々と立ち入ってはいけない場所だったのだ。


  ○


 それからぼくらは放課後に少しずつ計画を練った。一番の問題は警備が厳しい夜の校舎にどうやって忍び込むかだった。

 津田くんは持ち前の情報収集力を生かして、夜の校舎に関する噂話を集めていった。それらをまとめると、放課後の校舎は完全に施錠されており、夜じゅう警備員が見回りをしているとのことだった。

 情報が出てきたところで、津田くんは計画を少し修正することを提案した。

 まず、校舎の中には入らない。これは潜入が難しいことがあるのに加え、警備に見つかった場合に逃げづらいというデメリットを考えたためだ。

 そしてK君の話を信じるならば、アインシュタインと出会ったとしても目を合わせてはいけない。細かなことはわからなくとも、何かよくないことが起こることは間違いない。

 その点に関して、津田くんは抜かりなかった。初めの打ち合わせから一週間後、どこで手に入れたのか小型カメラを数台準備してきた。小型カメラから一定の距離ならパソコンに映像を送ることができる。カメラを廊下に設置して、ぼくたちは中庭から建物の中の様子を観察することにした。いざとなれば、ガラス張りの校舎だから外側から廊下の様子をうかがうこともできる。

「これはこの学校の秘密の一端を暴くプロジェクトだよ。失敗は許されない」

 津田くんはことあるごとに鼻息荒く言った。一度見つかってしまえば警備は厳しくなり、二度目の挑戦は難しいだろうことはぼくにもわかった。

「で、結局いつやるんだい」

 準備は着々と進み、決行の日をいつにするかを決める段階へと入っていた。

 灰色の曇が窓の外を飛んでいく。ぼくと津田くんはその日も放課後の教室で顔を突き合わせていた。

「その日のうちに廊下にカメラを設置して、遅くとも翌朝までに回収しないといけないからね。なるべく校内に人が少ない日がいいな」

「なら、来週がいいんじゃないかな。定期テストの一週間前で部活もなくなるし、みんな早く帰るはずだ」

「いいね。ついに秘密が明らかになるときが来るぞ!」

 ぼくらはがらんとした教室でひそやかな興奮にひたった。

 季節は駆け足で冬へと向かっていた。


  ○


 一週間後。ぼくと津田くんは二人、しんと静まりかえった夜の中にいた。指先や足先から冷たさが染み込んでくる。手をあたためようとはぁーと吐いた息が白い。

 ガラス張りの校舎は冷たく無機質で、寒さに耐えながら見ていると氷でできた城のように思えた。

「カメラの調子はどう?」

「ばっちり」

 津田くんが見つめるノートパソコンの画面は四分割され、廊下が様々な角度で映し出されている。ちなみにこのノートパソコンはぼくのものなのだが、津田くんはまるで自分のもののように抱え込んで観察を続けている。

「津田くん。きみの頭が飛びでているよ」

 ぼくは右下隅の映像を指差す。画面は薄暗い廊下とガラス越しの中庭の映像を映し出していた。中庭の植え込みの緑の合間に黒いものが見えていた。

「おっと、ごめん」

 津田くんがもぞもぞと体勢を変える。画面の植え込みに頭が潜り込む。

 これで一安心と思ったところで、頭上にそびえ立つ時計塔から深みのある鐘の音が聞こえた。ぼくは思いがけない音に驚き、ちょっと考えて首をひねる。

「夜に時計塔の鐘って鳴るっけ」

 津田くんに問いかけるが、ぼくの声が聞こえなかったのかパソコンの画面を食い入るように見つめている。

 ぼくは時計塔の鐘がこんな夜中に鳴るのを不思議に思いながらも、時刻を知ろうと鐘の音を数えてみる。鐘の音は一定のリズムで繰り返される。一回、二回、三回…。

 聞き終えたぼくは再び首をひねる。

「ねえ、鐘の音が十三回鳴っていなかった?」

 いつもは鐘の音は時刻の数だけ鳴る。お昼の十二時が一番多く十二回鳴って、午後はまた一回から増えていく。十三回鳴るはずなんてない。

「そんなの知ったこっちゃないよ。こっちが大変なんだ」

 津田くんからいらついた声が返ってくる。津田くんがしきりに指さす一画面を見ようと、ぼくはモニターに顔を寄せる。

 分割された画面の一つ、廊下の奥を映しているカメラが遠くにうごめく存在をとらえていた。ざらついた映像では細かいところまでは見えないけれど、次第に大きくなっているのはわかる。何かがこちらに向かってくる。

 隣にいる津田くんの息が荒くなって耳にかかる。ぼくはまばたきをしまいと画面を一心に見つめる。

 それはごろりごろりとリズミカルに近づいてくる。かがんだ姿勢で手を前につき、勢いをつけて前に転がる。これは間違いなくでんぐり返しの動きだ。

 ゆっくりと近づいてきた人影が月の光に照らされた。毛むくじゃらのふさふさした髪が生えている。体は大きくない。せいぜい僕らと同い年くらいの少年だ。

 少年は休むことなく一直線にでんぐり返しをしている。本当に彼はアインシュタインなのだろうか。なんとか確認しようと目をこらすけれども、動き続けているため顔を見ることは難しい。

 ぼくらがいくつもカメラを設置した箇所に少年が近づいてくる。四つの映像全てにでんぐり返しする少年の姿が映し出された。どれもこれも画角が悪いせいで、近づいてきても顔ははっきりとしない。このまま通り過ぎてしまったら、彼がアインシュタインなのかは分からずじまいだ。

 ここまできたら謎を全て解明したい。そんなぼくの願いが通じたのか、動き続けていた少年がピタリと止まった。ちょうど一つのカメラの真正面だ。

 少年は進む方向を向いたまま、まるでゼンマイが切れたオモチャを思わせる姿で静止していた。カメラは横顔をとらえているのに、もじゃもじゃした髪が邪魔をしていて顔立ちはわからない。

 少しの間ののち、首だけがキリキリとゆっくりこちらを向く。その動きがまるで生気のない人形のようでぼくは身がすくむ。

 目は髪の毛の奥に隠れているから視線はわからない。でも、全く顔を動かすことない様子からぼくは感づく。間違いない。少年はカメラに気づいている。

 鼓動が耳いっぱいに聞こえている。からだ全身が心臓になってしまったみたいだ。大丈夫、ぼくのことを見ているわけじゃない。ただカメラが気になっているだけだ。

 突然、少年がトカゲに似た動きで手足を動かし近づいた。そのままカメラのレンズを覗き込む。もじゃもじゃの髪の毛に覆われた顔が画面いっぱいに映る。息づかいが聞こえてくるほどの近さだ。

 ひやりとした手がぼくの腕を掴んだ。

 びっくりして視線を向けると、津田くんが青ざめた顔でこちらを見つめていた。

「なんだよ!」

 津田くんにかけた声はびっくりするほどかすれていた。

「画面をちゃんと見てみろよ!」

 津田くんは今にも大声で叫び出しそうだった。

 四分割されたパソコン画面のうち、先ほどまでぼくが見ていたものには、カメラを覗き込む少年が変わらず大きく映っている。気味の悪さを感じながら、他の三つに目を向ける。

「あれ…?」

 別々の角度から廊下を写す映像には、でんぐり返しをして廊下を進む少年の姿があった。見ている間にも少年は直線の廊下を去っていく。

 そんなはずはない。ぼくは先ほどまで見ていた画面を慌てて見返す。

 そこには変わらず少年の顔がある。クセのある髪の毛が鼻先までかかっているせいで、表情ははっきりしない。すると、釣り針で引っ張られたように少年の口の端が上がった。

「遠い距離において、ある人の脳の細胞と、他の人の細胞が感じて一種の化学的変化を起す。故にでんぐり返しとはその方法に他ならない」

 少年とは思えないしゃがれ声だった。虫が耳元を飛んだ時のような嫌な心地が耳に残る。さらに吊り上がる口元。からからと乾いた呼吸が漏れる。ぼくはやっとそこで少年が笑っているのだと気づいた。

 それからの先のことははっきりとしない。恐怖のあまり幻覚を見ていたのかもしれないと、今になってはそう思う。

 少年はカメラに更に顔を近づけ、鼻先がレンズにくっつくほどになった。そして、さらにその先へと。

 カメラのレンズにぶつかったはずの顔が、パソコンの画面からにゅるりと出てきた。

 ぼくはパソコンから飛んで離れた。足に力が入らない。震えながら見つめている間にも、向こう側から少年がゆっくりとこちらに出てくる。

 さなぎから羽化する虫のように、たっぷりと時間をかけて少年が現れた。パソコンの前に立った少年は月明かりに透けそうなほど細い手足をしていた。

「脳の細胞が生み出す波動、各々のスピンが異なり、不可逆な反応が進んでいく。でんぐり返しの回転とともに収束していったとき、理想的な解に到達する」

 少年はぶつぶつと言葉を発し続ける。

「ともすれば、双方向のスピンが外界からのモーメントによって整列し、反転するがゆえに、粒子として存在するのである」

 少年が一歩こちらに足を踏み出す。

 このままではまずい。逃げなければと思いつつも、ぼくの身体はぴくりとも動かなかった。

 突如、隣で津田くんが弾かれたように立ち上がった。駆けていく津田くんの足が、ぼくの脇腹に強く当たる。広がった鈍い痛みとひきかえに固まっていた身体がゆるんだ。

 ぼくは腰が抜けていた状態から一息で立ち上がる。少し先に校庭を駆けていく津田くんの背中が見える。

 それがぼくの最後の記憶だった。


  ○


 そして、時は今に戻る。

 脳みそを囲む先生たちと、必死に絵を描き続ける津田くん。趣味の悪い怪奇映画を思わせる光景だ。

 美術の先生があごに手を当て、教頭先生に問いかける。

「しかし、遠方にあるアインシュタインの脳とどうやって交信したのでしょう」

「わからん。ただ特異体である奴の脳との親和が見られたのは興味深いことだな」

 教頭先生は脳みそから目を離すことなく応えた。

「さて、調子はどうかな」

 突如、ぼくの斜め後ろから声が聞こえた。振り返ろうとして、ぼくは身体が動かないことに改めて気づかされる。でも、確認しなくても声の主はわかる。狸のようなお腹の校長先生だ。

 美術の先生が背筋を正して伝える。

「無事に彼から脳を摘出したところです。まだ生きた状態を保っていますので、これからアインシュタインとの交信を再現すべく調査を進めてゆきます」

「順調そうでなにより。クローン化計画の新たな発展につながるな」

「ええ、こんなイレギュラーがあるとは予想外でした」

 興奮気味に話す会話の内容に、ぼくは混乱していた。アインシュタインとの交信に、クローン計画。一体どういうことなんだ。それに、話をしている中で美術の先生がぼくをちらりと見たのは気のせいだろうか。

「教頭。こちらの少年には、まだ取りかからないのかね。彼も脳みその少年と一緒にいたはずだろう」

 教頭先生が顔をしかめる。

「恐怖のせいか、いささかおかしくなってしまったようでして。何を問いかけても反応がなく、ただ絵を描きつづけているだけなのですよ」

「画家より文学者のほうが、脳みその相性が良いのかね」

 校長先生の問いかけに今度は美術の先生が顔をしかめる。

「そんなことはないでしょう。著名な文学者のクローンである彼だからこそうまくいったのかもしれない」

「まあ、そこはこれからの解析次第でしょう」

 教頭先生が後を受けて締めくくった。

「まもなく夜が明けますし、残りはまた今度にしましょう。これらの生徒はどうしましょうか」

「もう肉体は用済みだろう。こちらの絵描きの少年も学校には戻せないから、まとめて廃棄でかまわんよ」

「承知しました。では、あとは廃棄しておきます」

 教頭先生が手元にあった黒いゴミ袋を掴む。美術の先生がぼくの方へやってくる。

 津田くんの絵はまだまだ完成しなさそうだ。いつも完成したかどうかは津田くんの気分次第だったから、あの絵が完成することはきっとない。

 遠くで時計塔の鐘のなる音が聞こえる。ああ、今は何時なのだろう。ぼくは鐘の回数を数える。一回、二回、三回…。

 教室のガラス窓からは、朝日がまだ届いていない薄暗い森が見えていた。木々の間に寄り添うようにして、緑色のシカがぼくらのことをじっと見つめていた。

  黒いビニール袋がぼくに被せられる。最後に視界に入った光景は、浮かぶ脳に映像として記録されたのだろうか。その答えは永遠にわからない。

原作:原作者は よよさん です(編集者注)


題名「アインシュタインのでんぐり返し」です。


 緑の森に囲まれた学校。夜はガラス張りの校舎から野生のシカを見ることができる。そこで「ぼく」は暮らしていた。計画もなくできてしまった「ぼく」を高齢の両親は甘やかすばかりで、立派に成長した兄貴たちに満足して、特に教育を施しもしない両親に別れをつげて、「ぼく」は小学六年生にしてこの学校にやってきた。

  この学校で「ぼく」は、輪郭線をあえて描かない妙ちくりんな絵をよく描いて満足している「津田君」とある怪談の調査に乗り出した。その怪談というのは、「夜な夜なアインシュタインが廊下ででんぐり返しをしている。直視してしまったK君は、その後行方知らずとなってしまった」である。夜の校舎は、警備が入念である。警備会社がやってくるまでが検証できる時間である。


 「ぼく」と「津田君」は直視しないように、ガラス張り越しにアインシュタインを確認できる位置に隠れて待ち伏せをした。小型カメラを数カ所に設置して、遠隔操作をしてPCで確認できるようにした。すると、夜中の13時ごろ、毛むくじゃらのふさふさした髪をもった少年がでんぐり返しをしているではないか。しかしその少年は、髪の毛を顔を覆ってしまっていて、幼少期のアインシュタインの面影は確認できない。

 1つのカメラに気づいた少年が覗き込んだ。「ぼく」はその顔を拝めることができるか、じっとPCをにらみつけた。「津田君」が仕切りにぼくを呼ぶ。ふと目線を移すと、外のPCに映し出されたカメラにはまだでんぐり返しをし続ける少年の姿があったのだ。

 そして少年はこう言った。「遠い距離において ある人の脳の細胞と、他の人の細胞が感じて一種の化学的変化を起す。故にでんぐり返しとはその方法に他ならない」

 少年は「ぼく」のPCの前に立っていた。「ぼく」と「津田君」はPCを放り投げて逃げた。


 翌日、「ぼく」は、自分の脳みそがホルマリン漬けにされてしまったのを知る。学校の先生たちは口々にこう言った。「遠方にあるアインシュタインの脳とどうやって交信したのだろうか」とか「クローン化計画の新たな発展につながるな」

 そうこの学校は偉人のクローンが過ごすところ。「ぼく」はとある文学者のクローンだ。まだ解体されてない「津田君」は必死に「ぼく」の脳みそを朦朧とした墨で表現していた。

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