口先だけ
薫とアニメを見た日から数週間が経ったある日。
その日は、薫が日直で先に帰っていいよと言ったので、俺はすぐに帰ろうとした。だがそれを止めるかのようにしてトイレに行きたくなったので、そこに行ってから帰ることにしたのだ。
「ふー、スッキリした」
手を洗ってトイレを出ると、俺の教室から誰かの話し声が聞こえてきた。今は放課後、すでに生徒の姿もあまり見受けられない。
「あれ、薫の奴まだ帰ってなかったのか? それなりに時間が経つけど」
当初は薫だろうと思い、俺はそんな独り言を言いながら、教室に近づいてみることにした。だが徐々にその会話がただの会話ではなく、一方的な罵りであることに気づき始めた。
俺は嫌な予感がしつつも、それを受けている人物が誰であるかを確認しようと思ったのだ。
多分俺は、安心したかったのだろう......俺の勘が外れることに......彼ではないと思うために......だから更に教室に近づくことにしたのだ。
「おい病人! さっさと立て!」
「そうだぞ! 病弱野郎!」
案の定それは、一人に対して複数人が寄ってたかって暴言を吐いている、つまりいじめの現場であった。
そんな砂嵐のような現場で一人......そんな罵りの嵐を受けている、その人物は......。
「ホントこいつ、一年の時から相手してやってのに反応薄くて面白くねえわ」
「それな。もっと反応しろよな......『佐々木君』よぉ~」
薫だ......俺の親友である、佐々木薫であったのだ。
そしてそいつらからしてはなんてない、だが俺からすればあり得ないことを聞いた。そいつらは、『一年の時から』と言っていたのだ。だが、一年の頃と言えば俺達は普通に遊んでいた。でも、薫はいじめられていたのに、それを表情に出さなかったのだ。だから俺のそのことに気が付かなかったのだ。
俺はその光景を認めたくなくて......そして何かを恐れるかのように、その場から逃げ出してしまった。
多分この時、勇気を振り絞って教室に入り、そいつらにドロップキックを......それが無理ならせめて一言、何かを言っていれば、俺は......。
そんなことがあった次の日、薫は普通に来た......顔に絆創膏を張って。
「薫その顔のケガどうしたんだ?」
俺は堪らず薫に聞いた......だがあまり動揺しないように、気を配りながら......そのケガの理由を知っているくせに......すべてを知った上で、訊いたんだ。
「ん? あぁこれね、昨日帰るとき野良猫がいたから撫でようと思って近づいたら引っかかれたんだよ」
薫は俺の質問になんてことはない様子で、笑いながらそう答える。
だが薫は猫アレルギー、その理由は絶対にあり得ない......多分それほどに、彼の心が傷ついていたのだ。
そのことを理解している、俺がしたことは......。
「そうか......薫はドジだなあ」
笑ってそのメッセージを切り捨てることだった。
俺は分かっていたんだ......薫の状況を......薫の痛みを......俺も経験したから。
それを知った上で......俺は薫を見捨てたんだ。
いじめの矛先が、こちらを向く......ただそれだけのために......だが知っていたんだ......その恐怖を。
それを分かっていた上で......俺は、薫を......。
その日から数日が経ったある日......その日は生憎の曇りだった......当時の俺は特に何も思わなかった......だが、今の俺には分かる......それは、『嵐の前の静けさ』であると。
そんなこと分かるはずがない当時の俺は、その日風邪で休んでいたのだ......この後起こる、あの悲劇を......俺のせいで起こったあの悲劇を......生涯忘れることのない、あの悲劇を知らずに。
だから俺は......その時の状況を見ていない。
だが......その日以降俺は、生きている薫と話すことはなかった。
だから俺は......その日のことを決して忘れはしない。




