逆さ虹はどこだ
その日、男の子はいつものように森に遊びに出かけていました。
木漏れ日の眩しさ。小鳥のさえずり。風に揺らめく木々のざわめき。それらすべてが男の子にとっていつまでも新鮮に映り、飽きることなどありませんでした。
しかし、決して忘れてはいけません。いくら何度も足を踏み入れていても、森というのは兎角迷いやすいのです。まあ、たとえ見覚えのある場所であっても迷ってしまうときは迷ってしまうものですがそれはまた別のお話。
「うぇ~……」
男の子はとうとう泣き出してしまいます。周りの木は通せんぼをするみたいに大きく、お日様の光を遮って。チュンチュン鳴いていた鳥たちの鳴き声も、今はカーカー、あるいはホーホー、とどこか不気味に響きます。
「ラ~ラララ~!」
よく耳を凝らすと、一匹のコマドリの鳴き声が聞こえます。
その歌はお世辞にも上手いとは言えませんでしたが。明るくて。不安で仕方がなかった気分を晴らしてくれました。
「アハハハハハ!」
「ッ! だ、誰!?」
思わず笑ってしまうと、コマドリが男の子に気付いて、飛んできます。
「あなた! あなた! 私を笑ったわね!?」
「ち、違うよ!」
男の子は精一杯誤解を解こうとしますが、聞き入れてくれませんでした。
「おや、歌声が途切れて何事かと思っていたけれど、人間の男の子とはまた珍しい。迷子かな?」
森の奥から現れたのは、魔女でした。とんがり帽子にローブを羽織って、男の子よりも背の高い大人。
「この子も不安だったんだと思うよ。だから、もう少し落ち着いてあげるといい。コマドリ」
「……そう? そうね。私もそう思っていたところよ。悪かったわね」
「ううん。僕もごめんなさい。コマドリさんの歌が聞こえて、僕、何だか楽しくなったんだ」
「そう? そうなの? ねえ聞いた? 魔女。この子、私の歌に聞き惚れたらしいわよ。どうよ。私の歌、上達したみたい。これが評判になって森中の動物たちが私の歌を聞きに来たらどうしようかしら困っちゃうわ」
「あははは」
コマドリが上機嫌に飛び回って。魔女は曖昧に笑いました。
※※※
それから。男の子は森の中にあった魔女の家に案内されました。ギィ……と立て付けの悪いドア。苔の生えた材木。本がびっしりと並んで薄暗い部屋の中を照らすのはランプの灯りだけ。
けれど、魔女の優しい雰囲気で、男の子はちっとも怖くはありませんでした。
「ろくなおもてなしもできないけれど」
魔女は不思議な香りのするお茶を男の子に淹れてあげます。
「君は、近くの村から来たんだね。だとするなら、この家のドアを出てから真っすぐに進んでいけば帰れるはずだ。真っすぐ、だよ……一応、帰れるようにおまじないをかけてあげようか」
ポンポン、と魔女は男の子の頭を二回たたきます。
「それから、念のため。何かあればまたここに戻ってこられるように。ここに来たい、と思えばここまで辿り着ける。そういうおまじないを」
そしてまた今度は頭を撫でます。
「……さて、このまま帰る、というのも少し味気ないかな。ふむ、とはいえ私は生来人付き合いが苦手でね。そちらから質問でも投げかけてくれれば助かるのだけれど」
男の子は考えます。魔女。今まで会ったことのない存在に、聞きたいことは山ほどありました。
けれど、頭を離れないのはそのどれとも違う疑問でした。
「魔女さんは、何でこの森に一人でいるの?」
森の中にポツンと建った家。そこに一人ぼっちで暮らしている魔女が、どうしてそんな暮らしをしなくてはならないのか。出来ることなら、自分と、自分たちと暮らせないのかな、と。
「ふむ……君は、逆さ虹を知っているかな?」
「逆さの、虹?」
「ああ、すまない。質問に対して、質問で返してしまったね。これはいけない。礼儀に反するというものだ」
呆けてしまった男の子に、魔女は頭を下げます。
「……この森にはね。逆さに虹が架かることがあるらしい。とはいえ、それが一体なぜなのか。というか、そもそもその虹を見たことがある人間もいないし、きちんとした記録も残っていないのだけれどね」
「見つけてどうするの?」
「別に。例えばその虹を見た者の願いが叶うだとか。そういった奇跡を聞いたことはないしね。無意味と言えば無意味だ。ただ、そういったものを一目見たい、仕組みを知りたい、そう思う人間もいるんだ。その欲求を満たすために、働く人もいる。それだけの話さ」
なるほど、と。男の子も頷きました。
実を言うと、男の子も同じだからです。逆さ虹。この魔女が探している謎。それが気になって。ドキドキして、しょうがない。
「魔女さんは、どうして探そうって思ったの?」
「それは……さっきも言っただろう? 必要ではないが、望まれているからさ」
ここで男の子は首をかしげます。一人でひっそりと逆さ虹を探し求めているという魔女。その魔女が、何でつまらなさそうにしているのか。もっと胸を弾ませているものじゃないのだろうか。
「……今、魔女たちは冬のお祭りの準備で楽しそうにしていてね。しかし、どうにもそこに溶け込むのが苦手で。だから、まあ……言い訳が欲しいだけだったんだ」
ますます分からなくて男の子は首をかしげます。
「……そうだね。分からない方がいい。ただ……そうだね。逆さ虹。本当に見つけることが出来たら、それは素敵だと。そう思うくらいの心は、まだ私に残っていると思うよ」
男の子は、逆さ虹を見つけたいと思いました。強く強く。好奇心だけじゃなくて、魔女の喜ぶ顔を見たい。その一心で。
「何か手掛かりとかないの?」
魔女は一生懸命訪ねる男の子に苦笑して……自らの研究を思い返します。
「『歌上手のコマドリ』『食いしん坊のヘビ』『暴れん坊のアライグマ』『お人好しのキツネ』『いたずら好きのリス』『怖がりのクマ』」
「それは……?」
「彼らが集う森に、逆さ虹は現れる。どこから伝え聞いたかさえ分からない言い伝えさ。ただただ言葉通りなのか、あるいは何かしらの暗喩か。彼らの集まりに一体何の意味があるのか、それは分からないけれどね」
※※※
村に一旦帰り、休んだ後、早起きした男の子はまた森に出かけました。
「『歌上手のコマドリ』『食いしん坊のヘビ』『暴れん坊のアライグマ』『お人好しのキツネ』『いたずら好きのリス』『怖がりのクマ』」
「あらあなた、また来たのね」
早速出会ったのは、昨日出会ったコマドリでした。
「そうだ! コマドリさん! 一緒に来て!」
「何なの一体?」
「この森に逆さ虹を架けたいんだ!」
「逆さ虹……」
男の子はコマドリに事情を説明しました。
「なるほどね! つまりこの私の歌が上手だってことが証明されようとしているということね! いいじゃないの! いいじゃないの!」
「うん。僕、コマドリさんの歌、好きだよ! だからその歌で、今度は魔女さんを笑顔にしてあげてほしいんだ」
「……そ、そこまで言われちゃあ仕方ないわ……」
「あ! コマドリじゃん! 歌がへたくそなコマドリじゃん!」
声を掛けてきたのは、リスでした。
「誰がへたくそじゃコラぁ!」
「いやいや事実じゃんか。こっちもいい加減君の騒音のせいで昼寝も出来ないんだよ」
「言わせておけばぁ……!」
「なになにどうしたのー」
そうこうしているうちにアライグマも様子を見に来ます。
「いいわ! ならこっちも実力を見せつけてあげるわ!」
コマドリは大きく翼を広げて、息を大きく吸い込みます。
「コマドリさん」
男の子はコマドリに声を掛けます。
「何よ、あなたまでヘタクソっていうつもり?」
「ううん。そうじゃなくって……うん。もう少し、リラックスして。魔女さんのために、歌ってあげて」
コマドリだって、魔女と仲がいいのです。その力になりたいと思うのです。
そう、そのためになるのなら……そう考えると、コマドリの胸に熱いものがこみあげて、ああ、それを吐き出したい。コマドリのくちばしから、軽快なメロディが奏でられます。
「……へぇ……」
コマドリが歌い終えて、自分でもわかるくらいに誇らしげな気分になりました。
パチパチパチ。男の子が拍手をすると、アライグマもつられて拍手をします。けれど、リスに目を向けると……
「……ヘタクソ!」
顔を真っ赤にして、怒鳴ってしまいます。リスも分かっているのです。コマドリはもう、『歌上手なコマドリ』になったのだということに。
けれど散々からかってきた手前、認めることが出来ませんでした。
「ヘタクソ!」
そしてそのまま木の上に駆けあがろうとして……足を滑らせて木の根に挟まってしまいました。
「リスさん!」
男の子はリスさんを助け出そうとしましたが、木の根にがっちりとはまりこんで抜け出せません。
「リスさん……! うわぁああああああああんん!!」
アライグマさんが大声で泣きだします。そしていつも穏やかな気性からは想像もできないほどに激しい動きで手足を動かします。鋭い爪で、木の根を切り裂いて力ずくで木の根をどかします。
「よかったぁ、リスさん……ねえ、みんな。何でちょっと距離取るの? ねえ?」
※※※
男の子はコマドリ、リス、アライグマを引き連れながら森を歩きます。
「あとはクマさんとキツネさんとヘビさん、だね」
「ボク言うほどイタズラ好きじゃないんだけど」
「はいはい言ってなさい」
そして、目の前にヘビの姿が。
「ヘビさん?」
しかし、ヘビさんの様子がおかしいのです。
「お、お腹空いた……動けない……」
「やれやれだ。全く仕方がないやねぇヘビの兄さんは」
そしてヘビだけでなくキツネの姿もありました。キツネは何を言うともなく、空腹で倒れているヘビを見ているだけでした。
「ヘビさん、今すぐ食事を持ってくるよ」
「ふーん、だったらクマの旦那が食料を貯めこんでるはずだぜ分けてもらうといいや」
「ありがとうございます! キツネさん!」
男の子は駆けていきます。
「え!? いや、ちょ!」
「おいおい、本気にしちまったよあの子……」
※※※
幸いにして、クマさんの住処である穴倉には今、誰もいなくて食料を持っていくには好都合でした。
「早く! 早く行くわよ!」
コマドリが急かします。男の子は精一杯食料を抱えます。
キツネの言うことに嘘はありません。ヘビさんの食事を早く用意するためにはクマさんの元に行くのが手っ取り早いことは確かです。
ただ……この森のクマはとても気難しく凶暴なので有名ということを忘れなければ。
「ぐぁう! てめえ……何してやがる!」
そして運悪く、森の中、クマさんに出会ってしまいました。
「ぐぁあああああ!!」
森の中を必死に逃げ回ります。しかし、運悪く行き止まりに……目の前には今にも落ちそうな吊り橋だけがありました。
「……みんなは先に逃げてて。食料を持ってる僕以外は、クマさんはどうでもいいはずだから」
男の子は、勇気を出して、吊り橋を歩きます。
グラグラ揺れます。けど、逃げません。ここで逃げちゃいけないと。逆さ虹を、魔女の笑顔を見るために……!
「正気か、てめえ!」
クマが動揺しているうちに、男の子は橋の向こう側まで渡り切ろうとしていました。
(……オレがぁ、ビビってる、だとぉ……!)
「やってやるよおらぁあああ!!!」
クマさんは震える足をそのままに、足を踏み出しますが重みに耐えきれず、吊り橋は崩れ落ちます。
「クマさん!」
男の子は、橋の向こう側から手を伸ばします。
「お前……」
「兄さんは下がってなさいな。ここは任しときな」
けれど、男の子の横からすっと飛び出す影がありました。キツネさんです。
「たく……ただ騙されてるだけかと思えば、勇気を振り絞って、頑張って……全く調子が狂うったらない。このキツネが、お人好しになっちまわあな」
※※※
「ふっ、おめえもなかなかやるじゃねえか……ぶあっくっしょい!」
吊り橋から川に落っこちてキツネに助け出されたクマは男の子を熱く見つめています。
ヘビさんはクマさんから正式にもらい受けることになった食料をバクバクと食べて。
そしてそんな様子を皮肉気な笑みでキツネさんが見守っています。
「あ! みんな! 見て!」
コマドリが、空を指さして……。
※※※
「全く何だい? いきなりついてこいだなんて」
男の子は魔女の手を引っ張って、目的の場所に辿り着き、魔女は言葉を失います。
「……逆さ虹」
「ほらね! 逆さ虹、見つけたよ!」
魔女は、自分の頬が次第に緩くなっていくのを感じます。
「ほら、魔女たちのお祭りには参加できないかもしれないけど、でも……一緒に楽しもう!」
「……みんな」
男の子のちょっとした冒険。その最中で出会った仲間たち。そこから、物語は始まっていくのでしょう。