狐火の杜
人里離れた山奥に、とある廃神社があった。
御社には一匹の妖狐が独り暮らしていた。
永遠にも等しい時間、その狐は独り社に暮らし続けていた。
詣でる者も、仕えるべき対象さえ最早いないというのにーー。
これは孤独な宙狐・鈴寂の寂しいお話。
住む人のなくなった家屋がたちまち無惨なあばら家に成り果てるがごとく、鎮める御霊を失った社はその傷みも甚だしい。まして、社の本来の主たる主祭神が不在なのでは、古今東西、あらゆる秘術や奥義の類に教養のある宙狐であってもできることといったら限られてある。
宙狐鈴寂は森の奥深く、とある山上にあるその社に独りで棲んでいた。
小高い山の上にあって、周囲の山々よりは幾分高く、軽く周囲の森を見渡すことができる。境内にはかろうじて残った本殿とそれに付随する拝殿、摂社、それと幾つかの末社があって、鈴寂はその末社のうちの一つに座って胡坐をかいていた。
一人静かに茶を啜る。淹れたての茶はまだまだ熱く、口にする度にじんわりと耳の後ろが汗ばんで鈴寂は堪らずその辺りを掻きむしった。
長髪を後ろで括っているのだがちょうど奥の方の生え際が気持ち悪く、しかし括っているためにその辺りまで指が届かない。金色の頭髪が無造作に掻かれる度、陽の光を照らしてきらきらと美しく輝いた。
今朝は早くから働き尽くめだった。さすがに全部の土倉を一日で片づけようなど無謀だったか(実際これまで一度として一日で達成した例がない……)。梅雨も明けたことだし宝物や書物の類に風通しをしたかったのだが。
「昼は鮎の塩焼きにでもするか」
云いながら、鈴寂は独り苦笑した。千年近く生きているとどうも独り言が多くて仕様がない。誰に対して言うでもなく、気がつけば勝手に言葉が口をついている。
宙狐は自身に呆れた溜め息を吐きつつ、今日はもう掃除は止めにして、午後からは昼寝でもして過ごそうと思い祠に預けていた腰を上げた。
拝殿を抜けて脇殿を進みながら、何の気なしに見えた蔵の一つに目をやる。
やはり蔵は定期的に風を入れておかなくては駄目だ。衣服や装束の類は時々日陰に出したりしているのだが、それでも傷んでいくのは止められない。書物などは書き写せばまだ何とかなりはするが、宝物の数は年々減っていくばかりだ。
日常、鈴寂は神主の一族が代々使っていた家屋で生活することがほとんどであった。ここには一通りの日用品は揃っていたし、土間も風呂場もある。部屋もたくさんあるし、何より大きな寝所もあってほど良く快適だ。
「たまには鯖とか秋刀魚とか、海の魚も食べたいなー」
何百年と山奥の廃神社に暮らす鈴寂とて、麓の人里に下りることもあるし、今の世の中がどれほど様変わりしたかを知らぬほど世間知らずではない(はずだ……)。はてさて、しかし最後に里に下りたのはどれくらい前だったろうか。里の連中は大東亜の戦がどうこうと言っていた記憶がある。
「そういえば最後に寿司を食ったのはいつだったかのう」
醤油は貴重だ。塩ならわずかだが岩塩が取れる場所を知っていて、野菜や穀物などは自家菜園でどうにか満足な量を育ててある。鶏卵も取れる。猪肉・鹿肉も燻製くらいならばできた。しかし、調味料の類はどうしようもない。
鯖も秋刀魚も醤油に限る。
「いかん、魚が食べたくなってきたぞ。それも海のものじゃ」
台所の前で独りごちてみたが、声に出してみたところで料理が現れるわけでもなく、誰かの返事が聞こえてくるわけでもない。
鈴寂は今日幾度目かの苦笑を浮かべたが、やがてそれも真顔に戻ると、もう何の反応も示さずにただ黙々と昼餉の準備を進めた。
食事はたいてい縁側の、境内に面した社殿が見渡せる部屋で取ることが常だった。今日も今日とて縁側の部屋で鮎を食みつつ、見飽きた景色を眺め見やる。
どれくらいたっただろうか。
食事を終え、膳を下げて、けれど洗い物をする気にもなれずに縁側で横になっていると卒然、どこか懐かしいような気配を感じた。寝ぼけているのやもしれない。しかし、それならそれで良かった。夢なら夢でかまわぬ。
心地の良い微睡みであった。けれど、自然と目頭が熱くなった。
山の神のこと、大勢いた仲間たち、森の獣たち。皆が一緒になって暮らしていた。そこにある日、突然現れた人間たち。鈴寂はまだ三月かそこらの幼狐で、大事にされた記憶が薄っすらとだが残っている。
今にして思えば、その頃からだ。自分が人間たちに関心を寄せはじめたのは。
「…………」
鈴寂は静かに瞼を開いた。近くの木立で法師蝉がひどく弱弱しく鳴いている。
むくりと起き上がると、金狐はのっそりとした動作でもって縁側の縁に腰かけた。冷めた茶の残りを飲み干す。
「覗き見とは良い趣味じゃの」
心底眠そうな鈴寂の声に、ややあって返事する者があった。
その者は木立の奥から現れると、ほんの少しだけ驚いたように目を見開いていた。
「オレは見世物ではないぞ。じゃが、その反応はそれで何とも言えん心持ちになる」宙狐は寄れた白装束を整え、袴についた埃を軽く払った。「腰を抜かせとまでは言わぬがな――」
「あ……ああ、すまない」人間が宙狐の言葉を遮った。「いや、うん。正直な話、驚いてるよ。驚愕してる、心底」
「驚愕、か。悪くはないな。まあ、オレも久し振りの人間に驚いているがな」
鈴寂は青年を睨んだ。青年は小さく首を竦めて、
「悪かったよ。驚愕は言いすぎた。それじゃあまるで見世物に対する評価みたいだもんな。……そうだな、半驚愕ってとこかな」
「ふんっ。もう良い」
鈴寂はふい、とそっぽを向くと、袴のお尻部分から出した自身の尻尾を膝の上に乗せた。「座らんのか」
「……お、おう」
青年は鈴寂の右隣に、人二人分ほど離れて腰を下ろした。
頭に乗った耳と膝に乗せた尾っぽが気になるのか、しかし初めに言った「見世物ではない」という言葉を気にしているらしく、しきりに横目で捉えようとしている(じろじろと見られた方がまだ可愛げがあるものを)。
それからは、どちらともが口を利かず、しばしの間沈黙が続いた。
新しい茶を淹れ、客人用の茶碗にそれを注いでやると、青年は無言で会釈をして口をつける。
鈴寂も同じように自身の茶碗に注ぎ入れ、数口啜る。青年も啜る。宙狐も啜る。同じこと繰り返し、二人が三杯目の茶を飲み干した時、
「夢を見るんだ」
不意に、青年が口を開いた。「ほう、夢とな」
「ああ。物心ついた頃から良く見る夢なんだ」
青年はどこを見るともなく、ただ視線を正面の境内の方、おそらくは手水舎の辺りに投げているのだろうが、彼が眼前の景色を観賞していないことくらいすぐに分かった。
「夢の中で、俺はいつもお前なんだ。鈴寂、だよな……? お前の名前って」
宙狐は無言で頷いてやると、青年は言葉を続けた。
「俺はずっとこの神社を見てきたんだ。なぜなんだ。おかしいよな、こんなのって。見たことも聞いたこともないのに。どうして懐かしいって思えるんだろ」
鈴寂は何も云えなかった。四杯目の茶は代わりに彼が注いでくれた。人一人分だけ間を詰めて、自分の分と、それから宙狐の分と。
青年は一口、茶を啜って口内の渇きを潤した。鈴寂も一口だけ啜る。
「昔、ある貴族が都での政争に敗れて没落しよった。一族諸共、都落ちした彼らが最後にたどり着いたのが、この地だった。ここより先に、もう行くところがなかったんじゃな」
金色の稲穂のような尻尾を手櫛で梳きながら宙狐は言葉を続ける。青年はじっとこちらの話に聞き入っていた。「オレたちは皆、山神さまを慕って暮らしておった。だから、人間たちは己たちの氏神と山神さま、二柱の神を一緒に祀ることにしたんじゃ。
だがな、この土地は元々、人が住むには向いておらぬ。五年、十年と凶作が続いた。都落ちしたような連中の隠れ里じゃ、隣近所の村に頼れる者もおらぬ。じゃから……だからな、氏神と山神さまはお決めになられたんじゃ」
「山神さまは常々嘆いておられた。山の精も妖狐らも、皆が皆、嘆いておった。どんなに立派な術を施そうとも、一向に土地の霊脈はようならんかった。だから、二神は合一なされた。新しい産子を思うての」
鈴寂は依然として毛繕いを続けた。青年は静かに宙狐の言葉に耳を傾けている。
鈴寂はそこで言葉を切った。暫しあって青年が口を開いた。
「俺が夢で見るのは、たいていもっと後だ。漠然としか知らなかったよ」
「ふむ、……では賊に襲われる件はどうじゃ?」
「……ホントに漠然とだがな、知ってるよ。攻め込まれたんだよな? 周りの大名に唆された地侍に」
「…………」
鈴寂は身震いする身体を自身の肩を抱き込むことで何とか封じた。瞬きをする度に瞼の裏であの時の光景が鮮明に蘇る。
再び、沈黙が訪れた。
どこかの木立で法師蝉が淋しそうに鳴いている。
遠くの奥山で、鹿の鳴き声がしたような気がした。
「なあ、聞いてもいいか」卒然、青年がこちらを向いた。
鈴寂は依然として視線を前方に固定したままで「なんだ、人間」
「いつまでここにいるつもりだ」
「…………」
鈴寂は視線を左方へと逸らした。しかし青年は尚も詰め寄って、
「誰のために社を護る。何のために祭事を続ける。不在の神官の代わりをどうしてお前がこなす」
「……うるさい。お前には関係なかろうぞ。話はもうお仕舞いじゃ」
堪らず宙狐は立ち上がるとその場を立ち去ろうとする。
けれど、それは駆け寄った青年の手によって叶わなかった。
「もういいんだ。そんなことしなくたって」
「勝手を言うでない。オレがいなくなったら、一体誰が――」
「なあ、俺を呪え。俺に取り憑け。お前の気持ち、全部受け止めるからさ」
「黙れ。人の子の分際で……。無礼者、手を離せ!」
「辛かったろ。淋しかったろ。憎かったろ、苦しかったろ。もういいんだよ、全部吐き出したって」
自分でも力が抜けていくのが分かった。本来ならば人の子が気安く霊狐に触れるなど許されることではない。けれど鈴寂はもうそれ以上、彼の手を振り払ったりしようなどとは思えなかった。どうしたって気配が千年前の彼奴らに似ている。
「……本来、神は消えたり何ぞしない。ただいつまでもそこに在るだけじゃ。だがな、新しくお生まれになられた主さまは違う。主さまは人々の待望によって合一なされた。なら、産子がいなくなればどうだ。どうやってその身を維持せよと申すのじゃッ!」
いわゆる普通の土地の神とは違って、新しくお生まれになった主さまには天の台帳に神籍がなかった。台帳に名がない以上、お隠れになっても天界へ上ることは許されない。
呆気なかった。本当にある日突然、主さまはお隠れになった。何の挨拶もなかった。その日から鈴寂が、土地神代行になった。
神通力を備えた霊狐は先の戦で人間を庇って死に絶え、生き残った妖狐どももいつの間にか山を下りたらしく、もう鈴寂以外にまともな霊狐が残っていなかったのだ。鈴寂が代行を果たすのは必然の成り行きだった。
「オレだって、こんな辛い場所になど居たくなかった。じゃがな、あの戦の晩に約束したんじゃ。お前たち人の子と約束したんじゃ」
「ああ、知ってるよ。夢で知ってる」
「なれば尚のこと! それを知っていて尚、お前はオレにこの地を捨てよと申すのかッ!」
鈴寂はこれ以上ないくらいに目を見開いて眼前のこの青年を睨みつけた。
一言、鈴寂は囁くような声で何事かを呟いた。刹那、
「――!」
青年の一方の頬を風の刃が走り抜けた。半秒の後、青年の片頬に細い血の直線が浮かび上がる。
「オレも見くびられたものよ。かつては稲荷の権現さまに七つの知行国を賜ったこともある宙狐鈴寂ぞ。これ以上、無礼なことをちらとでも抜かしてみろ、その喉切り裂いてくれる」
鈴寂は半ば本気であった。致命傷には至らなくとも声帯だけを切ってしまうことなど造作もなかった。けれど一方の青年はさして怯えた風もなく、
「できることなら、そうしてくれ。それでお前の気が晴れて、この社を棄て去ってくれるのなら――「黙るのじゃ、黙れ黙れ!」
大声で吠えて青年の発言を掻き消す。再度鈴寂が何事かの文言を呟くと、今度はもう一方の青年の頬に血の線が浮かび上がった。
彼の顔が一瞬、苦痛に歪む。
宙狐が三度唱えれば、男の喉元は今度こそ八つ裂かれるに違いなかった。無論、それはこの青年にとて十二分に分かっていたことだろう。
鈴寂が何より気に食わなかったのはこの若い男が、そうなるのなら別にそれでも構わぬと心底思っているからであった。
「……粗末にするな、人の子」
どれほど永い時間、そうやって睨み合っていただろうか(まあ、睨んでいたのは鈴寂だけであったが)。
「命を粗末にするなよ、人の子」会話を再開したのは鈴寂の方だった。「二百年だか三百年だかの間、お前のご先祖は生き延びて来たんだろう? 確かに初めの何年かは腹も立ったし憎い心持ちにもなったが……」
「……なったが? なんだ、全部打ち明けてくれ」
「やはりオレに人を憎み通すことはできないらしい。お前を見ていてつくづくそれを思い知ったよ。だからこそオレは未来永劫、この地に縛られ続ける。阿呆な妖狐にはお似合いな結末だな……、くふふ……」
いってみればこれは幽閉だ。態良く霊狐を束縛して、この地から出さぬようにするための土地神代行のお役目とも捉えられる。
こんな遠く人里離れた荒山ばかりの土地でも、山脈を鎮める神が不在となれば霊脈は乱れ、どんな天変地異が里の人間どもに及ぶかも知らぬ。それを知っている以上、鈴寂にはどうすることもできなかった。かつて約束した落人らの末裔が最早この辺りの里には誰も暮らしてはいないと分かっていながら、けれど鈴寂には見棄てることができなかったのである。
「だから、もういいんだ」
「……だから、とは? 何がだからなのじゃ」
「そうまでして人間に尽くさないでくれ、と言っている」
「ええい、煩い! 元はと言えば、お前のご先祖との約束だと言うに!」
「そうだ。だから今、こうして俺が来たんじゃないか! 他の誰でもない、その血を引いた俺自身がッ!」
「――ッ!」
鈴寂は青年を見やった。
これほど頭に血が上ったのは久し振りだ。今度こそ殺してしまおうか、そう思ったのも束の間。
「くふふ」思わず笑声が零れた。
青年は吃驚したような、気の抜けたような何とも間抜けな顔をしてこちらを凝視している。その面がますます可笑しくて仕方がない。
「お前、くっくふふ! どうしてお前の方かそんな蒼白な、切羽詰まったような顔をしておるのじゃ。何ゆえお前が苦しそうな顔をする」
鈴寂の問いを青年は心から辛く、そして悲しそうな顔をして聞いていた。一切のあらゆる責任が自身にあるがごとく、青年は心から切なそうな面持ちであった。
「だって俺のご先祖さまたちは、お前にとんでもないことをしたんだぞ。許されないことだ、神を裏切るだなんて……。そして永遠にも等しい時間、お前の自由を奪ったんだ……。なのにそんなことはすっかり忘れて……」
「…………」鈴寂は押し黙っている。
「なあ、俺と来い、宙狐鈴寂。俺の人生をお前にやる。だから、お前は俺のそばにいろ。辛かったら慰めてやる。淋しかったら、いつまででも抱きしめていてやるから。だからもう、泣くのを我慢するな。俺を、俺だけを見てろ」
「…………ッ」
堪らず顔を背けた。掴まれたままの腕が、もう何十時間もの間そのままだったみたいに痛痒い。鈍い痺れを感ずる。
鈴寂は弱く腕を払いのける仕草をしつつ、その場を立ち去ろうとした。しかし――
彼は逃げようとする金狐を後ろから抱き寄せた。刹那、鈴寂の身体はぽすりと青年の腕の中に納まってしまった。「きっと俺は、ここに迎えに来るために生まれてきたんだ」
「……うッ、くっ……」
どこか遠くで蜩の音が鳴きやんだ。それを最後に何の虫の音もしなくなり、境内を静寂が包んだ。とうに陽は沈んでおり、いわゆる逢魔が時の時分に差しかかっていた。
静寂の中、聞こえるのは鈴寂自身の堪える嗚咽だけだった。
出立は翌日の夕刻ということになった。
その日の夕餉はご馳走――というわけでもなく、必然的に厨に残る食材の残飯整理になったが青年は文句一つ言わずに平らげていた。
青年は鈴寂のことを良く聞きたがった。鈴寂としてはこの若い男自身のことをもっといろいろと知りたかったのだが、こちらの方が千年ばかし年長者であるので譲ってやって、彼の好きなように質問させた。
青年には里の話を聞かせてもらった。
今の世では里とは言わずに街と言うらしく、彼が住んでいる街には幾十万人もの人間が生活しているのだとか。しかもそのような大きな街があちらこちらにあって、新しい都にはこの十倍、二十倍もの数の人々が暮らしているとか。世情に疎いからと思って馬鹿にしているに違いないが、早くこの目で観てみたい(お前の街のそいつらは全員お前の一族郎党かと訊くと鼻で笑われた。わ、笑うな!)。
夜は早めに床に就き、翌朝はいつもよりも早くに目が覚めてしまった。我ながら興奮しているのが良く分かって、幼狐でもなかろうにと苦笑が零れた。
独りでならなかなか進まない蔵の整理も、二人でするとあっと言う間に終わる。それでも丸一日かかったが、出立には間に合わないだろうと諦めていた脇殿や神楽殿などの神殿や、摂社・末社などの手入れまでできた。
もう思い残すことは何もない。
「……主さま、もうじき行くよ」
鈴寂は拝殿の前に立って、本殿の奥に鎮座していたであろう不在の主に対面していた。
主祭神がお隠れし、その代行神までが不在になったとなれば、遠からずこの地は穢れることになるだろう。神聖な社は悪鬼どもの住処となり、山の気は乱れ、里(今は街と呼ぶのか)の人間たちにどんな不幸が訪れるやも知れぬが……。
宙狐はふるふると首を揺すってそこまでだと思考を打ち払うと、
「さらば、主さま」
踵を返して拝殿を後にした。
母屋に戻ると、青年が居間の片づけをしていた。
「もういいのか」「うむ、良い」
短いやり取りの後、暫くの沈黙が流れた。
「外の世界を見せてやるよ」不意に青年が口を切った。「何が見たい? どこへだって連れて行ってやる」
「うーむ。そうさなあー」
鈴寂は記憶の彼方から今一番観てみたいものを呼び起こした。「……海じゃ。オレ、海が見たい。それから、舟にも乗りたい。舟で海を渡りたいのう……」
「海でも、砂漠でも、どこへでも。お前が行きたいと望むなら」
「むむっ。こやつ、言いよったな。なれば魚じゃ、川魚は飽いたからの。オレは肉も食うぞ!」
「……あー、俺、一応学生なんだけど」
背後で何とも弱気なことを抜かしているが、そんなことは知ったことではない。そうと決まれば、早々に下山する支度を整えなくては。
(このオレ様に残りの人生を差し出したこと、せいぜい後悔させてやる!)
「なんか不穏な声が、直接脳内にー」
鈴寂は急いで土間に行き、火種を消して包丁や食器の類を綺麗に片づけた。
これまで数百年絶やしたことのない、一体どれくらい前からそこにあり続けていたのか知らぬ火種を消した。鈴寂は呆気なく消え去ったそれを少しの時間見やっていたが、
(そうだ、秋刀魚を食おう)
卒然そんな欲望が脳裏をよぎったために思いの他あっさりとその場から立ち去れた。
背後では後をついて来たらしい自称学生の青年の「あんまり裕福な方じゃないんだけどー」などという声が聞こえていたが、鈴寂の脳内は今それどころではない。秋刀魚だ、最早金狐の脳内は秋刀魚に醤油を垂らすことでいっぱいだった。
「準備できたか?」
開け放っていた土倉に閂をかけ、最後に本殿横の祭具殿の錠前を念入りに確認する。青年は終始、苦笑いを浮かべていた。未練たらたらで何が悪い。
「うむ。問題ない」
鈴寂は大きく頷いて見せる。
「では、出発するとしようか。急げば、宿の夕飯に間に合うだろ」
次の瞬間、青年が何事かを呟くと、手にした角灯の中にぼんやりとした明かりが灯った。何とはなく感じていたが、やはりこの男も秘術の類に覚えがあるようだ。
「そんなものでは暗かろうに」
今度は鈴寂が何事かを呟いた。刹那、境内に無数の火の玉が現れる。
鈴寂の指図を受けて、何十もの狐火がゆらゆらと先を進んで、やがて左右に二列に整列した。青年はまたしても苦笑を浮かべている。
「こほんっ。じゃあ、行くか」
さりげなく二人分の荷物を持った男子学生が鳥居の方を目指して歩きはじめた。宙狐もそれに倣って彼の左隣に駆け寄る。
不意に、背後で何かの気配のようなものを感じて、鈴寂は歩を止めて後ろを振り返った。
西の空に少し沈んだ夕日に照らされた本殿。その両脇に、何人もの落ち武者や束帯姿の元官人、女、子供、そして妖狐どもが、じっと佇んでいるのがぼんやりと見えた。
「…………」
鈴寂は何の反応も示さずに、ただ見つめ返すだけに留めた。
けれど次の瞬間、少しだけ右手を上げると、彼らに向かって軽く手を振り別れを告げた。彼らが微笑み返してくれた、ような気がした。分からない。瞬きをした刹那、もう彼らの姿はどこにもなかったから。
「どうかしたか?」
「いや、何でも」
鈴寂は鳥居のこちら側で待機する青年と合流すると、自身の祠に一瞥をくれてやった。その一瞥を最後に、宙狐はもう二度と後ろを振り返ることはしなかった。
我ながら、狐火が何とも形容しえぬ幻想的な雰囲気を醸し出している。
宙狐はそのまま青年に引き続いて鳥居を潜った。
「どうだ、外の空気は」
「ふんっ。鳥居ぐらい毎日潜って出入りしておったわ」
「そうじゃなくて。晴れて自由の身になった感想はどうか、って意味だよ」
「悪くはない。じゃが、すぐにオレは囚われの身だ」
「うん? どういう意味だ」
宙狐は至極厭らしい笑みを浮かべて、「なんせ、死ぬまで取り憑けとの直々のお達しじゃからな。難儀するわい」
その宵、噂の狐火の杜ではいつまでもいつまでも、宙狐鈴寂のからからとした笑声が響き渡っていたという。
そうして、また一つ、この国から神が姿を消した――。
〈終〉
狐にも、いろいろな段階や身分があるみたいですね。
調べたところ、最低級の妖狐は「野狐」と称し、ついで「宙狐」、「天狐」の順だそうです。
八王子稲荷には、かつて東国の狐たちが位階や官職を求めて、こぞって参詣に訪れていたという伝承があるそうです。西国の狐は伏見稲荷に参っていたのかな。
ここまでご覧いただき、有難う御座いました。