表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

短篇ホラー 『すがわらさん』

作者: 片瀬板士

 ビ、ビビイ……ビッ、ビイイイ──ビイビイビイイイ……。

 ……耳の穴に蝿でも這入ったか。それとも訪問者……だろうか。いや、これは私が観ていた夢の中で鳴っていただけの、現実世界には存在しない音だったのだろう……。実際、このアパートに越してきてからというもの、この家に訪問者が来た試しなど一度もない。それに、アレは最新型と迄は行かずともソレナリに新しいタイプのインターフォンのはずである。それがあんなにも喧しく、けたたましい音色を奏でるはずがない……なるほど、どうやら夢だったようだ。まあいい、とにかく起きる……跳ね起きる。

 寝覚めはいいほうだ。布団を跳ね除き目を開けて、三秒も経てば小噺の一つや二つ、難なく喋り通して見せようというくらいのものであるが、小噺なんぞしても聞き手が居ないのならば仕方がない。せっかく目が覚めたのだから散歩にでも行こう……散歩はいい。毎秒が穏やかに独りで、知れば知るほどに知らない場所や物が増えていく。

 ワンルームの端に山積みになっている衣類の中からシャツと短パンを選別もせずに身に付けフト時計を見た。深夜三時半過ぎ──自分がいつ眠りについたのかは定かじゃあないが、どうもあまり眠っていた感覚がない……眠る前に何をしていたのかも、よく思い出せない始末だ。大量に貯蔵されているからと言って深酒をしすぎたか。しかし三時半となると……仮にさっきの音が、現実にある、この家呼び鈴の音だったとしたらソイツは何と不躾な訪問者であろうという話である。常識が欠けた奴も居たもんだ。いや……居ないのか。あのインターフォンの音は私の夢の中でしか鳴っていないのだから。

 さて──今日はどこへ行こうか。もう何度目の事になるかわからないが近所の公園にでも行こうか……あそこは遊具類が少ない代わりに大きなビオトープや桑の木の群れなど、自然を基調としたいい公園だ。ベンチに座って涼むだけならあそこがいい……と。

『ビイイイイ────ッ……ビッ、ビツ、ビイイイイ──』

 ……信じられない。居た。常識が欠けた不躾な訪問者は実際に居たのだ。そしてこの家のインターフォンの音は間違いなくあの『ビイイイイ──』という気色の悪い、けったいな音だった。

 それにしても、訪問者は誰だ。一度も押されたことがないこの家のインターフォンを、しかもこんな深夜に鳴らすのは一体……。

「すがわらさん……ごめんください。すがわらさん……菅原さん、菅原さん……ごめんください。すがわらさん……すがわらさん」

 ビビイイ……ビッ、ビイイイイ──ビッ、ビッ……ビイイイイイイイイ────ッ。

 女か……。懇願するような、叫ぶような呼び声と汚らしいインターフォンの音が交わる。

「居ますよねえ、菅原さん……菅原さんでしょう……ねえ、すがわらさん……すがわらさんすがわらさん」

 どうも鬼気迫る感じの呼びかけだが、人違いだ。私の苗字は日本で一番多い苗字の『佐藤』なのだから……出ていって別人である事を告げるべきだろう。しかし……どうにも引っかかる。遭遇した事こそないが、表札を見る限りこのアパートに『すがわら』という苗字の人間は住んでいないはずだ。隣人に同居人などが居る様子もない……と言うよりも、この狭いワンルームに誰かと住むなど不可能だろう。と、すると……前にこの部屋に居を構えていた人物の名が『すがわら』だったのだろうか。なるほど、それならば得心がいく。

 そうとなれば、まずは人違いである事を伝え、前居住者は一年前に引っ越した旨を伝えなければならない。

 しかし何せ深夜だ。そしてあの捲し立てるような呼びかけ……警戒心を解くわけには行かない。私は音を立てぬようコソコソと玄関へと足を運び、ソット覗き穴に目を当てた。

 二十代前半と言ったところだろう……胸の辺りまで伸ばした吸い込まれそうなほどに黒い髪と、白いブラウス……顔は故意的に隠しているのか偶然見えないだけなのか、ギリギリ見切れるような位置に立っている。

 いよいよおかしい……こんな深夜に女性が独り歩きをしているなど……。特に最近この地区では不審者の目撃情報などが散々に出回っていて、男性であろうと夜は中々出歩いたりはしないと言うのに……。

 ──ビイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイッ。

「すがわらさん、すがわらさん、すがわらさん、すがわらさん、すがわらさんすがわらさんすがわらさんすがわらさんすがわらさんすがわらさんすがわらさんすがわらさん──ッ」

「ヒイッ……」

 思わず覗き穴から飛び退く。

 心臓がありえない速さで全身に血液を送り込んでいるのを感じると同時に、全ての血の気がサッと何処かへ引いていくのを感じる。

 ……絶対にドアを開けてはならない。

 ドアを開けた瞬間に何が起こるか、どんな行動を起こすのわかったものではない……危険すぎる。そもそもアレが『ひと』である可能性すら危ういのだ。仮にアレがこの世の者ではないナニカだとしたら……。

 ──ビイイイイッ、ビビビイイイイッ。

 引切り無しに鳴るインターフォンと『すがわらさん』を呼ぶ声が聴こえないように耳を押さえ、その場にうずくまる。

「すがわらさんすがわらさんすがわらさんすがわらさんすがわらさんすがわらさんすがわらさんすがわらさんすがわらさん……」

「なんなんだよ──ッ」

 咄嗟に叫んだ言葉は、しかし狭い玄関周辺の壁に吸い込まれ、空気をいくらかシンとさせるばかりだった。恐らく、玄関の外にまでは届かなかっただろう。

 不気味なインターフォンも、女の叫び声も、まだ続く──。

「すがわらさんすがわらさんすがわらさん──どうして……どうして出てきてくれないのオ──ッ。ねえ……ねえすがわらさん……」

 そう言い終えると、ドアの向こう側に居る女はインターフォンを押すのを止め、ブザーのほうが幾分マシかと思えるほどに騒々しく切実な轟音をドアに叩きつけ始めた。

「すがわらさん……すがわらさん……本当に……? ただの噂じゃなかったの……? お母様の再婚記念日が近いからお祝いをしようって言ってたのに……連絡も取れないし……すがわらさん……菅原サン──ッ。仕事だって漸く踏ん切りが着いてやっと青森から東京まで出てこられたのに……どうして……」

 痛々しいほどの悲鳴とドアを殴打する音の中、独り、うずくまった姿勢で脳髄を回転させる。

 噂……、再婚……、何のことだかサッパリわからない。

 しかしわかる事は一つある。

 私は台所へ向かい、自らの首を包丁で突いた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ