ディー 5
うつらうつらしていると、カイルに肩を叩かれた。
予定よりずいぶん早い。用事を切り上げてきたんだろうか。
リュシラが近づき、声をかけてくる。
「ただいま。ラキスは?」
ぎょっとして飛び起きた。
自分も落ちそうな勢いで井戸の中をのぞきこんだ。
大騒動になった。
縄梯子を投げおろしたカイルが、あっというまに暗がりの水中に消える。
浮かんでくるのもあっというまだったが、濡れた子どもを抱えて梯子を登り切るには、力自慢の彼でもかなり時間が必要だった。
ディーは動けなかった。川を流れ去っていった異形の姿が頭をよぎる。
妻に助けられながらカイルが地面に降り立つと、腕の中から子どもの真っ白な手がすべり落ちて、ぶらぶら揺れた。
びしょぬれの身体はぐったりしたまま、ぴくりとも動かない。
リュシラが半狂乱になってすがりついた。
横たえられた子どもの名前を叫びながら胸を押し、口に息を吹きこみはじめた。
「どうして助けなかった、落ちたのを知っていたのに」
カイルがいきなりディーのほうを振り向くと、怒りをあらわにして詰め寄った。
「だって……水の中でも息が続くって……」
「どうして縄梯子をおろさなかった」
「どれくらい続くか確かめたかったから……」
「実験したのか」
言われた次の瞬間、濡れた掌が飛んできた。ディーは吹っ飛ばされて簡単に転んだ。
「やめて!」
熱くなった耳の芯に、リュシラの叫ぶ声が聞こえてきた。
「生きてるわ。大丈夫よ」
子どもが激しく咳こみながら水を吐き出すのが見えた。走り寄ったカイルが容体を確かめながら抱き上げる。
そしてリュシラを伴い、あわただしく家の中に入っていってしまった。
ディーは、取り残されて地面にすわりこんだまま呆然としていた。
生きてる……安心したとたん、殴られた頬が急に痛んだ。
ほら、ちゃんと生きてるじゃないか。あんなにあわてなくたって。
のろのろと立ち上がり、泥をはたきながら家の中に戻っていった。居間に三人の姿はなく、寝室のほうから物音が聞こえてくる。
テーブルの上はラキスが工作をしたときのままで、削った小枝や麻紐の切れ端が散らばり、図版集も出しっぱなしになっていた。
それをみつめながら考えた。自分がしたのはそこまで悪いことだったんだろうか。
どれくらい息が続くか確かめたかったから。
どれくらい生きられるか確かめたかったから。
それはもしかすると……どれくらいで死ぬか確かめたかったから、と同じ意味……?
そのとき、奥の部屋から三人が戻ってきた。ぼんやりと目を開いたラキスがカイルに抱かれて、力なく胸にもたれている。
全身を拭き、着替えさせてもらっていたが、髪はだいぶしめっていた。
まだ頭がぼうっとしているらしく、こちらを眺めているはしばみ色の瞳は、うつろなままだ。
カイルの太い腕の中で、その姿はいつにもまして頼りなく、痛々しいほど小さく見えた。
こんなに幼い子を試したのか……。
ふいに、もう一度頬を殴られたかのような激しい後悔の念が押し寄せた。
剣のおもちゃをほめたときに向けられた笑顔が、ディーの心によみがえる。
あれは、信頼された瞬間だったのだ。それなのに、裏切った。
「ディー、あやまりなさい」
と、カイルが言った。
「ごめんなさい」
反射的に口走ると、カイルは彼をにらんだ。
「おれにじゃない。ラキスにだ」
「……」
「もういいわよ、カイル」
リュシラがとりなそうとする。
ディーはあやまろうとしたが、どうしても謝罪の言葉が出ず、一歩あとずさった。
足元でパキンと軽い感触があった。
それがわかったのか、それとも偶然なのか、ラキスの視線がゆっくりと下に向けて動いた。
ぼんやりしていた目が焦点を結んだのは、その瞬間だった。
子どもはふいに、もがくようにしてカイルの腕からすべりおりた。
ディーも下を見て、自分が踏んでしまったものに気がついた。
小枝を組み合わせて作った剣が、折れている。
あわてて足をどかすと、しゃがみこんだラキスがそれを拾い上げて掌にのせた。
完全に折れてしまった剣をみつめるうちに、みるみる表情が歪み、大きく潤んだ瞳でディーを見上げた。
泣く……!
思わずディーは身構えた。
だが子どもは泣かなかった。
テーブルに剣をおくと、泣くかわりになぜか長椅子を両手でつかみ、ずるずるとディーの近くに引っぱった。
それから今度は図版集を抱えて、これもなぜか椅子の上に素足でのぼった。
そして、ふだんよりずいぶん高くなった位置からディーを見下ろすと、両手に持った図版集を、いきなり彼の頭上に叩きつけた。
叩きつけながら、涙声で怒鳴った。
「あやまれ!」
仁王立ちになって激怒している子どもの姿を、カイルもリュシラもはじめて見た。
叩かれたはずみで尻もちをついたディーが、あぜんとして上を見上げながら呟いた。
「すみません」