ディー 1
ディーがその家に連れてこられたのは八歳のときだった。
その夏、父が急な事故で命を落とした。母はとっくの昔に他界している。
彼の引き取り先を決めるために親族会議が開かれたが、争議の中心は誰が引き取り手になるかということではなく、誰が家業の跡を取るかということだった。
代々続く家業を担う家だったのだ。
大人たちが言い争っている大広間の片隅で、彼は長テーブルに背を向け、ぼんやりとガラス窓のほうを眺めていた。
瓶底みたいに丸い模様がいくつもつらなりあった、薄緑色の窓だ。
ガラスは貴重品だから、それがはまっていること自体が大広間の豪華さを象徴している。
でも、できれば外が見えるくらい透きとおっていればいいのに。透きとおったガラスを作るのって、よっぽどむずかしいのかな。
暇つぶしにそんなことを考えていると、ふいに声をかけられた。
「丸の数でも数えてるのか?」
振り向くと、髪もひげも半分以上白髪になった大男が、のっそりと横に立っている。
ディーは藍色の瞳を向けて、けげんそうに男を見返した。知らない顔だが、親戚かもしれないので答えておくことにした。
「それもいいね。いまからやってみるよ」
「退屈そうだな」
「つまんないもん、こんなとこ」
「同感だ。ところで跡継ぎに興味はあるか?」
「全然。だってつまんなそうだから」
「同感だ」
男は相好を崩して笑った。いかにもこわそうだったひげ面に、親しみやすい笑顔が広がっていく。
絵本に出てくるクマみたい、と思っていると、男はふいに後ろを向き、言い争いをしている大人たちに宣言した。
「この子はおれが連れていく。おまえらは好きなだけ争っているがいい」
垢抜けない田舎の老人に見えたのに、広間に響いたその声は、驚くほど大きな威力を発揮した。
次の日には早くも馬車が用意され、ディーはカイルという名の男とともに、キリシュを旅立った。
そして数件の宿を経て、辺鄙な山あいの村はずれにある一軒家に到着したのだった。
都の香りをまとう唯一のものだった馬車と、馬車付きの御者が、田舎道にディーを残して去っていく。
ディーは落ち着かない気持ちで家のほうに向き直った。
道と見分けがつかないような前庭の向こうに建っているのは、茅葺屋根と泥壁の平屋だった。
石造りの生家にくらべ、いつ壁が崩れてきてもおかしくないように見える建物だ。
はたしてこれは納屋だろうか、それとも母屋だろうか。
迷いながら突っ立っていると、古びた扉が開いて中からひとりの女性が出てきた。
カイルと同じくらい白いものが目立つ髪を後ろでまとめ、くるぶしより少し上までの黒っぽいワンピースに、黄ばんだエプロンをつけている。
きっと典型的な農村の格好なのだろう。
けれど服装にかかわらず、その立ち姿には、貴婦人という言葉を思い出させるような凛とした気品があった。
きれいな人……ディーがぼんやりみとれていると、彼女は足早に近づいてくるなり両手で彼の手を包み込み、これもみとれるような笑顔を見せた。
「よく来てくれたわね、ディー。手紙が届いてから待ちかねていたのよ」
愛情のこもった親しげなまなざしに、ディーは亡き母の存在を思い出した。
それでも初対面の相手に笑い返すことができずにいると、彼女は手を離さないまま、彼を家の中に導いた。
玄関から入った場所は土が踏み固められた土間で、外から見るよりは広さがあり、天井も高かった。
中央近くに炉が切られて、三脚台に乗せられた鉄のやかんから蒸気があがっている。
壁に打ちつけられた板にはいくつもの鉤がつけられ、杓子だのフライパンだのといった調理器具がぶらさがっていた。
その下にあるのが調理台だろう。
垂木から吊られているのはハーブの束や細長い麻袋──たぶんニンニクやタマネギの入った──こういう風景は生家とそんなにちがっているわけでもない。
大きくちがうのは、この部屋が厨房専用ではなく、居間であり作業場であり、とにかく生活すべての場であるらしいということだ。
反対側の壁には糸巻き車と織り機がおかれ、もう片方には組み立て式のテーブルが、いまは台と脚を分けた状態で立てかけられている。
戸口のほうが急に暗くなったので振り向いてみると、カイルの大きい身体が、戸口をふさぐようにして入ってきたところだった。
そしてその後ろから、小さな顔がかくれるようにのぞいていた。
褐色の髪とはしばみ色の瞳の男の子。
幼い顔には好奇心と不安が入り混じった表情がうかんでいる。
だが不安のほうが優勢だったらしく、その子はディーが挨拶する前に、身をひるがえして外に走っていってしまった。
あとで紹介するわ、と笑いを含んだ声でリュシラが言った。
それから居間とつながるもうひとつの部屋に彼を案内した。
そこは寝室で、うれしいことに床には木の板が張られていた。同じ材質の木で作られた大きなベッドがひとつ置かれている。
その横には小さなベッド。夫婦用と先ほどの子ども用にちがいない。
ほかには長櫃があるくらいで、家具らしい家具は何もなかった。
「あなた、想像していたより背が高いのね」
リュシラが少し心配そうにディーを眺めながら言った。
「もしかして、このベッドじゃ小さすぎるかしら」
「え……」
ディーは驚いてリュシラを見上げた。
「さすがにひとつのベッドで四人寝るのは無理でしょう? 知り合いの大工さんに急いで作ってもらったのだけど……。窮屈でもしばらく我慢してちょうだいね。そのうちカイルが新しいのを作るわ」
じゃあ、これはぼくのベッド……?
ディーは目を見開いて、粗末な木製のベッドをみつめた。
実家のベッドの半分くらいの幅しかなかったし、丈が足りるかどうかもあやしいものだった。
でも、もちろん大きさなんかどうだってかまわない。
言われるままにここまでやってきたものの、実はずっと半信半疑の気持ちだった。
会ったばかりの人たちが、見ず知らずの子を本当に引き取ってくれるなんて思えなかった。だけど……。
ここにいてもいいんだ、とディーは思った。
帰らなくてもいいんだ。
暖かな光がにじんでくるように、喜びがディーの胸にゆっくりと広がりはじめた。