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カイル 2

 乳の問題は、リュシラが手仕事で得た報酬を、そっくり村の女性に渡すことで解決した。

 何カ月もかけて仕上げた大きなタペストリーを、領主に買い取ってもらったばかりだったのだ。


 腕前の確かさが気に入られ、リュシラは領主御用達のお針子のひとりとして仕事を受けていた。

 とくに刺繍はいつもすばらしい出来栄えで、収入だけでなく彼女の生きがいにもつながっている。


 その生きがいから得た金貨が、乳母役の女性の手にあっさりと渡る様子を、カイルは恨みがましい目で見守った。

 あれだけの額があれば、日々の食糧だけでなく、妻自身の靴や外套を新調することができたのに。

 ついでに夫の林檎酒や、たまには奮発して葡萄酒も……もちろんあくまでついでだが……。


 乳母役を引き受けてくれた女性は、自分の赤子を亡くした直後だったうえ、すでに子だくさんで金銭に困ってもいた。

 乳をあげる喜びとともに、報酬の大きさも多大な魅力だっただろう。

 ただし他人を家に入れるにあたり、かなりの注意力が必要だったのはいうまでもない。

 注意力、あるいは演技力が。


 この子の背中にはひどい痣がある、と、リュシラは涙までうかべながら女性に訴えたのだった。

 こんなにかわいいのに、きっとそのせいで捨てられてしまったのだ。

 だから気の毒だと思って、この子の肌は見ないでやってほしい。世話はすべてわたしがするから、どうかお乳だけをあたえてほしい。


 捨て子は亜麻布でぐるぐる巻きにされ、乳母の腕とリュシラの腕を行ったり来たりしながら育っていった。

 カイルは赤子の世話こそほとんどせずにすんだが、自分自身の世話は、独身時代と同じくらいやっている気がした。

 というのも、妻の時間のほぼすべてを育児が奪ってしまったからだ。

 もううんざりだ──みずからの下着を黙々と洗いながら、彼は考えた。

 こんなことが、いったいいつまで続くのだ。


 いつまでも続くはずがないと、最初のうちカイルは高をくくっていたのだった。

 捨て子がひとりで立てるようになったら、さっさと森に放してしまおう。まさかずっと育て続けるわけではないだろう、生粋の人間の子でもないものを。


 だが、リュシラが赤ん坊をラキスという名で呼び始めたのを知ったとき、さすがの彼も自分の予想が甘かったことを痛感せざるをえなかった。

 それは、かつて彼女がただ一度身ごもった子どものために用意したはずの名前だった。


 もう何十年も前。はじめての妊娠、そして死産。

 胎児よりも母体を優先させたのは当然だ。ようやく得た妻を、顔も見たことのない子どもなんぞのために失うなんてとんでもない話だ。

 リュシラの身体を確認した産婆から、次も同じ結果になりかねないと聞かされたカイルは、二度と妻の命がおびやかされないよう細心の注意を払うようになった。

 リュシラ自身の希望はちがっていたので何度も大喧嘩になったものだが、最終的には彼女が折れた。


 だが……目の前の川を流されていく赤ん坊。

 きっと彼女の眼には、それがカイルとはまったく異なる光景として映ったにちがいない。

 こうなった以上、夫である自分も考え方を変えなければ。

 子どもを持たないまま終わると思っていた人生だが、思い違いを改められないほど、年をとってしまったわけではないのだ。 




 とはいえ、どんなふうに育っていくのかとびくびくしていたのは事実である。

 外見を詳しく調べても、とりあえずいまは、銀鱗以外に目立つところはないようだ。

 だが成長するにつれて魔物の特徴が色濃くなっていくかもしれない。

 ある日突然変態するかもしれない。突然巨大になるかもしれない。

 成長速度が早いならまだしも、ゆっくりだったら年老いた自分たちの手に負えるだろうか。

 知能はどうなっているのか。心は──あるのか。


 リュシラには、幼い弟妹や親類の赤ん坊の子守をさんざん経験した過去があった。

 それでその経験をいかし、はじめての子育てとは思えないほどいつも落ち着き払って見えた。

 彼のほうはいろいろと気をもんでいたが、もともとそれほど家にいるわけでもなく、妻の裁量にまかせているうちに子どもはどんどん成長していった。


 もちろん普通に、ごくあたりまえの人間の子と同じように。


 離乳の時期は驚くほど早かったが、そのほうが好都合だったのでリュシラがあえて早めたふしもある。

 歩き出すのも驚くほど早かったが、そういう個体差はどんな人間にでもあるものだ。

 銀鱗について言えば、身体が大きくなるにつれて広がっていくかと思いきや、逆にだんだん小さくなった。

 小さくなったというより、最初の大きさから広がらなかったというべきか。

 脇腹から背中一面、尻あたりまであったものが、左の脇から背中の下あたりの面積で止まっている。


 ほかの変化といえば瞳の色で、最初は冴えた緑色だったものがだんだん茶色味を帯びてきて、やがて、はしばみ色に落ち着いた。


 子どもが三つになる頃には、カイルはその子のほとんどすべてを受け入れていた。

 もちろん、何かにつけてひとつの言葉がしつこく浮かんできた時期もあった。

 これは魔性の血をひく赤ん坊。

 こんなに泣いてばかりいるのは、半魔だからにちがいない。こんなにあちこち這いずりまわるのは、半魔だからに決まっている。

 まったく、なんてまあ手がかかるんだろう、半魔ってやつは。


 あたりまえだが、どんな人間の赤子でも信じられないほどよく泣き、よく這いずりまわり、いい加減にしろと怒鳴りたいほど手がかかるのである。

 知らなかった。

 何人もの幼児を育ててきた友人知人の面々を、彼はこの年齢になってはじめて尊敬した。


 リュシラに言わせると、過去に面倒をみてきた幼児たちとくらべても、この子はずっと育てやすい子だという話だった。これのどこが、と思うが、たしかに性格だけみれば、とてもおだやかなような気がする。

 癇癪をおこしたり、長く泣きわめいて困らせることなどはほとんどない。

 逆におとなしすぎることが心配なくらいだった。


 子どもにしては大変無口であることだけが、カイルを不安にさせた。

 知能は普通、あるいはそれ以上のような気がするくらいだったが、もしかして発声器官に問題があるのかも……しかしある日、彼は妻と子どもが楽しげに語り合っている場面を発見して驚いた。

 このガキは──と、彼は思った──父親のことは無視するくせに母親とはちゃんと会話ができるのか。


「あなたが遠慮しながら話しかけているからよ。この単語はわかるだろうかとか、ちゃんと聞きとれるだろうかとか」

 憮然としている夫を見て、妻はにやりと笑った。


「もっとも、この子はわたしと楽しくおしゃべりできるんだから、別に父親が無理して加わることはないわ。ねえ、ラキス?」

「うん」


 子どもはにっこり笑ってうなずいた。


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