リュシラ 4
あのときは腹がたったけれど……と、あとになってその夜のことを思い出すたびに、リュシラは考えたものだ。
台無しになったと思っていたが、いま考えてみるとそうでもない。
それどころか、ああやって打ち切られたことさえも、楽しい思い出のひとつになっている。
大事な人たちにかこまれて、春の夜を満喫した。天馬の群れにも出会えたし、飛翔の様子をみんなで見ることもできた。
小さな村の片隅の、ささやかな、でも最高にぜいたくな晩餐会──王城で暮らす姫君たちの晩餐にだって、きっと負けてはいなかっただろう。
リュシラはいま、天馬を模様に取り入れてうまく作品に仕上げられないかと、試行錯誤している。
手持ちの刺繍糸を並べて、どの色の糸がふさわしいかと吟味する。
銀と白だけでは単純だろうか。瞳はどんな色を? もちろん布地の色もよく考えなければ。
組み合わせかたが腕の見せ所だ。
本当のところリュシラは、人前に出せるほど満足のいく作品が仕上げられるのは、あと少しなのではないかと思っている。
彼女にとって刺繍は妥協できないほどの価値があり、満足のいく作品以外を送り出すつもりはない。
しかし、どの刺繍が最後の作品になるにせよ、天馬というのは申し分ない意匠だ。
庭先では、カイルが子どもたちに剣の稽古をつけている。
ほぼ完全に白髪になった夫に鍛えられて、子どもたちもまた一段と成長した。
ふたりとも魅力的な若者に育つことだろう。
ディーはいまでは、来たときとは別人のように、のびのびした明るい少年だ。
本来、そういう気質の子だったのかもしれない。
彼が来てくれたおかげで、ラキスの行動範囲も目に見えて広がった。ひとりで行かせるのは不安だった礼拝堂や学び舎にも通えるようになったし、村の子どもたちと混じって遊ぶことも、ときにはできるようになった。
おとなしかったラキスの気の強い面が、どんどん引き出されてくるのも、子ども同士だからこその効果に見えて面白い。
ふたりで競いあっている剣の腕も成長著しく、カイルの手にあまるのもそう先のことではなさそうだ。
ふたりとも、剣士の道を選ぶつもりだろうか。
自分の腕前ひとつで食べていけて、暮らす場所を自由に選ぶこともできる仕事。危険な職業だからあまりすすめたくはないが、案外向いているのかもしれない。
それにしても、自分たちの生活は、実はけっこうな綱渡りだったにちがいないとリュシラは思った。
ラキスの養育については、彼女自身も内心ひやひやしていたことが多々あった。
人として育てられなかったらどうしよう。自分がなかば強制的に引き取ったようなものだったから、夫には打ち明けずにいたけれど……。
ディーについては、夫婦ともに問題があった。
ずいぶんしっかりしている子だったから、つい安心してしまったが、ここに連れてこられたときの彼はまだ八歳。それも父親を亡くしたばかりだったのだ。
素肌を見せた件にしろ留守番させた件にしろ、あまりに時期が早すぎた。彼にはさぞ負担だったにちがいない。
負担はラキスも同様で、あからさまに自分を嫌っている相手と同じ屋根の下で暮らすのは、けして楽ではなかっただろう。幼児なりに我慢しなけばならないことも多かったはずだ。
もしもラキスがディーに向かって、いっしょに暮らすのは嫌だと大騒ぎしていたら……がんばっていたディーの忍耐力も途切れ、共同生活は終わりを告げていたかもしれない。
でもあの子は、一度もディーの存在を拒否しなかった。
つまりは、子どもたちの度量の広さに、自分たち大人が甘えさせてもらってきたのだ。
カイルは、満足のいく剣が打ち上がったら、子どもたちにそれをあげるつもりだと言っている。
リュシラの本心としては、小さいうちから武器になるようなものを与えてもらいたくはない。
だが、刀鍛冶というカイルの仕事が、ときどきうらやましくなるのも事実だ。
剣だってもちろん永久に使えるわけではないが、刺繍の細い糸ややわらかな布地にくらべれば、まだ手応えがたしかな気がする。
それに男の子なら、そうしたものをずっと大事にするだろう。
わたしはいったいあの子たちに何を残せるかしら? リュシラはときどき考える。
剣でなければ何を? 言葉を? 心を?
まあいいわ、とリュシラは思った。
自分が何を残せるのかはともかくとして、わたしはあの子たちからたくさんのものをもらった。
たくさんの美しいものを。
もちろん言うまでもなく、カイルからもたくさんもらった。
口のかわりに手が出るような荒っぽいところもあるが、彼を選んでついてきたことがわたしの誇りだ。
そういえば、彼が以前、珍しくいいことを言っていた気がする。なんて言ったんだったかしら。
リュシラは少し考え、それから思い出してほほえんだ。
あれは──そう、あれはたしか、こんな言葉だった。
美しいものを心から離すな。
しっかり、つかめ。
お読みいただき、どうもありがとうございました。
次回、あとがきです。