気まずいリビング Ⅱ
その雑誌に目を止めて、古庄は会話の端緒にしようと試みる。
「…山の雑誌ですけど、山に登られるんですか?」
自分に声がかけられていると気付いた瞬間、父親はピクリと体を硬くした。
そして雑誌を閉じ、短く答える。
「いや、登らないね…」
あまりの素っ気なさに、古庄の背中にまた冷や汗が流れ始める。これでは、会話が弾まないどころか、続いていってくれない。
「今は登らないけど、昔は高い山とかにも登ってたんですよ」
ダイニングで配膳をしながら、会話を盛り上げようと真琴が口を挟んでくれる。
何とか場を和ませて、両親との間を取り持ってくれようとする真琴の健気な心遣いに、古庄の胸がジーンと震えた。
「低い山には、今も登ってるのよ。休みの日には近くの山にトレッキングに行ったりして」
すると、母親の方も合いの手を入れてくれる。
「あら?そうなの?知らなかったわ。お父さん」
真琴はそう言って父親に話を振ったが、父親は聞こえているのかいないのか…。それに答えることなく、ローテーブルの上の雑誌の隣に置かれていたテレビのリモコンを手に取り、スイッチを入れた。
テレビには夕方のニュースが映し出され、おもむろに父親はそれを見始める。
古庄はそれ以上声をかけることが出来なくなった。
二人の間には言葉もないまま、ニュースの音声だけがその耳をかすめていった。
それから夕食になって、古庄は父親との息の詰まるような状況から、やっと解放された。
だが、自分の部屋に籠ってむくれていた正志が、母親により無理やりに連れて来られたので、当然その空気はいっそう重苦しくなった。
母親と真琴が作ってくれたせっかくの料理も、こんな心境では、古庄にはなかなか味わえない。
「あ、そうだ。お父さん。今日はビール飲まないの?」
古庄の隣、父親と向かい合って座る真琴が、父親を覗き込んだ。
「そうよ。忘れてたわ。お父さんの毎日のお楽しみを。古庄さんもご一緒にいかが?」
そう言いながら、母親が冷蔵庫へと立った。
「…いや、僕は車で来てますから…」
と、古庄は真琴と顔を見合わせながら答える。
「あら、泊まっていけばいいじゃないの。明日はお休みだけど、仕事があるの?」
仕事はなくはない。
古庄が顧問をするラグビー部は、花園予選に向けて、特に土日は猛練習をしている。本来ならば、古庄も練習に出て指導をするべきなのだが…。
でも古庄は、今は真琴の家族と一緒にいることの方が大事だと思った。こんな打ち解けていない状態で帰ってしまったら、ここに来た意味がない。
「いえ、仕事はありません。僕もビール、頂きます」
と古庄が答えると、
「部活の方は大丈夫ですか?」
と、真琴が心配そうに訊いてくる。
「大丈夫。塩尻先生がついてれば、心配ないよ」
古庄はそう言いながら、ビールのグラスを受け取った。
ビールを酌み交わせば、少しは父親との会話も楽しく弾むのでは…という期待もあった。
けれども、父親は缶ではなくて瓶ビールを、1日に1本と決めているらしい。真琴の堅実さは、この父親譲りなのかもしれない…。
父親は古庄と打ち解ける間もなくそれを飲み終わり、腹を割るほど酔っぱらってくれてもいない。
当然、父親が飲まないのに古庄がそれ以上ガブガブ飲むわけにもいかず…、結局アルコールは何の助けにもなってくれなかった。
話をするのは、真琴と母親ばかり。
それも、肝心な話はできず、近所の人の話だったり世間を騒がす事件のことだったり、当たり障りのないことが話題に上っていた。
男3人はただ黙々と料理を口に運び、真琴が母親を手伝う合間に、手早く作っておいたイチゴのムースを食べ終わった時には、すでに8時をずいぶん過ぎていた。
「古庄さん。今お風呂を入れてますから、お先にどうぞ」
母親が、そう古庄に声をかけた。
「あっ、でも。泊まるつもりじゃなかったから、着替えとか持ってきてないわ。私のは置いてあるけど…」
真琴がそのことに気が付いて、口を開いた。
「古庄さんの寝間着は、お父さんのを使えばいいわよ。でも、下着は…」
母親が考えあぐねた時、古庄が口を挟む。
「下着は、近くのコンビニで買ってきます」
そう言って、古庄は家を出た。昼間散歩をしたときに、近くにコンビニがあることは確認済みだ。
言いようのない緊張感から解放されて、古庄はホッとため息を吐く。
いつの日か、居場所のないようなあの雰囲気が解消されて、自分は家族の一員として受け入れてくれるのだろうか…。そんな不安が、古庄の胸に去来する。
でもこれも、自分がしたことの報いなのかもしれない。
早く真琴を自分だけのものにしたくて、一足飛びで「結婚」という手段を強行してしまったが、本来ならば、きちんと挨拶をしてそれから入籍をするという、順番を踏まねばならないことだ。
真琴の父親の堅実さを見れば、どれだけ戸惑っているのかは想像に難くない。
考えてみれば、堅実で思慮深い真琴が、あの時よく結婚に同意してくれたものだと思う。
それだけ自分が強引だったのか、それとも堅実な常識よりも自分への想いが勝ってくれていたのか…。
そんな風に真琴の心を推し量ると、古庄自身、真琴への想いが募って胸がキューンと苦しくなった。
道端の電柱に手をついてもたれかかり、胸を押さえてこの甘い痛みにしばし耐える。
側を通っていく数人から、気味悪そうに振り返られた。
――…あ、もしかして俺ってアブナイ奴かも……
不審者扱いされて賀川家に迷惑をかけてもいけないので、何とか気持ちを落ち着けて、古庄はコンビニへと向かった。
気分を仕切り直すにはコンビニはあまりにも近すぎて、買い物を済ませた古庄は、ほどなく賀川家へと戻ってきた。
ダイニングでは片づけがほぼ終わっており、正志もよくしつけられているのであろう、テーブルを丁寧に拭きあげている。
台所の方で洗い物をしていた真琴が、古庄に気が付いて駆け寄ってきた。
「お風呂の脱衣所に、タオルとお父さんのパジャマを用意してるから使ってください」
そう言いながら、浴室に案内してくれる。そして、古庄を気遣って笑顔を作って向けてくれた。
その笑顔のいじらしさに、古庄は思わず真琴を抱きしめたくなるが、場所と状況を考えて、グッとその衝動を思い止まった。
「ありがとう」
真琴をじっと見つめた後、古庄もそう言って微笑み返した。
その顔を見て少しホッとした真琴は、脱衣所の戸を閉め、リビングへと戻った。