気まずいリビング Ⅰ
いつまでも、この居心地のいい部屋で二人だけの時間に浸っていたかったが、今日の本来の目的はそれではない。
それから程なくして、二人は階下へと降りてきた。父親の方も起き上っていて、もう大丈夫みたいだが、ローテーブルにぶつけた額の赤みが痛々しい。
真琴が台所にいる母親を手伝い始めると、古庄はリビングのソファーに向かわざるを得ず、父親とそれから正志と、否が応でも対峙しなければならなくなった。
危ない生物でも見るかのような、この二人の視線が身につまされて、古庄はどうにもいたたまれない。
何か突破口を開きたいが…。
古庄はまず、普段接している生徒たちと同じ年代の正志に照準を合わせた。
「正志くんは…、部活はラグビーをやってるのかな?」
声をかけられて、正志は鋭い目つきで古庄を見返した。
「……何で知ってるんだよ?お姉ちゃんから聞いたの?」
「いや、さっき、スクリューパスとか言ってたから。ラグビー部がある中学校って、珍しいね」
古庄がそういうのを聞いて、正志の表情はますます険しくなる。
「………僕、中学生じゃなくて、高校生だし…!」
「…えっ!?」
しまった…!とばかりに、古庄は目を丸くした。
一瞬にして、どっと冷や汗が噴き出してくる。
正志と共通の話題で打ち解けようと目論んでいた古庄の思惑は、見事に裏目に出てしまった。
「正志ちゃんは、都留山高校の1年生なんです…」
前もって知らせておけばよかった…と書いてある顔で、真琴が台所から声をかけて助けてくれる。
「それじゃ…。都留山のラグビー部か。花園の常連校だから、それは大変だろうね」
気を取り直して、優しい言葉をかける。古庄はあくまでも、正志から懐柔する作戦だ。
「大変どころの話じゃないよ。もう、僕、やめるんだから」
「…どうしてやめちゃうの?きついのは、どの部活だって同じよ?」
真琴が弟を心配して、台所を手伝う手を止めて、リビングへとやってきた。
生徒をなだめて説得するような口調の真琴に対して、正志もやはり生徒と同じように口をへの字にして黙り込んだ。
「そうだ。和彦さんにちょっと教えてもらったら?その…、スクリューパス?」
「あら?古庄さんもラグビーやるの?」
食事の準備の手を動かしながら、母親が話に入ってくる。
「和彦さんも高校の時にやってたのよ。今は、うちの学校でもラグビー部の顧問なの」
「まあ!そうなの?」
「ラグビー専門の体育教師がいますから、僕は補助みたいなものですけど」
母親のおかげで、ようやく和やかで和気あいあいとした会話が始まろうとしたところで……、
「……わかった。そういうことだったんだね……」
不穏な空気を漂わせて、正志がソファーから立ち上がった。
「お姉ちゃんは、そいつがラグビーやってたから、僕にやれって言ったんだね?!」
正志の指摘に、真琴の胸がドキッ!と一つ、大きな鼓動を打った。
正志が勘ぐった通りだ。彼が高校に入学した時、何か部活をしたいと相談されて、ラグビーはどうかとアドバイスしたのは誰でもない真琴だ。
その時に、自分の弟も自分の好きな人のようになってほしいと、思わなかったわけではない。
「……和彦さんのことを、『そいつ』なんて呼ばないで。それに、私はそんな風に強制はしてないわ」
真琴も、小さな子供みたいにヘソを曲げて、いつまでも突っかかってくる正志に苛立っていた。
「でも、自分の理想を押し付けて!そいつだって言ってただろ?都留山のラグビー部は大変だって。お陰で僕はいい迷惑なんだよ!」
正志のあまりに激しい反応に、真琴は表情をこわばらせた。言葉を逸して、澄んだ瞳に涙が浮かぶ。
もし正志が生徒だったならば、古庄は少し強い語調でその態度を諌め、諭して謝らせただろう。だけど、気心の知れていない義弟相手では、そうはいかない。
真琴を守ってあげたいのはやまやまだったが、古庄が口を出せば、状況はいっそう悪くなるのは必至だった。
「正志!お姉ちゃんに向かって、なんてこと言うの!!謝りなさい!!」
古庄が気を回すに及ばず、ここにはちゃんと正志を叱ってくれる母親がいた。
しかし正志の方も、母親にこう言われて謝るくらいなら、激しい言葉を吐き出す前に思い止まっているはずだ。
「……なんだよ。お姉ちゃんなんて!僕なんかより、そいつの方が大事なんだな!?」
そう言い放つと、リビングのドアをバタンと大きな音を立てて閉めながら、正志は再びその場からいなくなった。
気まずい雰囲気が漂う中、気持ちを切り替えて、母親と真琴は夕食の準備を再開する。
けれども古庄は、リビングに父親と二人きりにされて、もっと気まずい状況になった。
先ほど正志が起こした騒動の間も、父親はただ黙ってソファーに座り、われ関せずとばかりに手元にある雑誌をめくっていた。