「和彦さん」 Ⅱ
「ここからは、公園の緑が見渡せて気持ちがいいね」
テーブルにカップを並べていた真琴は、そう言われて立ち上がり、古庄の隣で並んで外を眺めた。
「夏は、蝉の声がうるさいですけど」
真琴が小さく笑うと、古庄はもっと笑顔になる。
「だったら、俺の実家はもっとすごいよ。山の中だから。いろんな種類の蝉の鳴き声が至る所から聞こえてくる」
「…山の中って…。どんな所なんでしょ。古庄先生のご両親にもご挨拶しなきゃいけないし、早めに連れて行ってくださいね」
この真琴の言葉を聞いて、古庄は和やかな気持ちから一転、ギクリと肝を冷やした。
真琴を自分の家族に会わせることは、古庄が直視したくないミッションだった…。
真琴の思考を転換させるために、古庄は話題を変える必要に駆られた。
「それはそうと…。君はいつまで俺のことを『古庄先生』って呼ぶのかな?」
「…え…?」
真琴は目を丸くして、古庄を見つめ返す。
「君もいずれは、『古庄先生』って呼ばれるようになるんだぞ」
そう言われて、真琴はパチパチと瞬きをして考え込んだ。
「…じゃあ?……和彦さん……?」
そう呼ばれて、今度は古庄の方がパチパチと瞬きをした。
「…もう一度、呼んでくれ」
念を押されると、真琴の方もなんだか少し恥ずかしくなってくる。
「……和彦さん……」
顔を赤らめて、そうつぶやいた瞬間、真琴は古庄の腕にきつく抱きしめられていた。
「……今まで、自分の名前は何の変哲もない平凡な名前だと思っていたけど、君がそんな風に呼んでくれると、この名前で良かったって心から思うよ」
古庄のこの言葉を耳元で聞いて、真琴の胸もキュウっと絞られる。
それだけ自分を純粋に想ってくれているからこそだと思えば、真琴も自然と古庄の背中に腕を回して抱きしめ返していた。
だけど、名前を呼んだくらいでこんなに感激する古庄のことが、少しおかしくなってくる。
「それじゃ、もし名前が『助平』さんでも、私が呼べばいい名前って思うんですね?」
「……え?」
古庄の目が点になるのを見て、真琴は古庄の腕の中で面白そうに笑い始める。
いたずらっぽい口のきき方とその笑顔が何とも言えず可愛らしくて、愛しさが募ってくる。
折しも、今は狭い部屋に二人きりだ。
…古庄はもう我慢が出来なくなった。
真琴の後ろ頭に手を回して引き寄せると、その唇に口づけた。
いきなり始まった深くて情熱的なキスに、しばし真琴も我を忘れて応えてしまう。
けれども、ここは自分の実家で、隣の部屋には弟もいて、階下には両親もいる…。
その現実がいきなり頭の中に浮かんできて、焦った真琴は、古庄の頬を両手で挟んでお互いの唇を引き離した。
「…ダメです!」
そう言われても、古庄の一度高まってしまった感情は、そう簡単には抑えられない。
「君がそう呼ぶまでもなく、俺はスケベなんだぞ」
と、抱きしめる腕にいっそうの力を込め、情熱に任せて再び唇を重ねようとする。
けれども、気が気でない真琴は、それどころではない。
「こんなところ、誰か家族に見られたら…」
「……もう見られてるよ」
その声を聞いた瞬間、真琴と古庄が凍りつく。
身を寄せ合ったままドアの方を振り向くと、そこには正志が立っていた。
「やだ…!正志ちゃん。黙って入って来るなんて、なんて子なの?!」
焦りと恥ずかしさのあまり、弾かれたように古庄の腕の中から飛び出して、真琴は顔を真っ赤にした。
「黙ってじゃないよ。ノックしても返事しなかったんだよ…」
と、敵意たっぷりの目つきで正志は古庄を睨みつけた。
古庄の端正さは男性でも不快に感じるものではなく、こんな風に古庄を見る人間は珍しい。
「……何か用があるの?」
決まりの悪さをごまかすように、真琴が正志に声をかけた。
真琴からの邪魔者扱いされているような態度を察知して、正志は少し不満そうだ。
「母さんが、7時になったら夕食にするから降りてきてって、言ってたよ」
「わかったわ。ありがとう」
真琴は、依然として古庄を睨んでいる正志を部屋から追いやり、ドアをバタンと閉めた。
くるりと古庄の方を向いて、ハァ…とため息を吐く。
「…あの子…。この前帰った時までは、子犬みたいに私の後をまとわりついてきてたのに…。」
真琴はそう言いながら丸テーブルの側に座り、紅茶を一口すすった。
「それに、お義兄さんが出来たって、きっと喜んでくれると思ってたのに…。」
古庄も真琴の向かいに座り、その顔を覗き込む。
「…突然のことに、驚いてるんだよ」
真琴にそう語りつつも、先ほどの正志の目つきを思い出して、自分の方がそうであってほしいと思う古庄だった。