岩風呂にて Ⅰ
古庄の実家に戻ってきたのは、もう夕暮れ時になってしまっていた。
奥の納屋の方には軽トラが停まっていたので、もう晶も農作業を終えて帰ってきているらしかった。
古庄も、もう真琴のアパートへと帰り着いている頃だろうか。居間のテーブルの上に置いてきた手紙を見たら、どんなに驚くだろう…。
――…和彦さん、ごめんなさい…。
真琴は心の中で古庄に詫びながら、大空を覆い尽くす、燃えるような夕焼けを見上げた。
――和彦さんも、こんな空を見上げながらここで育ったのかな……。
そんなことを思うと、その美しさへの感動と相まって、真琴の胸がキュンと震えた。
「ああ、お帰りなさい。ついさっき、和彦から電話があったわ」
屋敷の裏手、勝手口から出てきた古庄の母親が、そう声をかけてきた。
それを聞いて、真琴の心臓がドキリと一つ大きく脈打った。
ここは電波が届かず、真琴のスマホは使えない。だから、古庄は実家に連絡を取ったのだ。
その電話で、古庄に何も言わずに来てしまったことが、母親にバレたに違いない。
「あの…、実は和彦さんには内緒でここに来てるんです。…何か言ってました?」
それを聞いて、母親はニヤリと面白そうに口元を歪ませた。
「真琴ちゃん。それ、ナイス♡和彦は『そこに真琴が無事に着いているか?』ってわめいてたけど、『真琴ちゃんなんて誰?知らないわ』って言ってやった!」
「え……?」
母親の意外な言動に、真琴の目が点になる。
「きっと、血相変えてここに飛んでくるわよ!あっはっは…!」
母親は手を叩いて楽しげに笑っていたが、真琴は途端に不安になった。
あわてて車を運転する古庄が、スピード違反で捕まったり、事故に遭ったりするのではないかと…。
「さあ、お風呂を沸かしておいたから、先に入っていらっしゃい」
気を取り直すように母親からそう言ってもらって、真琴は肩をすくめた。
「…でも、お義母さんとお食事の準備をするお約束でしたから…」
「食事の準備は、あと自然薯をすりおろすくらいだし、それをしてもらうにしても、とにかくその土を落とさないとね」
と言いながら母親は、真琴に歩み寄り、割烹着の裾を持ち上げて真琴の顔に着いた土をふき取ってくれた。
懸命に自然薯を掘る最中に、土まみれになってしまっているらしい。さっきまで父親と対面してたのに、父親は何も言ってくれなかった…。
真琴は恥ずかしさのあまり、何も言葉が返せず、代りに顔が真っ赤になった。
「うちのお風呂、お父さんの力作。岩風呂なのよ。温泉じゃないけど、山の湧き水を沸かしてるの」
「…えっ!岩風呂?」
自分の家に岩風呂があるなんて、庶民の真琴の感覚からすると嘘みたいだった。
「と言っても、いつもは使わないんだけど、お客さんが来た時は特別なのよ。母屋に置いてるキャリーケースは持って来てあげとくから」
母親はそう言って、真琴を岩風呂に案内してくれた。
屋敷の裏手から景色が見渡せるところに、手作りらしい建物があり、脱衣所とその奥に、本物の岩風呂がある。
その岩風呂の本格的な様に、真琴は目を見張る。
こんなものまで作ってしまうなんて、古庄の父親は、本当に計り知れない人だった。
母親が母屋に戻り、真琴は戸惑ったけれども、体中に被ってしまった土を落とさないことには、手伝いもできない。
真琴は先に手早く頭と体を洗い、それから、岩でできた立派な浴槽に身を沈めた。
朝から電車を乗り継いで、駅からは歩いて、そして山では大きな穴を掘って…疲れた体は優しいお湯の中でホッと息を吐いているのに、心はまだ奥底に固まる緊張で解放できない。
そんな不思議な気分で、真琴は目の前に広がるのどかな田園風景を眺めた。
先ほどまで大空を覆っていた真っ赤な夕焼けは、次第に紫を帯びて、遠く連なる丘陵がその中に浮かび上がる。
――こんな景色の中でのびのびと育った人だから、あんなに大らかで優しい人になったんだろうな…
真琴は愛しい古庄に思いを馳せた。
古庄を思い出すと、心がほっと温かくほぐれるのと同時に、募る想いで切なく疼いてくる。今朝会ったばかりなのに、会いたくてしょうがなくなってくる。
この岩風呂だって、この前旅館に行った時のように、古庄と一緒に入れたなら、どんなに安らげるだろう…。
古庄の優しい家族に囲まれて、どんなに親切にされていても、ただ一人、古庄が傍にいないだけでこんなにも寂しい。
ジワリと真琴の目が潤んできた時、脱衣所への引き戸がガラリと開いた。
「………!!」
瞬時に涙は引っ込み、真琴はとっさに胸元を押さえた。