神々しい人 Ⅰ
するとその時、こののどかな景色の片隅で、小さなエンジン音が響いた。
人の気配を感じることができ、真琴は藁にもすがるような気持ちで、音の源を探す。誰か人がいれば、古庄の家のことを訊けるかもしれない。
視界の隅、この道の行く先の方の田んぼで、何か動くものが確認できる。
真琴は涙を拭い、キャリーケースの取っ手を取ると、その“動くもの”に向かって一目散に歩き出した。
近づくにつれて、それは稲狩りをする機械だということに気が付いた。(その農機が、「バインダ」というものだとは、当然真琴は知らない。)
真琴のいる道の方に背を向けて、そのバインダを歩いて押しながら稲刈りをする人物に、真琴は機械の音に負けないよう、大声を張り上げる。
「すみませーん。ちょっとお尋ねしたいんですが!」
しかし、やはり機械の音が大きすぎるのか、それとも初めから人気などないと思い込んでいるからか、作業をするその人物は一向に気が付いてくれない。
真琴はどんどん遠ざかっていく人物に声をかけるのを諦めて、畑の向こう端からUターンしてくるのを待つことにした。
こんな山間部で農作業をしているのは、年配の人間が多い印象があったが、その人物は細身でスラリと背も高く、比較的若い人みたいだ。
その若者が畑の中ほどまで戻ってきた時に、
「お仕事中、すみません」
と、もう一度声をかけたら、今度は気づいてくれたらしく、バインダのエンジンを止めてこちらへ歩いてきてくれた。
「この辺に、古庄さんという方のお家は…ありま……せんか…?」
そう尋ねながら真琴は、言葉さえままならなくなった。
マスクを外しながらこちらへ来るその若者に目がくぎ付けになり、息が止まって、身動きもとれなくなる。
農作業をするつなぎ姿には似つかわしくない、この世のものとは思えないほど完璧で端正な容姿――。
古庄も同じように形容できるかもしれないけれども、この若者は古庄よりも神々しくて、人間ではないみたいだった。
見かけることのないよそ者の真琴を、若者はじっと訝しそうに見つめる。
その視線を受けて、真琴は体中の血液が沸騰しそうになった。
「この辺の古庄は、私の家だけだが……あんたは?」
「…っあ、あのっ!…わ、わ、私はっ……」
緊張のあまり、真琴は例のごとくどもってしまう。
「…さては、また和彦の追っかけか?ここ数年は見かけなかったけど…」
と、ますます不審な目でじろじろと眺め回されて身がすくみ、真琴は何も言葉を返せずに口をパクパクさせた。
「どっちにしろ、和彦はここにはいないよ。無駄足だったな」
そう言い残すと、若者はくるりと背を向けて、再び農作業に戻ろうとした。
でも、この若者は「古庄」という家の人間で、古庄のことも知っているらしい。もっと詳しく話を聞く必要がある。そう思った真琴は、思い切ってその背中に言葉を投げかけた。
「あの…!私は、和彦さんの妻です!古庄真琴って言います!!」
若者はそれを聞いて、弾かれたように立ち止まった。そして、ますます怪しそうな表情をして振り返る。
「……また、そんな願望を……。くだらない妄想に付き合ってる暇はないんだよ」
そんな冷たい返答に真琴はひるみそうになったが、勇気を振り絞った。
「…ほ、本当です!!…そ、そうだ。これ、保険証があります!」
と、財布の中から、自分の保険証を急いで取り出して、水戸黄門の印籠のように掲げて見せた。
そこには「古庄真琴」と、真琴の本名が記されてある。これは同僚たちには、決して見られてはならない物だった。