無知と化物の恋心
「――――」
人影の無い商店街の路地裏で、目を持たない怪物が動き出した。
「――――」
彼は何も言わない。カタカタと小気味良い音を立てて、剥き出しになった骨を伝いに立ち上がる。大体一メートルの背を伸ばし、隙間から見えるオレンジ色の太陽を見上げた。
「――――」
きっと彼が、心を持っていたのなら、この景色に感動しただろうか?
きっと彼が、何かを思うことができたなら――
彼は何も知らない。
「え…… ?」
見付けた『捕食対象』に向かって、飛び出した。その歯は柔らかい肉によく食い込み、一介の路地を赤色に染め上げた。次第に、血と肉が混じり合った匂いが立ち篭める。
声も聞こえない彼には、必死で生きようとするモノの叫びも、聞こえなかった。
「――――」
彼は何も知らない―― 自分も、またその一つである。
血の池が報道されたのは翌日の夕方になってからだった。既に血は乾き、噎せ返る様な腐臭でその商店街を賑わせていた。
彼は、新しく手に入れた骨を組み合わせて、此処でよく見かける生物の形を作り上げた。ただ、肉だけはどうしても付けられなかったので骨格だけである。
「――――」
あの生物達の様に、決まった動きをする骨を動かしてみた。コトコトと、小気味の良い音がした。
「―― あ」
骨の音が響いていたのか、彼には分からなかったが、背面に『捕食対象』が立っていることには気がついていた。
「え? い、いやっ――」
必死で逃げようとするソレを、彼は当然の様に追いかける。疲労を感じない彼にとって、ソレを捕らえることは、何ら難しい事ではなかった。
「いやああッ――」
大きく開いた骨の門に、ソレを入れ込んだ。
だが―― ソレはあろう事か、昨日のアレの様に血肉をぶち撒けて散乱することはなかった。
「あうッ」
彼の体が、それを可しとしなかった。捕食を免れたソレは、彼の体の中を通り抜け、頭を地面にぶつけていた。
「――――」
彼は何も知らないはずなのだけれど、ソレを取り込む気には、なれなかったようだった。
「うぅ…… はっ!?」
新田心が目覚めたのは、月が眩しい深夜零時。夕方には多数押し寄せていた野次馬や報道陣達も、この時間になれば、外灯も少ないこの通りに残るわけにはいかないだろう。
晩夏の虫が鳴いていた。廃れたコンクリートに隙間に生えた僅かな緑色に、儚いその一生を捧げる歌を歌っていた。風が心地良い夜だった。彼女は僅かに照らされた足元をよく注意しながら、帰路に着いた。
背後からカタコトカタコトと、硬い物が地面を打つ様な、小気味の良い音がした。彼女は戦慄し、進めていた足も動かなくなり、食道、こめかみ、そして全身の筋肉が縛られている感覚に陥った。
彼女が振り向く術は無い。ただ、カタコトカタコトと、続けて鳴り響く骨の様な音に怯えながら、その体を硬直させ続ける他ないのだ。
「あぅ… ぐっ――」
吐きそうになるのを我慢して、足を踏み出そうと、自分の足元を見た。
―― 見覚えのある剥き出しの骨が、もうそこまで来ていた。
「―― !」
彼女は理性を捨て、本能で振り返った。先程よりも、青みがかった色をした骸骨が、そこに立っていた。何人もの人間の骨を組み合わせ、最早人という原型を留めていないが、彼女の目には、不思議と、人が重なって見えた。
だが、彼女には分からない。彼が何をするつもりなのか分からない。目を持たない顔面に、肉を持たないその体に、ただただ恐怖を覚えるだけだった。
彼女の意識で、一体どれだけの時間が流れただろうか―― その瞬間に、彼女の緊張は爆ぜた。骨と骨が擦れ合う、小気味の良い音を立て、彼は動いた。肉を持たない彼の手は、ゆっくりと、ゆっくりと、心の方へと近づいていき、彼女はそれをじっと見ていた。
指先が唇に触れ、鼻、頬、瞼、額と順に、確かめるような動きをした後に、彼の左手は、恐怖で真っ青になった彼女を慰める様に、静かに撫でた。
「…… ?」
彼が招待したのは、廃墟も寸前の、窓ガラスも無い殺風景な部屋で、大きな穴が開いたベッドに、彼は腰掛けていた。心は、その独特な空間に圧倒されながら、家族が自分を心配しているのではないか、と思っていた。
「あ、あの……」
彼女が発した言葉に、彼は反応した。数々の人間を取り込んできた彼には、いつの間にか、音に反応する器官が備わったようだ。
彼女の言葉に応じる様に、骨がぶつかり合う、小気味の良い音を出して、彼女の方に顔面を向ける。それだけで心は恐怖を覚えるのだが、彼にはまだ分からないようだった。
「わ、私ね、そろそろ、家に、帰らなくちゃいけないんだけど…」
目を逸らしながら言う心の言葉に、彼は少し戸惑った。
言葉は、それなりに覚えた。けれど、言葉を通して分かる内面の意味が、まだ分かっていなかった。
「……… ?」
首を傾げる動作をした彼に驚いたように、心は声を上げる。
「こ、言葉が分かるの…… ?」 恐る恐るの疑問だったが、彼は頷いてみせた。
「…… あの血の池事件も、その後に立て続けに起こった失踪事件も… 貴方がやったの?」
彼の人間性に嵌ってしまった彼女は、ついこんなことを聞いてしまったが、気付いた時にはもう、彼が思考の動作に入った後だった。
「あ、ごめん! 気を悪くしたなら謝るよ!」
機嫌を損ねて殺されないよう、慌てて取り繕う彼女を、彼は驚いた様に見つめていた。
「…………」
『あの血の池事件』や『失踪事件』も、彼が他の『捕食対象』を捉えた時に覚えた言葉の一つだった。だから彼には、彼女の言葉が理解できた。その中に、疑いや不安が含まれていることには、気づいていないけれど。
頷いてみせた彼の行動に、彼女は驚いた風な表情をしていたが、次第に、納得した顔に変わっていった。
「……… 貴方は、何者なの?」
単純な興味からの質問だった。その問には、すぐに反応できた彼は、心に近づいてその手を取り、手のひらに、何かを書き始めた。
―― 自分の名前が何なのかさえも分からなかった彼だったが、知恵と力を身につけていくに従って、その不理解も段々と、数を減らしていた。
「…… 『江』… 『G』… 『O』」
江・G・O―― 彼女はそれをすぐに翻訳してみせた。
「『エゴ』… ?」
彼女の口から発せられる二文字の響きは、確かに彼という個体を象徴した『名前』であった。
彼は彼女の声を感じ取り、ふわふわとした心地になった。それが何なのか、彼にはわからなかったから、彼は彼女の手を離して、ドアを指差した。
「…… 帰ってもいいの?」と弱々しい声で言う心。
先程に、彼女が『帰りたい』と思っていたことに気が付いた彼は、その行為に出た。彼女はすごすごと立ち上がり、二、三度振り返りながら、不思議な顔をして帰っていった。
彼は彼女の足音が聞こえなくなった頃、部屋の隅に生えた植物を見ていた。その草に彼は、自らを投影していた。心に芽生えた何かが、この草に見えた。
―― 彼が彼女に出会ってから、『捕食対象』と見做して取り込んだ物は、成人男性9人、雌雄合わせて猫4匹、鰯2匹、コンクリート700g、電気を少々と、蛍光灯を2本。
その全てを、空っぽのはずの彼の体の中で、ぐちゃぐちゃにかき混ぜて出来上がったのが、彼の今だった。
―― その全ての行為は、『捕食対象』ではない何かとして捉えてしまった一人の人間の為に行われたものであり、けれど彼は、まだその事に気がついていないのだった。
彼にとって、この物語は、一人の女性に恋をする物語だ。
「あ……」
彼女が高校から帰宅する為の道の中腹に、例の商店街があった。あれから一週間経った今でも、彼女はその瞬間達を覚えていた。骸骨の化物―― 『エゴ』は、自分に何かを語りかけようとしていたのか、ずっとそればかりが気になって、授業もまともに集中する事が出来ていなかった。
ちょうど、彼が招待してくれた部屋のある建物の前を通った時、見覚えのある青色が見えた。
彼女は無意識の内に、自転車のブレーキをかけた。
カタカタ、と小気味の良い音がした。『エゴ』が、心なしか嬉しそうな身振りで、そこに立っていた。
その時に出会った彼は、どこから盗ってきたのか、1枚の茶色をした大きな布を羽織り、遠目からは顔面しか見られないような姿になっていた。
「………」
彼女はその姿に恐怖を覚えることはなく、自然と、それが当たり前であるかのように、彼の後を付いていった。
その人工的な足音に、彼の心は、少しだけ宙に浮いていた。
「貴方は何者なの?」
すっかり安心しきった様子の彼女を見て、少しだけ安堵するエゴは、その問いにほんの少し戸惑った。何故か―― 知らないからだ。
首を横に振る事で、『分からない』を伝えた。彼女にも伝わった様だ。
「じゃあ、エゴ、貴方は何故、あんな事をしたの?」
その目は、多くの批難を孕んでいた。突然の事に、彼は驚いた。
「貴方が何者か、分からないけど、人を殺すのは駄目だよ」
今度は彼女が、悲しげな表情を浮かべてそう言った。エゴは慌てた。
彼は、部屋の隅から、両手で掬い上げられる程度の砂を持って来た。それを心の前に優しく置き、脇に挟んでおいた木の枝で、文字を書いた。
『きみと はなしたかった』
恐る恐ると言った表情(分からないけど)で、彼女の顔を見上げるエゴ。だが彼女は、「それで私のご機嫌を取ってどうするの?」と、顔を赤くして震えていた。
「私と話す為に何人もの人を殺したって言うの!? ふざけないで!」
柔らかい肉の掌が、エゴの硬い骨の頬を打った。鈍い音が、二人だけの部屋の中で響いた。
「それで許されることじゃないわ! 人を殺すって言うのは、そんなに簡単にやっていいことじゃないのよ!」
激昂した彼女の口からは、まるでダムが決壊したかの様に、あらゆる批難の言葉が吐き出され続けた。エゴは見上げた姿勢から少しも動くことが出来ずに、ただただ呆然と、涙を流しながらエゴを睨みつけ、怒りに震える彼女を見つめていた。
「ああっ…… もう、嫌」涙が溢れて、その場に座り込んでしまった心の心情は、どこまでも複雑だった。
エゴは、静かに右手を動かし、彼女の頭を撫でようとしたが、軽く跳ねられてしまった。エゴはまだ知識が足りないことを悟り、一人、この部屋から出て行った。
「……… ああ」
心は、一人、いつの間にか部屋を照らしていた月を見て、ただ一言だけ、ぽつりと呟いた。
「パパ ――」
新田心は、新田紗奈と新田恒太朗の間に生まれた第一子だった。
まだ若い紗奈と恒太朗は、子育てに四苦八苦しながらも、その苦しみさえ幸せだと感じられる、家族の愛の中で生きていた。
恒太朗は忙しい男だった。心が紗奈一人でも世話が出来る程度に成長するや否や、世界各地へと飛び回り、その場所での高い地位の人のご機嫌を取り、適当な頃合を見て帰ってくる。心が思う恒太朗はこういう人物だった。
顔を合わせない日が長引けば長引くほど、夫婦間の壁や、親子間の壁が高くなり、次第に心は、父を尊敬しなくなっていた。母が病気で苦しみながら料理を作っている時も、また、自分が病気で死ぬ思いをしている時にも、父は二人の前に現れなかった。
父が帰ってくる日は、母は幸せを感じながらその用意をするが、心はいつしか、自分の部屋に篭もりきりになってしまっていた。父が部屋を訪ねて来れば、部屋のドアを開けて話をする事はあった。けれどその機会もまちまちになっていくに連れ、父も娘の事が分からなくなっていた。
そうして出来た壁は、言葉の裏側で蛇の様に蠢き、相手に対し抱く思いを、毒々しく豹変させていく。
だから心は、父の事をあまり好いてはいなかった。父への尊敬も、あまりしていなかった。
そんな中、二週間前に、父からの電話を取ったのは心自身だった。
父は、「俺の誕生日だからって無理を言って帰してもらったんだ。一緒に贅沢しような。母さんには内緒だ」と悪戯な笑いを思い浮かべられる声で、心に言った。その少年の様な声に、心は、好いてもいないはずの父の帰りが待ち遠しくなり、予定日前にも部屋に篭らず、なるべくリビングで母と一緒に過ごしていた。
「先日夕方、○○商店街の路地裏で発見された死体は――」
そんなニュースが流れたのは、予定日当日の予定時刻三十分前の事だった。
後日、付近に散らばっていた衣服の中から出た指紋や頭髪により、遺体が『新田恒太朗』と言う人物であるという事が確定された。
瞬間―― 彼女の世界は崩れ始めた。
好きでもなかった父が死んだこと。その事実が、何とも言えないドロドロとした気味の悪いものになって、心に被さっていた。
「――――」
その化物を見た時、彼女は何を思ったのだろうか。
彼女にとって、この物語は、父親の愛を探し続ける物語だ。
「…………」
夜道をふらふらと、自転車を引きながら歩いている心の目は、赤く腫れていた。虚ろな目の色は、何も見ていないような、そんな眼差しだった。
深夜の大海の真ん中で、いつ沈むかも分からない程の脆い船に揺らされて、心はどこか自暴自棄になっていた。
「…………」
空を見上げるのにも、首の力がもったいない。
彼女は何ら意識せず、ただ帰るべき家へと足を進めていた。
彼女の意識が、今のこの刹那に引き戻されたのは、耳を劈くブレーキ音の所為だった。
目の中の水晶を貫く程の強烈な光。足を動かすことを許さない地響き。
普段はこんな大型車両、通らない筈なのに――
考える暇など無かった。
何でもないある日の真夜中に―― 彼女の体は宙を舞った。
中秋の強い風が、彼女の部屋の窓を叩いた。
白い、清潔で、それでいて殺風景な部屋だった。彼女は痛みを感じる前に、空を見た。
空気が乾いているのだろうか、雲一つない、すっきりとした青空だった。
午前十一時。あれからどれくらい経っただろうか。
彼女は全身の痛みに気付いた後、その身を捩らせた目の前にある新聞に気を取られた。やっとの思いで手に取る。
在り来りな政治の話や、スポーツ、芸能の話が退屈そうに並べられている。だが、脇に置いてあった見出しに、彼女が気付くまで、そう時間は掛からなかった
その内容は、○○商店街 ―― またもや何者かの死体発見か。
九月十九日午後九時頃、○○商店街にて事故を起こした、との通報があり、駆けつけた警察官によると、大型トラックの運転ミスにより、現在意識不明の少女一人をはねたと言う三十代前半の男が、その場で少女を抱き抱えていた、という。
付近には、人間の物と思われる不審な骨が散乱しており、少女の手には、その中の一つだけが握られていた。警察は、男を自動車運転過失致死傷の疑いで取り調べをすると共に、散乱していた骨の身元特定を急いでいる―― 云々の事が書いてあった。
彼女は呆然として、すぐに、次に積まれてあった新聞を手に取った。体の痛みなど、最早どこかへと消え去ってしまっていた。
十部程積まれていたが、彼女がはねられた、という関連の記事は無く、最後の一部に手を伸ばした時、日付が大幅に跳んでいる事に気がついた。
その中に、不審骨の身元判明云々という記事があった。そこに―― 九月十九日、○○商店街にて起きた事故で、付近に散乱していた不審骨の身元が全て判明した―― 云々の事が書いてあった。
彼女は、そこに連なっていた名前の中、『新田恒太朗』の五文字が載っていた事に、小さな溜息を漏らした。
トラックに正面からはねられて無事な女子校生なんて居ない。
―― パパが助けてくれた?
彼女は新聞を元にあった場所に戻し、もう一度、秋空を見上げた。
―― それとも――
彼女は目を閉じる。そして起こしていた体をもう一度ベッドに預けて、天井を見た。
視界の端に、何か青い物が見えた気がした。
彼女はそれをしっかりと見る事はせず、彼に送るべき言葉を探していた。
冬の始まりを告げる、窓に大きなモヤが掛かる頃、彼女は青空の下、病院を出た。
耳の裏を掠める冬の風は、ずっと部屋に篭もりきりだった彼女にとっては、不思議と心地の良い物だった。
帰りの、母の運転する車の中から、あの商店街を眺めていた。
もう誰も見向きもしない、この寂れた商店街の一角に佇む、あの部屋。
今でも思い出せば、カタコトカタコトと、小気味の良い音が聞こえてくる。
―― あれから、少しだけ考えていた。
彼は、何者だったのだろう。そんな事を。
結論として出たのは、簡単に言うなら、新田恒太朗の娘として考えるなら、父が助けてくれた、と考えたい。また、新田心として考えるのなら―― 純粋に。
―― この先を考えると泣けてくるのは、きっとそういう事だからだろう。
だから、彼女が彼に贈るべき言葉は、まだ見つかっていない。
彼の事を思う。父の事を思う。同じ『何か』でも、その形はそれぞれで―― 何か一つとして限定されるものはない。
「あの夜の不思議な出会いも、以前に聞いた父の悪戯な声も、彼に対しての止めどない憤りと、秋空の元で感じた喪失感は、きっと全部、同じ言葉で表現出来る物なんだ」
彼女は、父としての行動であって欲しいと思う中で――
彼の単純な恋心による行動であって欲しいと、幼心の中で思っているだろうか。
もしそうならば、彼はどこかで、幸せに笑っているだろう。
三人にとって、この物語とは、恋と愛に気付く物語だ。