暴竜は瑠璃の騎士に愛を乞う
「選べ。自ら俺のモンになるか、無理やり奪われて俺のモンになるか。どっちにしろ、アンタには俺のモンになるしか選択肢はねぇ。」
カトレアは困惑顔で、自身を壁に追い込んだ青年を見ていた。
青年の人間らしかぬ、鋭く瞳孔の割れた琥珀の瞳に映るのは、困惑している自身の顔。
はて、これはどういう状況なのか。
やはり、彼の先輩であり自身の同期が言ったことは、冗談ではなかったということしか、カトレアの頭には浮かばなかった。
◆ ◆ ◆
「どうしたのさ、顔がやつれてるよ。」
「それがさぁ、聞いてくれよ。オレのとこに新人が入って来たんだって。」
「それはよかったじゃないか。」
ここは騎士たちが剣を振るい、馬に跨る鍛練場と呼ばれるところだ。
他の騎士たちが鍛錬に勤しむ中、階段に座り込んで剣の手入れをするのが二人。
カトレア・バートレットとジュードだった。
カトレアは女性で十九という若さでありながら、その腕を買った女王によって、一代限りの貴族である騎士爵を与えられている、優秀な騎士だ。
また、深い藍色の髪と瞳から、宝石の瑠璃にも例えられている。
「いや、それがよくないんだよ。竜の男だぜ?」
「君だって竜の男だ。文句を言わずに、先輩として振舞ってやればいいのに。」
「いやいや、これがまたやんちゃ坊主でさぁ。まぁ、そんなに可愛げがあるものじゃないんだけど。」
同期であるジュードもまた、竜と呼ばれる人ならざる存在だ。
しかし、ここエストレージャ王国では、竜という存在であれどいくらかの制約を守れば、人間のように戸籍を取得して暮らすことが可能であり、実際にそうしている竜もいる。
数は少ないが、竜が騎士団に入団してくるのもさして珍しいことではないため、そう驚くことでもない。
そうして入団してきた竜は、同じ竜である騎士の下につくのがほとんどだ。
「一匹狼っての?そう言えば聞こえはいいけどな。とにかく傍若無人な男なんだよ。」
「へぇー。まぁ、これだけ人数がいれば、中にはそういうのもいるでしょ。」
仕方ない、とばかりに考えることを放棄したカトレアに、ジュードが拳を握って震えた。
「すっごい他人事だな。」
「他人だしね。」
「じゃあ、お前にも紹介してやるよ。あのやんちゃ坊主。」
「は……?」
そう言うなり、ジュードはカトレアの返答など聞かず、その場を去った。
その後ろ姿を見送りつつ、カトレアは手入れ中の剣を片手に溜息を零す。しかし、彼の姿が見えなくなると、その視線は手元の剣へと移された。
その数日後。
ジュードは宣言通り、横に不機嫌な表情を露わにした青年を連れて、カトレアの前に現れた。
竜であるため、その容姿は端麗だ。陽に透けるような白金の髪も、切れ長の琥珀の瞳も。眉を顰めていてもなお、その冷艶さは損なわれていない。
竜は総じて容姿端麗だが、彼を見て改めてそう思った。
とはいえ、カトレアはそういったものに全く興味をそそられないため、それ以上思うことはないのだが。
「で、彼と会わせて何がしたいの、君は。」
青年からジュードに視線を移して、カトレアは困惑したように目を細めた。
しかし、そんなカトレアにもジュードは普段の態度を崩さない。
「コイツの名前はキースだ。」
「うん。」
「一応、オレの後輩だが、正直オレよりも強い。」
「うん―――は?」
「まぁ、周りからは天才だか、何だか言われてるしな。」
(それってどうなの……)
あっさりと認めてしまうジュードに呆れたような視線を送り、溜息を吐いても、ジュードは気にも止めない。
それどころか、まるで自身のことのように自慢する姿は、何とも言い難かった。
「うん……まぁ、強いのはいいことだと思うよ。この騎士団で地位を築こうと思うならね。地位があって強い男なら、竜でも人間でも関係なく貴族の令嬢たちにモテるし。女なんて選り取りみどりさ。」
「興味ねぇ。」
「あ、そう。」
独り言のつもりだったのだが、以外にも彼は不機嫌な声音ではあるが、短い返答を返してきた。
そんな予想外のことにも、カトレアは何事もなかったかのように口を開く。
確かにジュードの言う通り、口も態度も悪く、ついでに目付きも良くない。が、そんなことは男ばかりの騎士団で生活するカトレアにとってはほんの些細なことだった。
まぁ、強いて言うならば、目上の者に対する礼儀や何たらであるが、カトレア自身もそこまで徹底しているわけではないので、良しとする。
「じゃあ、わたしは見回りがあるから。君も頑張って、ジュード。ある程度、暴れ馬の手綱は握るように。」
そう言い残して、カトレアは彼らに背を向けた。
二対の瞳が自身の背を捉えていることに気付きながらも、彼らを振り返ることはなかった。
◆ ◆ ◆
「あぁー、お腹が空いた。調理場に潜り込んだら、何かあるかな……?」
空腹を知らせる腹部から聞こえてくる鈍い音に、カトレアは溜息を零しながら、寮の調理場へと足を進めた。
本当に今日はついていない。
朝から今まで仕事の山だったのだ。外回りならいいのだが、大量の書類整理だけは本当に止めてほしい。
調理場に近付いたそのとき、不意に甘い匂いが漂っていることに気付き、カトレアは首を傾げた。
本来、まだ勤務時間だ。大抵はこの時間帯の調理場は無人なのだが、誰かいるのだろうか。
そんな疑問から、カトレアは重い調理場の扉を開いた。
「………………」
「………………」
二つの視線が交わる。
互いの姿を視界に映したまま固まり、辺りに沈黙が降り立ってどれくらいの時間が経っただろうか。
唐突にカトレアは口を開いた。
「君、何しているの?」
「……見てわかんねぇのかよ。」
「わたしの目には、君がお菓子作りしているように見えるんだけどなぁ。」
そのカトレアの言葉通り、目の前に広がるのはタルトの盛り付けをしているのだろう、キースの姿。
カトレアに向けられる視線は相変わらず鋭く、不機嫌そうな表情ではあるが、彼の手の中にある苺がそれを和らげている気がするのは気のせいではない。
あまりに予想外の状況に、カトレアは目を瞬かせた。
似合わない、と笑ってはいけない。
「それ、美味しそうだね。」
既にカトレアの視線はキースではなく、その手元のタルトに向いていた。
空腹のカトレアには食べ物は全部美味しそうに見えるのだが、彼が作ったらしいタルトは一際美味しそうだった。
まさか、彼にこんな趣味があろうとは。
だがしかし、とりあえずは空腹をどうにかしなければならない。
そう思い、カトレアは冷蔵庫を開けた。あまり料理はしないのだが、背に腹は代えられない。料理人がいない今、自分で作るしかないのだ。
溜息が漏れそうになるのを堪えて、カトレアは何を作ろうかと頭を抱える。
そのとき、またもやカトレアの腹が空腹を訴えるように音を鳴らした。
「アンタ、腹減ってんのか?」
「さっきの音がそう聞こえたのなら、そうなんじゃないかな。」
「……チッ。」
舌打ちが聞こえたが、そんなことは気にしない。
すると冷蔵庫を物色していたカトレアに、少し乱暴気味に皿に乗ったタルトが差し出された。
「……これは?」
「食えよ。こんなところで飢え死にされたんじゃ、寝覚めわりぃだろーが。」
「いや、別に死にはしないと思うけど。」
「ゴチャゴチャ言ってないでとっとと食え。オラ。」
そう言って押し付けられた皿を受け取ったカトレアだったが、あまりの意外性に固まったままだ。
言葉も態度も粗野だが、お菓子作りの腕だけは別物らしい。
「じゃあ、いただきます。ありがとう、えーっと……キース?」
確かそんな名前だったはずだ。
頭の片隅に残っていた記憶を無理やり引きずり出しながら、カトレアは曖昧に笑ってみせる。
しかし、当の本人はカトレアを一瞥しただけで、また視線を手元に移した。
そのことに苦笑を漏らすと、カトレアは調理場を出ると食堂へ行き、適当に座ってフォークを手にする。
それにしても器用だ。
カトレアは、騎士であった叔父を尊敬し、幼い頃から剣術の稽古にばかり精を出していたため、家庭方面には疎い。とはいえ、出来ないことはないのだが、それは生活に困らない程度で、婚前の女性としては致命的だ。
「……美味しい。」
口に中に入れると、ふんわりととろけるような舌触りに、カトレアは思わず口を開いた。
女であるカトレアを気遣って、知り合いたちからお菓子類を貰うことがあるが、その中でも群を抜いて美味しかった。これを作ったのが、ジュードが手を焼いているあのキースだというから驚きだ。
食べ終わり、もう一度礼を言おうとしたが、既にキースは調理場を去っており、調理場はもぬけの殻だった。
「いない。まぁ、いいか。どうせ、その内会うだろうし。」
そう言って、口角を上げたカトレアの表情は楽しげなものだった。
まるで、興味深いおもちゃを見つけた子供のような表情に、離れたキースの背筋に冷や汗が伝ったのは気のせいではないだろう。
カトレアは笑みを浮かべたまま、執務に戻ろうと寮を後にした。
翌日。
朝から、カトレアはジュードと共にいるキースを見つけるなり、彼らに近付いた。
真っ先に自身に気付いたジュードを通り越して、キースの傍まで駆け寄ったカトレアに、ようやくキースは視線を彼女に移す。やはりと言うべきか、彼の眉間には皺が寄っていた。
「何、カトレア、コイツに何か用でもあったのか?」
「いや、特にこれといった用事はないよ。」
そう言いながらも、カトレアの視線はキースで固定されている。
意味もなく凝視されて、キースも居心地が悪そうに更に眉を顰めるが、カトレアは気にも止めていない。
しかし、それも束の間。カトレアは彼から視線を外し、ジュードに向き直った。
今日の外回りがジュードと同じスケジュールなのだ。
それだけ告げて、カトレアは他の同僚に呼ばれたため、彼らに背を向けた。
キースの鋭い琥珀の眼光に捉えられていることも知らずに。
それからというもの。
カトレアはキースを見つけるなり、何かと絡むようになったのだ。調理場での一件以降、キースに興味を移したカトレアの行動は素早いもので、放浪癖のあるキースでさえも回避することは出来なかったらしい。
そうして今日も執務を終わらしたカトレアはキースを見つけるなり、窓から飛び降り、彼の前に着地した。
「またアンタかよ。いい加減、うぜぇって思われてんの分かんねーの?」
「わかってるよ。でも、そんな些細なことは気にしない。だって、面白い君自身に問題があると思うし。」
「俺が面白いとか、目おかしいんじゃね?」
今ではこんな軽口を叩く仲にまでなった。
確かに彼は、同僚たちの言う通り、騎士としての腕だけは確かだが、誰に対しても口も態度も目付きも悪い、いわゆる不良というもので、カトレアの他に彼に近付くのはジュードくらいしかいない。
他の竜たちでさえも、群を抜いて凶暴性が高いキースに関わるのは避けて通っているのだ。
そんなキースに好んで近付く人間として、カトレアは変に有名になっていた。
「なぁ、バートレット。アイツに近付いて平気なわけ?アイツって極度の潔癖症だろ?」
稽古の休憩の合間に、同僚が小さな声で話しかけてくる。
カトレアは額や頬を伝う汗を拭いながら、彼に視線を向けた。
「アイツ?」
「キースだよ、キース。この間も、上司に何か言われてブチ切れてたらしいぜ。危うく半殺しにしかけてたんだとよ。」
「へーえ、やっぱり面白いね。」
「は?」
「どうせ上司って言ったら、あのハゲでしょ?わたしも、あの人苦手なんだよねー。」
よくやった、とカトレアはキースに向けて心の中で盛大な拍手を送る。
しかし、そんなカトレアとは裏腹に、同僚は嘘だろと言わんばかりの微妙な顔を貼り付けていた。
そんな同僚の表情に、カトレアは苦笑を漏らすしかなかった。
いいのだ。彼の面白さは自分だけが知っていれば。
――――――――――――――
「おい、どうしたんだよ―――って、あれは、カトレア?」
不意に隣から消えたと思えば、立ち止まって一点に視線を固定しているキースに、ジュードは訝しげに見遣りながらも、そちらに視線を移した。その先には、同僚の男と会話に花を咲かせているのだろうカトレアの姿。
彼女は誰にでもあの態度であるため、同僚たちも気兼ねなくなく接することが出来るのだろう。
そのため、彼女は比較的、誰とでも仲が良い。
「何だ?嫉妬かぁ~?」
「………………」
茶化すような響きで問いかけられても、キースは何も言わない。
勿論、ジュードもそんなことは予想済みだ。ここで肯定されることなど、頭の片隅にも無い。
この暴竜は、他人になど興味のきょの字も無いのだから。
「ほら、行くぞ。スケジュールぎっしりなんだからよ。」
そう言いながらジュードが歩き出しても、キースがついてくる気配は無かった。
何をそんなに見ているんだ。
深い溜息を零しながら、ジュードは彼の方を振り向いた。
そして、目を見開くことになる。
「……何やってんだ、お前は。」
額に手を当て、呆れたように呟くジュード。
彼の目に映ったのは、無表情で唇を強く噛むキースの姿だった。
別に唇を噛むことには何も思わない。しかし、ものには限度があるだろう。
キースの薄い唇はその牙を穿たれ、顎を伝って服にまで血が染み込んでいた。おかげで軽く流血沙汰だ。
恐らくは無意識の内の行動なのだろう。確かに痛覚はあるはずなのだが、依然、キースの視線はカトレアで固定されており、呆れるジュードに向けられることはない。
「おーい。キース?」
「………………」
未だカトレアを見たままのキースに溜息を吐きながらも、さっさと任務に向かおうと彼の肩に手を伸ばした。
その瞬間、ジュードの手は渇いた音を立てて振り払われる。
そこでようやく、キースの視線はジュードに向けられていた。
「俺に触んな。」
ギロッと睨まれ、ジュードは苦笑と共に納得したように小さな声を漏らした。
そう言えば、キースはその凶暴さとは別に潔癖症でも有名である。
確かに、竜はあまり他人に触れられるのを好まない。しかし、キースのそれは特に顕著で、同族である竜たちでさえも眉を顰めるほどだった。
ジュードを睨むキースの唇の傷は既に塞がっており、血の跡だけが口元や服に染み付いている。
「何でもいいけどさ、とりあえずその血痕はどうにかしろよ。」
そう言って、ジュードはまた歩を進めだした。
キースがついてくる気配はなく、再び深い溜息を吐きながらジュードは執務へと戻った。
◆ ◆ ◆
「なーんか、最近やたらお見合いの話が来るんだよね。そろそろ鬱陶しいんだけど。」
「……そんな話、今初めて聞いたぞ。」
「初めて言ったからね。当然だと思うよ。」
確かに、そろそろカトレアは嫁ぎ遅れの年齢に入ろうとしていた。
実家はそこそこ財力を持つ交易商の一族であるが、兄と二人の姉妹たちがいる以上、家は放っておいても問題ないだろう。そもそも、一応カトレアは一代限りの貴族だ。彼らとは少し違う。
流石のカトレアも十九になって、やっと結婚の話を思い出したが、家庭を持った自分など想像出来ない。
にも関わらず、上司を通して自国だけでなく近隣諸国からも結婚の申し出が届いているのだ。
これには、カトレアでなくとも溜息を吐きたくなる。
「何、お前、結婚するの?」
「さぁね。」
はぐらかすように軽い言葉。
しかし、それで引き下がるジュードではない。その顔に笑みを貼り付けて、彼は口を開いた。
「じゃあ、キースにしとけば?」
「……何で、そうなるのさ。彼はそういう対象ではないよ。君だって分かってるでしょ。」
「人間の男よりは、竜の雄の方がずっと優良物件だと思うけどな。誰よりも大切にしてくれるぜ?」
「まぁ、君を見ていたら分かる気もするよ。君のディアナさん溺愛はうざいくらいだからね。」
ディアナは、騎士寮でキッチンを任されている女性だ。彼らと同じ竜で、ジュードの番だが、何かとカトレアを気にかけてくれている。どうやら妹のように感じてくれているらしかった。
いつもはお淑やかな女性だが、カトレアの恋愛のこととなると多少強引になる人だ。
「って話が逸れたけどさ、キースもお前のこと気に入ってるっぽいし。」
「思いっきりうざがられているけどね。」
「……それ、自分で言って悲しくね?」
「面白いからいいんだよ。内心で見下しておきながら、媚びへつらう奴らよりよっぽどいい。」
「ならいいじゃん。」
気楽なジュードに思わず溜息が漏れる。
「何で、そんなにキースを推すのさ。彼は竜だ。わたしは彼の伴侶には成りえないよ。というか、そんなこと考えたこともない。」
「ふーん。……まぁ、もう逃せないだろうけどな。」
「は?」
「お前はキースのお気に入りだ。気に入った女を雄竜は逃がしはしない。」
ジュードの言葉にカトレアは首を傾げた。
どこに彼に気に入られる要素があったと言うのだろうか。これまでの記憶を遡っても、彼の嫌そうな顔しか浮かばない。そう疑問を感じながらも、カトレアはこの話を半ば強制的に終わらせた。
「ほら、書類も片付いたし、昼食に行こうよ。ディアナさんにも会えるしね。」
「ああ、そうだな。」
そうして、二人は並んで食堂へと向かう。
話す内容は友人としてのものだったが、傍から見ればその雰囲気は男女のものに見えなくもない。そして、騎士たちの大半がジュードとディアナのことは知らないのだ。
カトレアからすれば彼らは鬱陶しいくらいにラブラブだが、それは本当に親しい人の前だけで、他の騎士たちの前では普通なのだから、普段から仲の良い二人のことを誤解している者も多い。
そして、不意に現れたこの男も例外に漏れなかった。
「………………」
「ん?キースどうした―――って、またかお前。」
もうジュードは呆れるしかなかった。彼の隣にいるカトレアも呆然とキースを見つめている。
そんな二人の反応も当然のことだった。
彼らの視線を受けるキースの表情はいつもと同じ、不機嫌そうな無表情だ。だが、薄い唇には牙が食い込み、口元どころかシャツまで赤く染めている。
唇を噛み締めるのは癖なのだろう。ジュードはそう納得して、隣のカトレアの背を押した。
「うわっ。何するのさ。」
「オレ、ディアナに用事があるから、コイツのこと頼むわ。」
「それはいいけど……。」
流石のカトレアも驚愕の表情を隠さないまま、しかし呆然とジュードの言葉に頷いた。
じゃあ、頼んだぜ。と言って去って行くジュードの背を疑問を露わにした視線で見送りながらも、カトレアは思い出したようにキースを振り返った。
既に牙が食い込んだ唇の傷は塞がっているが、襟元は血だらけだ。
「ほら、行こう。」
そう言って、カトレアは無意識にもキースの腕を取った。
その手はすぐに振り払われると思っていたカトレアだったが、彼女の予想とは裏腹にキースは振り払う素振りも見せず、大人しくついて来ている。
カトレアはふと思い出す。
暴竜。それがキースに付けられた別名だ。
しかし、カトレアはその名を体現するような荒々しい彼を見たことはなかった。
◆ ◆ ◆
「はい、脱いで。」
「は?」
キースの何言ってんだコイツ、という視線が突き刺さる。
個室に引っ張り込むなり、そう言ったのだから無理もないが、カトレアは今更キースの冷ややかな視線など気にしない。それどころか、無理やり服を剥ごうとさえしている。
「ジュードに聞いたよ。君、前も服を血みどろにしたんだって?何してたのさ。自傷癖でもあるわけ?」
「………………」
「まったく、ジュードはいちいち報告するみたいに君のことを話すんだから。」
「………………」
「……キース?」
さっきから一言も言葉を発しないキースに、カトレアは怪訝そうに首を傾げた。
確かに彼は饒舌な方ではないが、ここまで無言なのも珍しい。
どうしようか、とカトレアは小さく息を吐いた、その瞬間。
カトレアの細腕が引かれ、気付けば壁とキースの身体の間に挟まれていた。
手を動かそうとも強い力で掴まれ、微動だにすることが出来ない。男女の差をまざまざと見せつけられたような気がしたのは、決して気のせいなどではないだろう。
「……アンタ、あの男が好きなワケ?」
あの男。それは誰を指しているのだろうか。
そう考えている内にも、キースは酷薄に口元を歪めて見せた。琥珀の瞳がいつにも増して鋭い眼光を放ち、獰猛な視線がカトレアに向けられている。
「黙って聞いてりゃ、ジュードジュード。ああ、そういや……さっきも一緒にいたよなぁ?」
この状況は理解し難いが、キースが激昂していることだけは分かった。
鋭く割れた瞳孔、釣り上げられた柳眉、唸るような低い声。それらは、今までカトレアに向けられたことのないものだ。
恐怖は無い。しかし、突然の豹変に困惑が治まらなかった。
「まさか、あの男の番になりたいなんて言うんじゃねぇだろうな。」
「そんなわけないでしょ。ジュードにも言ったけど、わたしは竜の伴侶にはならないよ。」
カトレアがそう言った次の瞬間、キースは掴んでいたカトレアの腕を解放し、両の拳を壁に叩きつけた。
依然、カトレアがキースの腕が作る檻に捕らわれていることに変わりはない。
「ふざけんな。」
「………………」
「あれだけ俺に構っときながら、番のことなんか考えてないってか?じゃあ―――」
壁に叩きつけられた拳が静かに解かれ、カトレアの頬を滑り顎に触れる。
鈍く煌く琥珀の光は凶暴さを帯びて、しかしこれから起こることへの愉悦からなのか、どこか楽しげに細めていた。
思わず、カトレアの身体が強ばる。だが、表情だけは平然を装い、真っ直ぐとキースを見つめた。
「じゃあ、無理やりにでも俺のモノにしてやろうか?それで、晴れてアンタは俺の花嫁だ。」
「……え?」
「選ばせてやるよ。」
キースの端整な顔が近付く。
「選べ。自ら俺のモンになるか、無理やり奪われて俺のモンになるか。どっちにしろ、アンタには俺のモンになるしか選択肢はねぇ。」
そして冒頭に至る。
表情は平然を貼り付けていようとも、カトレアの頭の中には、ただただ混乱しかなかった。
何がどうなってこの状況なのだろうか。
そもそもキースは人間、竜を問わず、他人が嫌いな潔癖症で有名なのだ。カトレア自身も、それは日々嫌そうな顔を向けられて経験済みであるため、既に理解している。
暴力を行使するほど嫌われてはいないだろうが、だからと言って好かれる要素も無い。
そんなキースの口から、まさか“花嫁”という言葉を聞くとは思わなかった。
「わ、わたしには、お見合いがあるんだけどなー……」
ほとんど無意識にも、受けるつもりのないお見合いの話が口から滑る。
しかしその言葉は、この場を切り抜けるどころか、キースの感情を逆撫でするのに十分なものだった。
再び尖った瞳がギラギラと鋭利な光を宿す。
「へぇ、で?誰なんだよ。アンタの返答次第ではその男、数日後にはいねぇだろうなぁ。」
そう愉快そうに言うキース。いつもの不機嫌そうな無表情が嘘のようだ。
どう返答しても逃げ場が見えない。カトレアはごくりと息を呑んだ。
―――彼女が好きなのか、と。そう問われれば、キースははっきりとした答えは出ないだろう。
だが、自身が傍にいるのを許したのは今までで彼女だけだ。
因縁をつけてくる奴らは皆殺しにし、媚びる女たちも血溜まりに沈めてでも遠ざけた。
カトレアは恐る恐るキースの頬に手を伸ばす。しかし、キースはそれを避けることなく、静かに受け入れた。
他人嫌いのキースからすれば、他人に触れられることなど嫌悪感しかないだろう。
それでもカトレアの体温を邪魔だとは思わなかった。それどこか、心地よく感じているのだから不思議だ。
やはり、目の前の娘は自分が無意識にも求めた番だというのか。
彼女が欲しいと思う。
だからこそ許せなかった。この体温が、この微笑みが、この娘が、いずれ自分から離れていくのが。
どんな手を使ってでも、例え無理やりに奪ってでも、己に縛り付けてしまおうと思ったのだ。
「……おい、何とか言ったらどうだ?」
「………………お、」
「?」
「お断りする!」
若干震える声色でそう叫ぶなり、カトレアはさっと身体を屈めると、素早くキースの腕から抜け出す。
そして、キースに一瞬視線をやるとそのまま部屋を後にし、走り去って行った。
あまりにも機敏な動きに反応が遅れたキースは、珍しく呆けたように彼女の後ろ姿を見送るしかなかった。
◆ ◆ ◆
その翌日。
カトレアは辺りを伺いながら出勤して来た。
どこか挙動不審なその様子にジュードだけでなく、他の同僚たちも首を傾げたが、それを言葉にする者はいない。
「やあ、ジュード。ご機嫌も麗しそうで何よりだ。」
「そう言うお前は、何か疲れてるな。夜勤だったっけ?」
「違うよ。でも、色々考えてたら眠れなかったんだ。結局、一睡もせずに朝が来てしまったじゃないか。」
「まぁ、たまにはそんなこともあるだろ。」
何かあったのだろう。それも高確率でキースと。
そこまで予想していたが、彼女が自分から話出したら聞くとしよう。そう思い、ジュードは剣の手入れを始めた。
そんなジュードに倣うように、カトレアも剣の手入れをしようと彼の近くに腰掛ける。
「……おい。」
「ひいぃぃぃ!?」
不意に頭上から聞こえた低い声に、カトレアは幽霊を見たような情けない声は発した。否、幽霊だったらどれだけ良かっただろうか。
振り向いた先にいたのは、幽霊などではなく、何となく顔を合わせづらいと思って避けていたつもりのキースだ。カトレアの真後ろに立ち、その視線は隣のジュードなどどうでもいいと言わんばかりに、カトレアで固定されている。
「……な、何かな?」
「アンタ、あれで逃げたつもりかよ。どうせ今日になったら嫌でも会うだろうが。」
「本当に何があったんだ?お前ら。」
「アンタは黙って見てろ。それか消えろ。」
仮にも上司への態度とは思えない口調で、切り捨てるようにキースは言った。
「一応、聞いておいてやるよ。アンタが俺のモンになるのかどうか。」
「は?」
唐突に言い放たれた言葉に、カトレアは呆然とした声を漏らした。
思わず、カトレアは昨日のことを思い出す。その瞬間、カトレアの表情は怪訝そうなものへと変わった。
「聞こえなかったのかな。わたしはお断りする、って言ったはずなんだけど。」
「おいおい、お前……竜の求愛をそんな軽く断ったのかよ。」
「君はちょっと黙ってて。」
途中に口を挟んでくるジュードに、一言放てば渋々といった様子で口を噤む。
それを横目で見遣りながらも、カトレアは困ったという表情を零した。
そう、あのとき確かに断ったはずなのだ。そして、それは彼にも聞こえていたはずなのに。とは言っても、あの場はそのまま言い逃げという形で去ったため、彼の表情までは伺い知れなかったが。
あくまでも、いつもの態度を取り続けるカトレアに、キースはニィと極悪な笑みを浮かべて見せた。
「ああ、断ってもいいんだぜ。」
「……いいんだ?」
意外そうに目を丸くするカトレアに、ただし、とキースは言葉を続ける。
「そのときは、アンタを三日三晩犯して孕ませて、既成事実を作るだけだからな。」
「お前、それはちょっと過激すぎるだろ。未来の花嫁なんだ。もう少し優しくしてやれよ。」
「フン、どうせ優しくしても手に入らないんだろ。だったら追い詰めて奪ってでも、俺のモンにする。」
「随分、強行突破だな。」
「何言ってんだ。モタモタしてたら、他の野郎に奪われるだろうが。」
当事者を置いて進む会話に、カトレアはその成り行きを見守ることしか出来なかった。
とてもではないが、口を挟める雰囲気ではない。というよりも、彼らの視線を集めることはしたくない。
ところどころ危険な発言も聞こえるが、それは聞かなかったことにして、カトレアは彼らから視線を外した。
(……もう何も考えたくない。)
出来ることなら、今日は非番がよかった。
「おい、どこへ行く?」
そろそろと静かにこの場を去ろうとしていたカトレアに、キースはジュードから視線を移して問うた。
その声に、渋々といった様子でカトレアは振り向く。
「勤務だよ、勤務。わたしはこれから外回りなの。じゃあ、また後で。」
こんな不穏な雰囲気の中に長居したいとは思わない。
丁度それらしい理由があるのだし、さっさと退散することにする。
ここに足を運んだときとは正反対の輝く笑顔を浮かべて、カトレアは今度こそこの場を後にした。
キースの視線が背中に痛いほど突き刺さっているのを感じながら。
彼らの視界から外れる角を曲がると、カトレアはいきなり早足になる。
「本当にどうしよう。」
廊下には靴音とカトレアの困りきった呟きだけが響く。
もうここまで来ると、本当に逃げ道が無いような気がしてきたのは気のせいではないだろう。
何となく、カトレアは窓の外を見上げた。空はカトレアの心情とは裏腹に、清々しいほどに青天だ。
解決策を見つけようと、とりあえずカトレアは同僚や他の竜たちの元へ向かうのだった。
こうしている間にも、知らず知らずの内に崖っぷちまで追い込まれ、彼の番になってしまうのは遠い話ではない。