「時と間」
友人が暴露話があるというのでわざわざ休日出勤で遊びにでてやった。
おおよそ予想はしていたのだがやはり碌な話ではなく、「暴露」は価値観が共通していない限り成立しないと痛感させられた。
もう学校には居ない、先輩の話だった。
一昨日ゲームを久しぶりにやった。
3ヶ月前買って少しやったきりで放置していたものだ。
ストーリーが内在する文字列を目で追う。
ボタン操作で敵を倒す。単純だ。
そう言えばこのシリーズは僕が高1のときに初めて売り出され、その後1年ごとにある程度の売り上げで続編が出ている。
キャラクターの年齢が自分と重なった。
課題図書で夏目漱石が出されたのはいつか。
ライトノベルに衝撃を受けたのは。
読書家気取りで文学に手を出したのは。
部活に入り、辞めたのはいつか。
彼女に出会い、見惚れて追い始めたのは。
友人と客観・主観について哲学したのは。
僕は、今、部屋の、ベッドに、「ある」。
人として。思考として。「僕」として。
僕の周囲の時間は僕から見るとまるで、そこに留まっているかのように、僕の傍で笑うかのように、動かない。これは主観か。
他人を見る。先輩は卒業した。貴方たちとは2年間の付き合いでしたね。短くも充実していました。短い?短い。これは客観か。
相対性理論は理解していないし、恐らく関係ない。が知らず知らずのうちに僕にも適用されているのだろうか。
ベッドの上はまるで固定された風景なのに、壁に掛かった時計はグルグルと針を回している。
両親は寝たらしい。兄弟も。
彼らの今日は終わりだろう。
僕の今日はベッドに。
主観か。客観か。今は今日、明日、昨日。
誰かが話してくれた。現代文だったか。
時間とは悠久的なものである。それの区切り方はその人次第だ。時間は流れるだけだ。
流れる。
区切る。
僕と同じ時間をベッドで過ごしてはくれないのだろうか。外は風が強いよ。だろう?
僕の時間は僕だ。
貴方の時間は貴方か。