なぜ「~。」はないのだろう?
文章のお約束、「」内、最後の句読点は要らない、というアレ。
自身の持つ最古の書籍は昭和14年刊行だったんで、もっと古い時代はどうか解からないが、この時点では句読点は無くなっていた。
しかし、かわりにおかしな事になっている部分もある。
文末の参考文献一覧のような部分で見られたのだが、
~~(「題名」)。
こういうマヌケな表記が散見された。なぜ、
~~。(「題名」) あるいは、 ~~(「題名」)
ではいけなかったんだろうか。よく解からない。
恐らくは、文章中で使える記号は「」のみだったのだ。
そこへ、その当時で斬新な()が登場し、少しばかり混乱したのだろう。
だから、こういう見た目のすっきりしないマヌケな表記が出てきた。
しかしながら、句読点が「」内で省かれた経緯はなんとなく解かったような気がする。
強調の意味合いで短文を抜き書きする時に「」が多用されていたからだろう。
つまり、「強調」するため、「短い文章で、抜きだす」時には句読点があるとイマイチ迫力に欠けるというか、インパクトが薄くなるわけだ。昔の書籍はそれこそ、()とかは特殊な場面でしか使っておらず、強調とか本文中で使える記号は「」だけだったようなのだ。
そのうちに、セリフなど長文を「」で閉じる際にまで句読点が省かれて、統一されたのではないかと推測できる。
だが、現代では強調などで使える記号や印字法は多種あるのだから、どうなのかな、というのが正直な感想だ。苦肉の策に過ぎなかった統一の名残りということだろうから。
かつて、本文中に使える記号は「」だけだった、という事ならばその後の「」内で句読点は無しにする方向で統一された、という事にも納得がいくわけだ。(「」内句読点をとやかく言うなら、本文中での記号使用にもとやかく言ってほしいものだが。)
昔の小説にはなるほど()も『』も無いんだよなぁ。(笑
まぁとにかく鬼の首を取ったように「~。」はダメというのを聞く度に、なぜダメかを調べてから言ってんのか、と反感買いまくりだったんだがちょっとすっきりした。(笑
実際は、昔むかぁしにはちゃんとあったモノであり、小学校の国語の授業でも文章末には句読点を付けなさい、てな事は当然と言われて続けているわけだよ。(大正時代の書物の一冊にはあったからね。←朧げな記憶で要確認)
沢山の書籍を当たってみたわけじゃないんで確たる事が言えないのが悔しいところだ。
なんで「」内だけ外すのか? その疑問をまず頭に思い浮かべないから、矛盾だらけの話を書くことになるんだよ、とか思ったり思わなんだり。(書き方講座じゃお約束の如く書かれてるよね。理由は触れずに。)
ギャル文字とか見ると解かるけど、日本語も文章表現も日々変化してくもんだから、これも変化の名残りなんだなぁ、とか思ってしみじみしたりして。
巻紙に筆で書いてた頃には句読点ってあったんだろうか? 古文書にそういうの見た覚えがないような気がするが、外国語とか入ってきてから影響受けたものだとすれば、そもそも英語文章における「」内はどうなってるんだろうか?
ピリオドとか言うんだよな、文章末の記号。
いずれ調べてみたい。
ちなみに、
「~~~~」こう言って「~~~~~~~~」。
こういう文章がかなり散見された。意味が解からんかったよ。
句読点の置き方に四苦八苦している、という感じが見受けられた。
アレだ、昔は台詞の意味での「」も、強調の意味と同義語だったんだろう。台詞ですよ、と強調する意味で「」を付けたと考えれば統一に向かったのも頷ける。そんで「」。になったのも。