第一話 ファースト・デイ
入学式の日、戸叶 弥生はトイレの個室に篭って頭を抱えていた。
“腹”ではなく、“頭”をである。個室に篭っているからと言って、腹痛で篭っている訳ではない。
そもそも……だ。
「本当に大丈夫ですか?」
「え゛っ? あ、は、はい。大丈夫です…………」
弥生は個室の向こう側から聞こえる声に弱々しくそう返事を返した。
それを相手の子は勘違いしたのだろう。かなり切羽詰ったような声で、
「でも、声に全然張りがないですけど……」
そう心配してくる。
「だ、大丈夫、だいじょうぶです!! 大丈夫だから……」
早くどこかに行ってくれー!!
そう叫びたい気持ちを弥生は押し殺した。
「私もあまり時間がないから、もう行かなくちゃいけませんが……、辛かったら保健室まで連れていきますよ?」
「は、はい!! そこまで心配してもらわなくても、大丈夫ですぅ!!」
不自然に高い声になる。
バレたら殺されるだけで済まないかもしれないだけに、弥生の額からは汗が滲んでいた。
「じゃあ、無理だって思ったら保健室まで行ってくださいね? 入学式に出れなくても、別に怒られる訳じゃないですから……」
「は、はい。ありがとうございます…………」
扉の向こう側から聞こえてくる声は男の声じゃない。男にしてはかなり高い声だ。
というか、扉の向こう側に立っているのは同年代少女であった。
少女が男子トイレに入っている……のではない。状況はその逆だ。
(な、なんで僕が女子トイレにぃぃぃぃ~!?)
ずっと身を心配してくれていた少女が扉の前を離れるのを感じながら、弥生はこうなった経緯を少しずつ思い返していくのだった……。
事の始まりは今から30分ほど前に遡る……。
その日、戸叶 弥生は少しだけ気分が良かった。
別に普段気分が悪いという訳ではない。
でも、その日だけはいつもに増して心が軽やかで、スキップをしたい気分に駆られていた。
その理由は簡単だ。
その日は彼の高校生活初日だったからである。
「うぅーん……ネクタイは歪んで……ない、よね?」
鏡の前に映る自分の姿を見ながら、ネクタイを調整する。
ブレザー型の服を着るのは初めてではないが、学校指定の制服を着るのは初めてのことだった。
緊張と興奮からか、小さく鼻歌を歌ってしまっている自分が像が目の前には作られている。
「よしっ」
大丈夫だな。
弥生は他人が見るとドキリとしてしまいそうな笑みを浮かべる。
男性的と言うよりは女性的な表情。線は細く柔らかな顔つきと、身長の低さでどうしても印象としては“少女”の印象が強い。
男子生徒用のブレザーに身を包んではいるが、ズボンまで見なければ彼が男子生徒であることは理解されないかもしれない(ネクタイも付けてるのにだ)。
彼自身はその事をあまり気にしていない。
どちらかと言えば、その身体的特徴をどうにかすることが出来ないからなのだ。本人は既に諦めの境地にすら達していた。
身体を鍛えることもした。が、見えない部分の筋肉が鍛えられただけで、外見が大きく変化することはなかった。
「ならば」と、多少肥満体型になれば良いという自棄糞じみた発想からいろんなものを食べまくったが……結局お腹を壊すだけだった。
まぁ、つまり何が言いたいのかというと。
彼、弥生が男らしくなることはこれまで一切無かったということだ。
「はぁ……」
落ち込まない訳が無い。
彼だって男の端くれだ。もっと男らしくなりたいと思うことだってあるに違いない。
「まぁ……いいか。その内男らしくなれるさ!」
自分はまだ15才と若い。
きっとその辺りが影響しているに違いない(童顔という意味で)。
歳を取ればもっと男性的に、そして理想の男へと変貌するに違いない!
そんな風に考えながら自分を慰めて、気持ちを保ってきた。いまだってそうやって心を保っている状態だった。
だが、この日、そんな少年の心を打ち砕くような出来事が待っていようとは、誰が想像できたというのか……。
「あ、もうこんな時間……。朝ごはんを食べてる時間がないや……でもなぁ……」
朝ごはんを抜くことは許されない。
そもそも、ご飯を抜くという発想が弥生はあまり好きではなかった。
「仕方ないか」
今朝の朝食はトースト。
銜えて行く事だって不可能ではないだろう。
まるで昔のラブコメみたいな状況に軽く可笑しさを感じながら、自分に限ってそんな展開あるはずもないだろうとどこか冷静につっこむ。
鏡の近くに置いておいた鞄を掴むと、パンをひと切れ手に取り、オーブンで数分間焼く。この待ち時間がカップ麺を待つのと等しく待ち遠しかった。
やがてチンッという子気味のよい音と同時にオーブンの中でパンが香ばしく焼きあがった。
「あちちち……」
アツアツのトーストをかじりながら、弥生は玄関から部屋を飛び出すのだった。
弥生が住んでいるマンションは高級マンションなんかではなく、どこにでもありそうな灰色の普通のマンションだった。
築10年程度。新しいとも古いとも言いにくい微妙な範囲だ。
階層は全部で8階と屋上。とは言っても、弥生の部屋は様々な理由から1階なのだが。
「……ん」
パンを銜え、自由になった片手でポッケから鍵を取り出す。無論部屋の鍵だ。
チリンチリンと鍵につけられたキーホルダーの鈴が鳴る。少し大きいキーホルダーだったが、鍵が無くしにくくなるため、弥生としては気に入っていた。
クルッと回して鍵をかけると、腕時計で時間を確認。
歩いては間に合わない。が、走るとかなり早く着いてしまいそうな、そんな時間。
(まぁ、でも初日だし、少し早いくらいでも別に問題ないよね)
という訳で、走っていくことに決定。
ポッケに鍵をしまい、あいた手でパンを掴んだ。
角のとれた真四角だったパンはかじった部分が半月型に抉れていた。縁は少しだけギザギザと歯型が出来てしまっている。
芸術的なかじり方……を考えようとして無意味だと判断。弥生は適当にパンに齧り付いた。
マンションを出ると、桜の花びらが弥生を出迎えてくれる。
マンションから学校までの路は桜並木になっており、学校に向かう者は誰もがその目を奪われる。
桃色の花びらが風に舞い、ヒラヒラと落ちてくる。多くの日本人が「風情があるなぁ」と感じる景色に弥生は若干眉を顰めながら桜並木を駆け抜けて行く。
この桜並木は学校まで続いている。
そもそも、この桜並木は過去の鈴桜高等学校の生徒会長達が作った並木道なのだから、学校まで続いてもなんら不思議はない。
(でも、僕はあまり桜が好きじゃないんだよなぁ……)
良い思い出がないから。
だから弥生は桜というものがあまり好きにはなれない。それは、この桜並木を見ても眉を顰める行動からも分かる事だろう。
でも、誰かに文句を言うほどの事ではない。
桜が嫌いなのは弥生本人の問題だし、多くの日本人は桜が好きなことを理解もしていた。
ただ、まぁ……、
「パンに桜の花びらが付くのはどうにもならないのかな……」
舞い散った桜の花びらが食パンにくっつくのだけはなんとかして欲しいと、そう思うのだった。
弥生のマンションから私立鈴桜高等学校までの道のりはそこまで遠いものではない。
やや坂道の桜並木を15分程度進んでいくと、その先にはやや大きめの学校の姿を捉えることができる。
白い塀で囲まれた白い校舎。校門というよりは城門と呼んでしまいそうな物々しい黒い門が印象的な校舎だ。
外から見る分にはそれぐらいしかわからない。校舎をぐるりと囲んでいる3mの白い塀のせいである。
この塀のせいで一部では“牢獄”などと揶揄されているそうだが、それも致し方ないことか。
鈴桜高等学校は内部の情報を外には基本的には漏らさないし漏らしてはならない。生徒は自宅からでも通うことが可能となっているが、内部状況の口外は禁止されている。口外した生徒がどうなったのかは知らないが、おそらく何らかの”オシオキ”は受けたかもしれない。
やがて、弥生はその門の前までやって来た。
門の高さは周りの塀と同じくらい。3m程度。一般人よりも少し大きいその門は遠目に見ては大きさがわからないかもしれないが、近づくとその大きさは嫌でも感じられてしまう。
まるで迫ってくるかのようだ。弥生は門を初めて見た時、そう感じた。
どうやらPTA辺りでもこの門の威圧感は度々議論の元になるようだ。やはり一般的な感性から考えても、その門は無骨過ぎた。
「鈴桜の学生ですか?」
門までたどり着いた弥生に立っていた警備員がそう聞いてくる。
機密保持のための措置としてこのように警備員が配置されているのだ。無論、朝に登校してくる全ての学生にこの質問をして居るわけではない。
基本的に朝は門が開放状態なので、警備員は開け放たれた門の傍に立って、不審人物が居ないかを確認している。この日はもうすでに門を閉めてしまっているため、そのタイミングでやって来た弥生に対して質問をしたに過ぎない。
弥生はカバンから生徒手帳と証明証を取り出すと、警備員に手渡した。
「戸叶……弥生……ですね。通っても大丈夫ですよ」
「ありがとうございます。……それにしても、門ってこんなに早くに閉まるんですか?」
弥生の思い違いでなければ、まだ入学式が始まるまでに時間がある。それなのに門を閉めてしまうというのもおかしな話だろう。
そんな弥生の質問に警備員は、
「いえ、入学式に入ってくる学生に扮して不審者が入ってくることもありますから、毎年早めに閉めているんです」
そう返した。
「それに、入学式に出席する学生は基本的に初日だからと早めに登校してくる生徒が多いですから」
「……ハハハ……」
警備員のその後に続いた言葉に弥生は苦笑いを返すことしかできない。
確かに言われてみれば警備員の言ったとおりだろう。
誰だって初日から遅刻することは嫌だろうし、もしかしたらこれから通うことになる学校をゆっくりと見て回りたいかもしれない。そう考えれば早くに登校してくることだって理解できる。
ただしその考えは弥生には当てはまらなかったようだが。
「ではどうぞ。入ってください」
「ありがとうございます」
ギギギギ……と、少しだけ開いた門の隙間を通って中に入っていく。
私立鈴桜高等学校に入るのはこれで三回目だった。
******
私立鈴桜高等学校はA県に建てられた高校である。
“私立”と謳ってはいるが、その実、この学校は国からの支援金によって成り立っている。
国が建設した学校ではないので、“国立”とは言われないが、それでも国からの大きな支援がこの学校の特徴とも言える。
その理由は“能力者”の存在だ。
この学校はただの教育のための学校ではない。鈴桜高等学校は“能力者”を育成するために作られた学校だった……。
「……、いつ来ても、無駄に広い学校だよねぇ……」
正面の門を通ると同時にすぐ目の前には建物の入口が出迎えてくる。ここは玄関だ。
昔ながらの下駄箱なんかは無い。この学校は全区域が土足で入ることができるため、上履きやスリッパなどの履物に履き替える必要は無いのだ。
玄関から中に入ると、すぐに右(東校舎)と左(西校舎)に道が分かれる。
この校舎を空から見れば「凹」の形をしている。右側は研究室や、職員室、特別科目室等、授業やその他に必要な教室や部屋がそろえられている。逆に、左側には一般教室や、部活に使う部室、更衣室なんかが用意されていたはずだ。尚、中央はそのままガラス張りになっており、外の様子を伺うことができる。
玄関と左右の校舎に囲まれた一角は運動場のようになっており、ここで実習の授業や、放課後に運動部が部活動に励んでいるのだろう。
少し離れた場所にもう二つ施設があるが、今回は割愛する。
「んーっと、僕の教室はっと……」
そんな目の前のガラス張りの壁(?)にはクラス分けが書かれている。
弥生は自分の名前を細々とした字の中から探し出す。
「A組……か……」
鈴桜は別段成績でクラスが分けられているわけではない。AだろうがBだろうが、Gだろうが、そこに大差は存在しない。
ただし、成績が出来るだけ平均的になるようにという措置は取られている。これはただ単に出来る者をクラスを均等に振り分け、出来ない者も同じようにクラスを均等に分けているだけだ。そこには教師やその他の誰かの思惑が絡んでいるということはない。ただ……。
「ん……? 戸叶……?」
A組の弥生よりも一つ上の出席番号。
そこに書かれていた苗字も確かに“戸叶”であった。
(戸叶なんてそんなにいっぱいいるような苗字だったかなぁ……? そうでもなかったような気がするんだけど……)
弥生の人生の中で自分以外の「戸叶」に出会ったことは一度もない。どこにでもあるような苗字……という訳ではないはずだが。
それでも、気にすることはないだろう。
きっと戸叶という苗字だって他にもどこかにいるはずだ。
チクッと胸が痛んだ気がしたが、弥生はそう思い込むことによって痛みを押さえ込んだ。
(とにかく、もう時間もないし、早くA組にいかないと……)
もう式の5分前位だろう。
そろそろ行かなければ、初日から遅刻扱いになってしまう。
――――が、やはりどうしても気になってしまう。
左の校舎に向かおうとして、チラリとクラス分けの書かれた紙を見てみる。
そこに書いてある名前は、弥生の名前とそれから……。
(戸叶 葉月? ――ハズキ――その名、どこかで――)
どこかで聞いた覚えがある。
そんな事を思い出そうとした弥生はズギリッという音を耳で聞いたような錯覚を受けた。
「ぐぅ……!?」
鋭い痛み。
全身をまるで虫が這いめぐるかのように痛みが巡る。
頭、首、胸、腕、腹部、足。全てに焼けるような痛みが走った。
不意に、痛みに耐えようと身体を抱きしめた。特にその行動に意味があるわけではなかった。
ただ、痛みに頭も身体も耐え切れそうになかったから、咄嗟にそんな行動をとってしまったに過ぎない。
そんな姿を。
ひとりの少女は見つけてしまったのである。
「ちょっと、あなた、大丈夫ですか――!?」
それは弥生にとって余りにも不幸な事だった……。
その日、端宮 香緒里が学校の廊下を歩いていたのには訳があった。
とは言ってもそこまで特殊な「訳」ではない。彼女は生徒会長として、今日入学してくる1年生に祝辞を述べなければならないだけだ。
入学式なので他の上級生は今日はいない。が、彼女以外にも何人かの生徒会役員も学校には来ている。廊下を歩いていたのは……まぁ、スピーチをする前の気晴らしと言ったところだ。
彼女はいつもハキハキとして、スピーチも緊張など感じさせないかのように溌溂と行なっている。周りから見れば、彼女は人前に立って、演説をするのが得意なのだと思っても仕方がないだろう。が、彼女自身も自覚はしているが、彼女はスピーチはそんなに得意ではない。むしろ苦手分野だ。
そもそも、彼女は緊張に対してあまり強くはない。男性のようにお腹を壊してしまうほどに過敏性というわけではないのだが、それでも皆が思う以上には緊張に弱かった。
だからこその気晴らしだ。
彼女は数十分もすれば訪れるであろう自分の出番を無理やり忘れるように校舎を徘徊していた。
(……もう生徒は居ないようですね……)
既に入学式まで10分を切っている。当たり前か。
廊下を進む途中、見知った教師やあまり面識のない教師とすれ違う際に小さく会釈をする。生徒会長として、それ以上に目上に対する礼儀として、会釈をすることに慣れてしまっていた。
東校舎の三階から一階へ。
東校舎には主に教職員の使う部屋が多いが、実は生徒会室もこの東校舎に作られていた。
教室からは遠いのでやや不便だが、歴代の生徒会長も使用していた由緒正しい部屋だ。香緒里から文句を言う事もできないだろう。
下まで降りてから、香緒里は体育館を目指すために玄関を横切った。
実際は玄関を経由しなくても良いのだが、新入生の教室の前を通るのは、はばかられた。理由はただそれだけで、深い意味があったわけではない。のだが……。
「……っ!」
そこに、一人の生徒が苦しそうにしているのを香緒里は目撃してしまう。
痛みを押さえつけるかのように身体を押さえつけ、やや長い髪からは表情は伺えないが、苦悶の声が聞こえてくる。
彼女の真面目な正義心がその生徒を助けるようにと働きかけた。
「ちょっと、あなた、大丈夫ですか――!?」
あまり大声にならない程度に。そう声を抑えたつもりだったが、予想以上に焦っていた香緒里は声を荒らげてしまう。
その声にビクッと反応したかと思うと、その生徒は香緒里の方を向き直った。
「あ……いえ……」
やや長めの髪。中性的と言われそうな顔つきと今は苦しそうだが、優しげな顔。
焦っていた香緒里は咄嗟にその生徒を女だと思い込んでしまった。
「体調が悪いんですか? 保健室に行きます?」
「あ……あぅ……いえ、ちょっとお腹が痛くなっただけなので、大丈夫です……」
こんな時間に廊下を歩いているのだ、香緒里はその生徒が1年生であると当たりを付けた。
それに間違いは無い。それ自体に間違いはなかったのだが……、香緒里は弥生に対してもっと大切な事を勘違いしていた。
「あっ、おトイレの場所が判らないのですね? それならば私が連れていってあげます」
「え゛っ? い、いえ、別に……」
「遠慮はしなくてもいいですよ。私は気にしません」
僕が気にします。という弥生の心の声は香緒里には届くはずも無く。
かなり無理やり腕をつかまれ、トイレまで連行される。余りにもお節介な行為ではあったが、香緒里としては当然の行動だった。
しかしまぁ、問題はそのトイレだった……。
「えっ……あ、あの、そっちは違――――」
「さぁ。トイレはここです。個室は好きに使ってくださって構いません」
ズルズルと女子トイレに引きずり込まれていく弥生。
何故か女子生徒の香緒里の力に抗う事が出来ない。まるで身体に力が入らないのだ。
「だからそっちじゃなくて……、あの、僕はこんな見た目ですけど、おとk……」
「個室はここです。――って、大丈夫ですか? 額から凄い量の汗が滲んできていますが……」
「だ、だ、だ、だいじょうぶですぅぅぅぅぅ~!!!!!」
これ以上は自らの精神が崩壊する。
男子トイレとは違う芳香剤の仄かな香りと、女子トイレという事実に軽く目眩を感じながら、個室に弥生は駆け込んだ。
今更ここ以外に逃げ道は無かった。彼は男としての色々大切なものを捨てたのだった。
こうして弥生は男から見れば英雄、女から見れば変態の烙印を押されてしまいそうな女子トイレへの侵入を果たすのであった……。本人が望んでいるかどうかは別として。
「……はぁ……」
お節介な女子生徒がトイレを出ていく気配を感じながら弥生は重たい溜息を吐いた。
その表情はそれこそ本当に病人のような表情であった。どうやら極限の精神状態が本当に弥生に不調をもたらしてしまったのかもしれない。その顔は死相が出ていると診断されてもおかしくはないだろう。
(ていうか、誰かに見られる前にさっさとここから出たほうがいいよね……?)
全くそのとおりです。
今はまだ入学式間近ということもあり、廊下に人は少ない。が、もしも入学式が終わってしまえば、廊下には新入生の影が多くなってしまう。
もしかすると、そのまま女子生徒がこの女子トイレを利用する可能性もあるのではないだろうか。それはマズイ。何がマズイって、本当に色々とマズイ。
「よし……そうなれば、戦略的撤退だ!」
ゆっくりと個室の扉を開き、女子トイレ内に誰もいない事を確認。
甘い芳香剤の匂いが弥生の脳を溶かしそうだったが、それをグッと我慢。ここは女子トイレではない何かであると脳に偽情報を送信しておく。
そうして心を強く保った弥生は個室からゆっくりと飛び出た。
次は同じように女子トイレから出てこなければならない。ここが一番の大勝負だ。
さすがに女子トイレから出てくるところを目撃されては言い訳のしようも無い。そのまま逮捕、補導、停学の連続コンボを決められてしまうかもしれない(やましいことは無いので、停学にはならないと思うが)。
扉をゆっくりと開き、個室から出るときと同じように左右を確認する。
右を確認。
「右よぉーし」
左を確認。
「左よぉーし」
大丈夫だ、問題ない。
左右に敵影は確認されなかった。これならば問題ないだろう。
そんな弥生の油断を神様……もしくは悪魔というのは許さなかったらしい。
女子トイレの扉を開き、一歩廊下に飛び出たと同時。それは一瞬の差が生んだ悲劇の一歩。
弥生にはまるでスローモーションのように、東側の校舎から一人の女子生徒が曲がり角を曲がってこちらに向かってくるのを捉えた。と、同時に、その少女と目が合ってしまった。
「…………えっ?」
少女の驚いたようなつぶやき声は誰もいない廊下によく響いた。
そのせいか、そこそこ距離があるというのに、少女の驚き声が弥生の耳まで届く。
(泣きたい……)
弥生は女子トイレから飛び出した格好のままで、少女は眼を丸くさせながらひどく驚いて。弥生の後ろで女子トイレの扉がバタンと音を立てながら閉じた。
それは二人の間の時間を動かすのに十分すぎる音だった。
「あぁ、いや、これは……その、消しゴムが……」
消しゴムが女子トイレに入っていったから拾いに行ったんだ!
言い訳としては三流のような言い訳をしながら、弥生は自らの行いの正当性を語ろうとしていた。女子トイレに入っている時点で正当性も何もないのだが。
だが、そんな弥生の言い訳が聞こえているのか聞こえていないのか。
少女は弥生の姿を驚きの表情で見つめながら、
「……お兄ちゃん……?」
と、小さく呟いたのだった。
この物語は「ドタバタシリアスラブホラーアクションコメディ」です。
嘘です。