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「フリーサイドの急進派なんて、実は少ないぜ」
とシェン・リーは金色の液体を飲み干した。かつて健康主義者と文化擁護者たちの対立を抑え、一応の妥協点として提示された疑似アルコール溶液は、ビールといわれる古い時代の酒に加工されてシェン・リーの持つグラスに注がれている。蒸留酒であってもカクテルの類も、すべて疑似アルコールで作られ、それは本来の意味でのアルコールとは一線を画する。決して体内に蓄積されず、瞬時に分解され、体に与える影響は皆無。酔う感覚は微々たるものの、酒類としての用途は果たす。まさに、「夢の飲料」――そんなキャッチコピーを思い出す。
シェン・リーのグラスはもう三杯目だったが、私はというと杯を舐めるように飲んでいるので、まだグラス半分しか進まない。
「急進派って、そもそもがその時代の少数派なんだから当たり前だろう」
私が言うのに、シェン・リーはグラスの酒を一気に飲み下した。
「そうだが、けれど世間ではそう思われていないみたくてな。フリーサイドは理想郷である、ってそういう考えが主流であるって思われてるらしくて」
「しかし大半は慎重派なのだろう」
私はようやく、疑似アルコールのビールを飲み終えた。バーカウンターの横にあるパネルに触れると注文画面が投影され、少し青みがかったスクリーンが空間に描かれた。清廉さと静けさ、格調高い空間を演出するという名目で、店内は寒色系の調度品に統一されている。それにあわせて、ナノボットも全て青系統の色合いでもって投射される。
「中産階級なんかをあわせると、そうだな。だが富裕層ともなれば、そうでもない。この世のあらゆるものを手に入れたような人間が、次のステージにねらいを定めるのがフリーサイドだ。そういう人間が率先してフリーサイドを目指す」
「ルカの両親は、特に富裕層というわけではないようだけど」
「もちろん、中産階級にいないってことはない。というか、富裕層がこぞってフリーサイドを目指している。そういう奴らが、フリーサイドは理想郷だ、って宣伝するわけだ。そうすると、少なからずそれを信じてフリーサイドに行く人間が増える。違法業者が減らないのもそのためだ。連中、どれだけ取り締まっても志願者がいる限りは活動し続けるよ。それならばいっそ規制緩和しちまおうってことで、急進派というかフリーサイド推進派が勢いづくって、つまりそういう寸法だ」
シェン・リーは少し酔っているように見えた。普段から饒舌であることを誇りにしている彼が、酒を口にすればより饒舌になる。本物のアルコールが追放されてから、脳を麻痺させるほどの酔いとは経験し得ないものとなっていたが、シェン・リーにはそれは当てはまらないらしい。
「少し飲み過ぎたか」
私が言うと、シェン・リーは嘲笑じみて笑う。
「飲み過ぎたところで体に何の負荷もかけない。飲み過ぎたって、こんなものはただの液体だ」
「そうだが、何だか様子がおかしいからさ」
「気にすんなって、いつものことだ。明日からまた一ダース分の更正プログラムを打ち込まなきゃならないんだ、ちょっとぐらい発散してもいいだろう」
その発言は、ストレスをため込むということが無い人間には不自然であったが、私はもう訂正してやろうという気はなく、カクテルを傾けた。
店を出て、メインストリートに至る。空中で描かれる、ナノボットに投影されたアナログのオクロックと、広告ビジョンが出迎え、ビルの合間で瞬き、変化し、金色の格子が形を変えて白色の文字が赤紫へ、青緑と白銀に縁取られた画面がTVCMを写し、三次元投射されたネットアイドルを浮かび上がらせる。アメジストじみた破片が飛び散って、また収束し、複雑な螺旋を描き出すのを見ながら私たちは通りを横切った。
「ところで、話は変わるけどユーリ」
シェン・リーが何かに気づいたように道の向かい側を見やる。私も同じ方向を向くと、派手に着飾った女達とスーツ姿のホワイトカラーに混じって、明らかに場違いと言える格好をした人間を目にする。研究者然とした白衣を羽織り、胸のプレートに生化学研究所のロゴマークが刻まれていた。
「メイニー・ジェーン」
情報を取る必要はない。昼間の一悶着の後に顔を合わせて以来、何となく覚えていた。
「知り合いかい」
「そういうわけじゃないが。しかしこんなところで何をしているんだ」
「プライベートな詮索はなしだぜ、ユーリ」
若い女性が一人でこんなところに来るのには訳があるはずだから、あまり口を出すなというところだろうが、それにしても彼女の姿はあまりにも場所にそぐわない。仕事が終わったそのままの格好で、こんな所に来るだろうか。
メイニー・ジェーンの姿が人垣の向こうに消えた。殆ど人波にさらわれたような印象だった。
「すまん、シェン・リー。今日はここまでだ」
「ここまで、ってどういう――」
シェン・リーが訊くのにも答えず、私は信号が変わるのを受けてすぐに大通りを走った。後ろからシェン・リーが声をかけるのにも振り向かない。なぜか胸騒ぎがして、このまま見失うことが躊躇われた。
人波を押し分け、路地裏に入った。メイニー・ジェーンが消えた辺りを、拡張視野を使って探す。すぐにメイニー・ジェーンの生体分子から発せられる情報が、倫理ネットを介して飛び込んできた。
いきなりの警告表示。私ではない、メイニー・ジェーンの信号だった。出血の過多を示すエラーコード、不思議に思っていると足下を野外用の清掃ロボットが駆け抜けた。もう一台、足の間をすり抜けるのに、私は足を取られそうになる。また一台、アスファルトごと削り取りそうな固いブラシを回転させながら、わざわざ狭い路地裏に集結する。
同胞とも言えるTX社の清掃ロボットたちが、ビルの谷間に数台群がっていた。よほど大量のゴミが投棄されなければあり得ない量だった。円盤たちが、奥の方でしきりにビープ音を慣らし、地面をブラシで削り、行き来している。その円盤たちの真ん中に、黒々とした影が横たわっているのが見えた。
近づいた。いきなり血の匂いがした。むせ返りそうになりながら、円盤たちをよけつつ、影の正体を見た。果たして、研究所の白衣と胸のプレートを見、長い髪が血の中に沈んでいるのがわかる。血の出所は首筋、その人物が握っているガラス片が致命傷になったらしい。透明な欠片が血で黒く染まっている。まるで胎児のように体を丸めた姿。
すっかり生命活動を停止した、メイニー・ジェーンの亡骸が、そこにあった。
今までは都市の外に出奔する程度だったが、それすらも未然に防がれていた。それが、本当に自殺者を出したとなれば、当然騒ぎにもなる。自殺が禁止されたカトリック全盛の中世ほどでなくとも、都市の中で自殺者が出ることがどれほどこの倫理的な都市機構であり得ないことなのか。まして、倫理院直属の研究施設に属するスタッフが死んだとなれば、それが何を意味するのか。
今まで通りとはゆかなくなる、それは明らかだった。
都市警に通報して、その瞬間に倫理ネットに私の感覚――恐怖よりもまずは驚愕、続いて疑念。悲哀は殆ど無い――が伝わり、周囲の通行人にも伝播してしまったらしい。メインストリートはパニックになってしまった。そのぐらいで取り乱すのならば、実際に死体を見たらショック死するのではないかと思ったが、さすがにその辺りの配慮はされていたらしく、都市警が駆けつけるとすぐに現場付近が封鎖され人々が決して死体を見ないように配慮された。
私はというと第一発見者ということで、当然あれこれ訊かれるだろうと覚悟していたが、そうでもなかった。都市警の一人――若い警官だ――が近づき、私に告げた。
「あなたが、見かけたのですね?」
尋問するようではなく、丁寧な応対だった。警察などはそれだけでも暴力装置としての性格を帯びているため、市民に対する態度は特に威圧的にならないよう、徹底的に教育されている。
「偶然ですよ。私が来たときには既に」
「ええ、わかります」
何が「わかる」というのか疑問だったが、彼は特に説明せずに続けた。専門の機関でPTSDの検診を受け、場合によっては脳神経プログラムを導入した方が良い、この件についてはあなたの身の潔白はすでに証明されているから、気に病むことはありません、等々。相手も拡張視野を持っているのだから、私がそのプログラムを作る側だということが分かっているはずなのだが、そのようなことはおくびにも出さない。教育がしっかりされている証拠とも言える。
簡単なデータの交換と、やりとりだけでその日は終わった。第一発見者なのだからもう少し拘束されるかと思ったが、拍子抜けするほどあっさりと帰された。とはいて、もし何かしらの事件性があれば後々呼び出されるのだろうとは思えた。