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所員の服装、建物の内壁、外観に至るまですべて白を基調とする研究所内では、かなり目立つ格好をしている。黒いスーツの女性が目の前に立っていた。実際はナノボットに投影された虚像であり、オンラインの映像に過ぎないのだが、実際に目の前にいるとそこにいて、立っている、という表現の方が当てはまりそうだ。
女性の胸元に光る徽章が、如実に語っていた。ハーブの葉と翼、平和と協調を表す人権委員会のロゴマークが燦然と輝く。自らがルールであるというような自信に満ちた視線、その目が私たちの方を向くのに時間はかからない。
「わざわざ視察ご苦労様なことですね」
いきなりソフィーヤが仕掛けた。自ら仕掛けることでこちらの不利を打開しようとい意図すら見える。
女性が薄く微笑んだ。網膜の拡張視野が、金色の線形と文字列を弾き出し、女性についての情報を提示した。レイラ・アードニーという名が提示され、人権委員会のシアトル支部在籍であることを報せる。拡張視野の情報は、プライベートなこと――家族構成、趣味嗜好、ブラッドタイプ――以外のことは粗方表示されるのだから、自己紹介の必要がない。
「オンラインといっても、倫理ネットの接続を切らないのはポリシーですか」
ソフィーヤが言うのに、彼女――レイラ・アードニーは薄ら笑いを浮かべた。
「そうね。今思えば、でも切っておいても良かったかもしれないわ。そのためにスタッフが一人倒れたから」
拡張視野に、また通信が入った。ソフィーヤからのプライベートメッセージ。曰く、「イヤな奴」と。
「ここのシステムは万全だと思っていたから、当然あんなことになるとは思っていなかったけど」
「万全なシステムというものはなかなかないものですよ、委員」
傍らのストラウスが多少呆れたような視線を送る。万全であることが、この研究所には常に求められることであると、そのように訴えかけるかのようだったが、ソフィーヤはお構いなしに続ける。
「患者は自傷癖がある、ということは分かっていたことでしたが、ここの所員には伝わりづらいところがありました。人が自ら命を絶つ、絶ちうるということを現実のものとして受け止められない。その理解があれば、未然に防ぐことが出来たでしょうが」
「そう、現実として受け止められない。現実に、自殺者はいないはずだから。でも不測の事態に対処するのも、あなたたちの責務でしょう」
「ええ。私自身、見過ごしておりました。倫理院のカンファレンスでは、自殺という現象を教えないのだと知っていなかったために。そして情報の収集を怠ったのはほかならぬ私です、反省しております」
レイラ・アードニーがわずかに顔をゆがませた。唇が少しだけ痙攣するかのようだった。ナノボットの作り出す立体映像は、どんな些細な変化でも走査し、転写してしまう。
「行為そのものの存在は」
不機嫌さを隠そうともせず、レイラ・アードニーは続けた。
「教えないということはありません。自殺を未然に防ぐのに、自殺という現象を知らずして理解など出来ない」
「当然、私のスタッフも全員、自殺の可能性があると理解していました。しかし、どこかでそんなことは起こり得ないと高をくくっていたように思われます」
「教育不足だというの? こちらの」
おそらく倫理教育の大本であり、基本ともいえる倫理院のカンファレンス――それに苦言を呈するということは、いくら言論の保証がされていてもなかなかやらないことだ。誰もが、倫理院のすることは完璧で穴などない、と信じているのだから。
「いいえ。起こった事故は、監督不行き届きです。そのことは如何様な処分も受けます。しかし、今後の参考のためにと思いまして」
ソフィーヤは、どうやったらここまで挑発的になれるのか、という笑い方をする。完璧に作りものめいていて、次に口を開けば何を言い出すのか分からない、得体の知れなさを感じさせる。
「まあ、いいわ」
ややあってから、アードニーが言った。ため息をついて、
「どのみち、この騒ぎで我々も教育の不備を感じていたところだから。自殺なんて過去のものって、そんな意識だったのは認める」
「騒ぎとは」
私は訊くが、しかし答えなど求めるまでもなくすべて分かりきったことだ。レイラ・アードニーは果たして、私の予想通りの回答をする。
「脱走者が、これほど多いということは。いえ、脱走者自体がそもそも例がないことだから」
「脱走したからと言って、自殺願望がある、とは決まらないのではありませんか」
シェン・リーにぶつけた質問と同じことを訊いてみるが、これもまた予想通りの答えを聞くだけだった。
「市民は、都市を離れては生きていけないわ」
そしてそれは真理でもある。生体分子による体内監視は、外縁に行けば通用しなくなる。逐一健康状態をモニタリングし、恒常性を保とうと運動する生体分子は、ネットの通じない荒野では単なる分子でしかなく、病巣の発見は著しく遅れる。常に生体分子の恩恵に預かる市民が、都市を離れたらどのような状態になるか。それはまだ誰も試したことはない。試したことはないが、今より良くなるとはどう考えてもありえない。生命を維持する装置としての都市なのだから、そこを出ればそれだけ死に近くなることは明らかだった。
「しかし、それを分かっていながら都市外へと出たがるのは」
「あの本の、影響ですか?」
ソフィーヤが口を挟んだ。隣のストラウスの表がいっそう強ばった。それは無理もなく、私も一瞬身が締まる思いがした。
「ナツィオへの帰還。そういう題名でしたね。今時珍しいデッドメディア、私も幼い頃に見た記憶があります。本という……ああ失礼、委員の世代ならばお詳しいでしょうね」
名誉毀損で訴えられても文句は言えないことを、ソフィーヤは何の躊躇いもなく口にした。レイラ・アードニーの整った顔が、ますますひきつった。もっとも美しいとされる二十代から三十代の容貌にデザインされた、八十歳の委員。
「あのようなイデオロギーに満ちたものは、読んだことはないですよ、ドクター・テテリナ。ついでに言うと、その発言をまた繰り返したら委員会に報告します」
「失礼、委員」
まるで悪びれもせずソフィーヤが一応の謝罪の言葉を述べた。本当に謝罪の意志があるのか、かなり怪しいものだった。
「あの本は」
レイラ・アードニーはすっかり諦めたというように頭を振った。
「調べてみたけど、何も仕掛けはないわね。読んでみたけど、やはり何があるというものじゃない」
「委員は読まれたのですか、その本を」
私が訊いたときだけ、レイラ・アードニーは口調を柔げる。
「読んだわよ。大した内容じゃなかったんだけどね。ただ自説を書き散らしたという印象で。でも情緒的表現が多くて、論文というより詩編でも読んでいる感じだった」
「主張とはどのような主張なのでしょう」
「人は生まれた故郷を愛し、故郷のために死すべきっていう。たとえ離れていても、死ねば必ず故郷へと帰る。そんなことを延々と。とても全部読んでられなかったわ、退屈すぎて」
レイラはそう言って笑った。
「しかし、あなたが退屈であったとしても、脱走した市民にはそうでなかったのでしょう」
「だから、あの本は一応回収することになったわ。都市警に協力を要請して、まあ特に影響なさそうだけど出版元を抑えるようにって。でも地下出版だから、探し出すのには時間がかかるけど……どうかした?」
レイラは怪訝な顔でのぞき込んできたのに、私はうつむき加減だった顔を上げる。
「何でしょう」
「いや、何か思い詰めたような顔したから」
思い詰めたことなど何もないが、実際に都市警と聞いて心に掛かるものがあったのは確かだ。脳波が揺れたか、あるいは表情がさえなかったのか。だが、あえて話題にする必要もないのでこう答える。
「何もありません」
「そう。ならばいいけど。まあ都市警が好きな人ってあまりいないからね」
一人で理由をつけて納得し、彼女は向き直った。
「自殺志願者に対する対策はこちらとしても行う。でも彼らのケアは、あなたたちにしか出来ない。だから今後、このような事態にならないよう」
「肝に銘じます、委員」
ストラウスが答え、ソフィーヤが形だけ同意したように首肯した。全く適当な受け答えだ。
アードニーの姿がぼやけた。輪郭が溶け、曖昧になり、粒子が静かに瓦解してゆく。頭の先から、像が砂となってこぼれ落ち、空間と同一となるように掻き消えた後には、会議室の白壁が迎えた。
「だから私は反対だったのだ」
いきなりストラウスが言った。呼び出すのが、ということなのだろう。激昂しているようでもあり、諦観しているようでもある、苦々しさをこらえた口調で。
「担当のものを呼ぶというのは彼女の発案でしたか」
ソフィーヤはもう、今までのやりとりなど忘れてしまったかのように振る舞う。まるで堪えていないようで、実際堪えていないのだ。叱責を受けて落ち込む、ということが彼女にはない。
「あの女は、私が担当しているって分かっていたから呼び出したんですよ。嫌味を言いたいがために。だから問題ありません」
「そうだとしても、君の態度はあまり道徳的とは言えないな。あのようなこと、看過するわけにはいかない」
「気をつけます」
ソフィーヤはそう言うと、
「では所長。私は業務に戻りますが」
「そうしてくれ。二度とこのような失態を晒さぬようにな」
最後に皮肉一つ吐いて、ストラウスは退出した。ソフィやは一つ伸びをして、首を回した。
「何か肩凝っちゃった、ユーリ。ちょっと揉んでくれない?」
「私の業務に、そのような事項は含まれていませんが」
「そんぐらい良いじゃない。あの女の相手して、疲れちゃった、私」
「整体の経験はありません。それに、筋肉の凝りなどは循環回路が働けば直に解消されます。特にそのような行為をする必要はないかと思われますが」
「かったいね、まあいいけど」
事実を口にした途端に文句を言われるという希な事態に面食らうが、それよりも私は訊きたいことがあった。
「ドクターは、あの方と知り合いなのですか」
「あの方って」
「レイラ・アードニー委員のこと、ご存じのようでしたが」
「ああ、あれね」
彼女は記憶をさぐるように目線を上にやり、少ししてから答えた。
「大した知り合いじゃないよ。つまり倫理院のときに、彼女が上司で私が部下っていう。その程度。その後、彼女が委員会に配属になって、私がここに来た。当時からやたらと私に突っかかって来てたけど、まあこういう形で再現されるなんてね」
廊下を歩きながら、ソフィーヤの脳波が少し嫌悪に傾いているのが分かった。嫌悪のレベルによってはヘイトクライムを引き起こす可能性ありと判断されるが、今のソフィーヤの心境はそれほどの嫌悪ではない。
「フリーサイドの推進派なんだよ、彼女」
唐突に口にした。私が返答しかねているのに、ソフィーヤはいたずらぽく顔をのぞき込んだ。
「なんであの女が嫌いかっていうとね、あの女は委員会の中でもかなりの急進派でさ。フリーサイドの規制緩和を求めているのよ、政府に。もちろん彼女のような立場は委員会でも少数派だけど、彼女はフリーサイドこそが理想郷って思っているみたい」
「理想郷、ですか」
随分と文学じみた言い回しだが、確かに推進派はフリーサイドを理想郷のようなものと思っている。諍いもない、病もない、老いることも、死ぬこともない――人類が目指したものがそこにあるのだから。
「では、あの方もいずれフリーサイドに?」
「そのつもりなんでしょ。でも、フリーサイドが出来た時も、それが公認となった後も、彼女はフリーサイドに行こうとしなかった。ホルモン治療と遺伝子導入で若返って、分子量を増殖して、他の都市住人と同じようなことしかしなかった。なぜだと思う? 本人は、都市住人を啓蒙するために残っているとか言っているけど、フリーサイド側からだって、こちら側にアクセス出来る。自ら率先してフリーサイドに行って見せて、あっちの方から啓蒙すればいいだけ。それなのに、なんでさっさと転写しない?」
そんなことを訊かれても、所詮個人的な事柄なので分かるはずがない。私が黙っていると、ソフィーヤは私の思わんとしていることが分かったのか、一人で勝手に答えを出した。
「本当は行く気なんてないんだよ。こっちでよろしくやりたいって訳さ。今の役職を手放すことなく、都市の中で快楽を享受し、中途半端に延命措置を取っているのも今の生活を失いたくないから。あの女、フリーサイドが理想郷だって口ほどには思っていないよ。寿命が来てどうしようもなくなったら、じゃあそのときに行けばいいやって。そう思っているはず」
「何か、特別な事情があるのでは? 現時点で審査が厳しいと聞きますが」
「委員会だよ。いくら規制されていると言っても、現状で認可が下りないってことは、まず無い。自分は後込みしていて、それで他人には是非ともってフリーサイド行きを薦める。我が身可愛さで口だけの人間は、ちょっと好きになれないね」
仕事が残っているから、と言ってソフィーヤは診察室へと向かった。今の話を誰かに聞かれていないかどうかと周りを確認しつつ、私も業務に戻ることにした。
スクリーンを開いた時に、ソフィーヤが言った言葉が、耳に残る。フリーサイドは理想郷。しかし、そのように公言する人間が、フリーサイド行きを躊躇している。だが、躊躇するのも仕方がないように思えた。所詮、フリーサイドがどう言うところなのかは、情報としてしか誰も知らない。実際に行ったものがいないので、どのような場所か、正確に想像できるものなどいない。
圧倒的に未知な世界だ。未知であるから、私のような少しでもフリーサイドに関わりのある者に訊いてくる人もいるが、残念ながら私も正確には覚えていない。ちょうど人が、胎内にいる状態を思い出せないように。そうなれば、躊躇するのも無理はない気がした。
もしかしたら、ルカがフリーサイドを忌避する理由はそこにあるのかもしれない。ふと、そんなことを思った。未知の状態を想像することは難しく、それ故に恐怖を感じるのだとしたら、それは生物の本能のようなものだ。そう簡単に直るという類のものではない。
だが一方で、その未知のものに強烈な憧れを抱く者もいる。彼らは未知のものを恐れず、それどころか違法業者に委託してまで、フリーサイドを希求する。
ただ、ルカの場合は特別だ。フリーサイドを嫌悪するだけでなく、自らの体ですら嫌悪する。命を投げ出し、身を削り、その行為すべてがフリーサイド行きを拒むがためなのだろうか。
網膜が警告表示を出し、終業の時刻が迫っているのに気づいた。所員たちがあわただしく帰り支度を始めていた。少しでも終業時刻をすぎると、それだけでペナルティを課される可能性がある。
周囲に倣い、私もスクリーンを閉じた。駐車場につく頃には、すでに所内には殆ど人がいなくなっていて、早く帰れとせき立てるように円盤状の清掃ロボットがフロアを周回していた。日中は人であふれているオブジェの周りには、気配すらしない。ナノボットに投影されたアナログ表示の時計画像が見下ろし、長針の位置が零を指す頃、私はフロアを出た。