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早々に立ち去った後に、ソフィーヤが訊いてきた。
「どう思う」
「何がでしょうか」
無数のスクリーンを目の前に通り過ぎる所員たちと同様、ソフィーヤは右手で小窓を呼び出して、データを参照している。目は全く前を見ず、それでも誰かとぶつかることはない。その上で私に意見を求めようとは。よくそれだけ器用に出来るものだと思いつつ、私は応えた。
「あの場面で彼女の故郷の話が出てくるとは」
「出来るだけ負担をかけさせたくないけど、普通ゲリラ村なんかにいた子供はそのときの経験を話したくないものなんだけどね。虐待やレイプや、無理矢理に銃を持たされて女子供を撃てと命じられたり、薬を打たされて三日三晩性欲の処理道具にされたりなんてこと」
「詳しいですね、ずいぶん」
「その手の患者は死ぬほどみてきたからね」
過激な言葉や差別用語は、倫理ネットの中にあっては絶えず警告を発せられるものだ。ご多分に漏れずソフィーヤの表現は「悪意的かつ残酷」であるという警告が成されるが、ソフィーヤはお構いなしのようだ。いくら網膜の裏で警告されても、口にした以上はどうしようもないだろう、という様相で、全く意に介す風でもない。
「でも自ら口にした」
円盤型のロボットが足下をすり抜けるのに、躓きそうになった。あの円盤の中央から、毎秒数千億単位のナノボットが吐き出され、円盤の下側からは死に絶えたナノボットを回収して回る。機体本体には、私を生み出したTX社のロゴが確認できた。
「やはり、イデオロギーでしょうか」
「何が」
「つまり、あの子が民族派ゲリラを毛嫌いしているのでなく、民族派のイデオロギーに毒されているがために、フリーサイドを嫌っていたとは」
「何でゲリラ村の話が出ただけでそう決めつけるの」
「決めつけてはいませんが、可能性としてはあるのでは」
「何度も言うけど、イデオロギーに染まっていたら問答無用で厚生施設行きだよ。とても都市住人の養子としては迎えられない」
ソフィーヤはなぜか不機嫌そうに――実際脳波が若干の嫌悪感を示していたが――私を睨み、立ち止まった。
「それと、あんまりイデオロギーの話はしない方がいいよ。いくらイデオロギーっても、全部理解出来ないのに否定するのは、印象だけで判断するのと変わらない。たとえフリーサイドからすれば承伏しかねることでも、軽々しく発言はしないに越したことはないよ」
「お言葉ですが、ドクター」
私はその言葉を絞り出すのに、相当の苦労をしなければならなかった。
「私はフリーサイド側というわけではありません。その発言こそ、印象だけでの判断と取られかねませんが」
「そうね、ごめんなさい。ちょっと苛ついてた」
そう謝罪すると、ソフィーヤは自らを落ち着かせるように、頭を振った。
「疲労が激しいようです、ドクター」
「肉体的な疲れじゃないの、これは。今から人権委員会のロビイストとやり合わなきゃならないから、それでね」
「人権委員会が、ここへ?」
「いわゆる急進派っていう連中。あの子、ルカのような子供をフリーサイドに送り込むべきって主張して、ここの所ずっとその件で呼び出し食らってるの」
「フリーサイド遺児の問題ということですか」
「そ、両親と引き離すことが人権侵害であり、たとえ違法に転送されたものであっても親と離ればなれにするぐらいならば、その子供も転送されてしかるべきということね。法を犯し、法の目を欺いて転送されたものであったとしても、未成年者が親と引き裂かれることは問題なんだって」
「いよいよとなれば」
私は次の予定を気にしつつ、意見した。
「それもやむを得ないのでは。両親と離れている今の状態が良いとは思えませんが、それよりも今機械細胞に置き変わりつつある彼女の身を案ずるなら、一つの選択肢とみてもよいかもしれません」
「でもあの子は、フリーサイドを嫌っている。それを強制執行ってなれば、それこそ大問題よ」
ソフィーヤもまた時計を気にしながら、スクリーンを閉じた。
「体の崩壊は精神的なものだと思うから、カウンセリング次第だけどね。まあそれも、あんたの働きにかかっているけど」
私はそんな大層な働きなど出来ません。そう言おうとしたが、ソフィーヤは時間がないと言って早足で駆けて言った。次のカウンセリングは四時間後、と言い残して。
昼休憩は、そろそろ終わろうというところだった。ほとんどの所員はこの間に食事を採るのだが、私は特にそういったものは必要ではない。朝に栄養分のカプセルを投与すれば、あとはその都度糖を補給すれば事足りる。だから私はこの後すぐに仕事を再開できる。仕事を早めに片づけて、次のカウンセリングに備えておくことができる。
そう思っていた矢先、網膜のディスプレイに緊急メッセージが飛び込んできた。ソフィーヤでなく、精神病棟のスタッフからのものだった。
すぐに私は、精神病棟にとんぼ返りする羽目になった。途中で三人ほどの所員とぶつかったが、気にしている暇はなく、清掃ロボットにつまづきそうになりながらもルカのいる診察室を目指した。
診察室の前で、若い女性スタッフが青い顔をして座り込んでいた。よほどショックなものを見た、という顔だった。彼女が私の名を呼ぶのを待たず、私は部屋に飛び込んだ。
だだっ広い空間の、その真ん中に、ルカ・オベールの小さな体が横たわっていた。細い手足を折り畳むように体を丸め、胎児のような格好で血の中に沈んでいる。少し黒ずんだ彼女の血は、金属分子が混じった粘着質なものだ。彼女の肩を背中を濡らし、その出所は彼女の首筋から流れていることが分かる。
「あの、違うんです。」
女性所員はひどくおっかなびっくりという風に言った。拡張視覚情報が瞼の裏側に現出され、彼女に関する情報が流れた。メイニー・ジェーン、バイオロイドではなく全くの生身の人間。
「違うんです……私は、その、こんなことになるなんて思わなくて、それで」
「そんなことどうでもいい。医療チューブを、早く。出血が多いとさすがに死ぬ」
私が発した死という言葉が、よほど恐ろしげに響いたのか。メイニーが窒息したような短い悲鳴を上げた。幸いにして他の所員が駆けつけ、素早くルカの首筋に修復用のチューブを差し入れた。ストレッチャーにルカの体を乗せ、そのとき、ルカの手に小さなフォークが握られていることを確認した。
「どうしてあんなものが、ここに」
搬送されるルカを見送りながら訊いた。この部屋には、自らを傷つけることのできるもの、鋭利なものは一切置かないように気を配っていたのに。
「あの、食事を……」
彼女は、未だ恐怖から抜け出せないでいる。
「食事を、出したんです。その、あの子何日も食べてないから、所員の食事と同じものを」
「彼女は自殺願望がある。それは知っていたのか」
「本当に自殺するなんて……出したら、いきなりフォークで、喉を……」
軽率な、としかしそれは口には出さなかった。都市に住まうものなら、自ら命を絶つなんてことを本気でやるとは思わない。そんなこと、誰も信じられない。当然のごとく、メイニーもまた。
網膜の裏側に、通信が入った。医療チームからだった。出血が止まり、意識を取り戻したというものだった。あの出血ならば相当な傷だと思ったが、どうやら機械細胞は思いのほかうまく機能してくれたようだ。それを告げると、メイニー・ジェーンはようやく落ち着いたようだった。パニック症状に揺れていた脳波が、平静を取り戻し、それに合わせるように彼女はへたり込んだ。まだ少し、息が上がっていた。
「ごめんなさい、あの私……」
「いいから、君は休んでいなさい」
メイニー・ジェーンは自らの至らなさを責めているようだった。あまりにも自己反省が強すぎると、鬱状態になりかねないので、ショック状態が強い場合は休養を取らせることが定められている。
「君だけが悪いわけじゃない。誰もそんなことになるとは思わないから、私だって本当は思っていなかった」
ルカの流した血のあとを見た。血液中の分子が凝縮し、砂状の物体を形成した。本来の血と異なり、金属分子を含んだ血漿は体外に放出されたら瞬く間に凝結する。生体内を補修するためにある分子は、それを離れたら単なる鉄の粒子に過ぎない。指先でつまんで見ると、一掴みの鉄がぼろぼろと崩れた。
ソフィーヤから通信が入るのに、時間は掛からなかった。
倫理ネットが、少ない粒子の中でどのような情報伝達を行ったのか分からないが、ともかくルカの自殺未遂が所内に広まるにはそれほど時間は掛からなかっただろう。彼女が三又の食器で喉を突き破ってから十分後、ストラウスが怒鳴りこんできた。
「説明をしてもらおう、12」
いや、怒鳴りこむというほど威勢の良いものではないが、明らかに怒りを湛えた目を向けて、それをわざと内に抑えていた。
「お前の乏しい語彙で成せることかどうかは疑問だが」
「説明、要るでしょうか」
そんな必要などないほどに、メイニー・ジェーンの意志は伝わっただろう。それともルカの意識が途絶えるのが先だったか。ストラウスは、威嚇のためだけに作ったとしか思えない皺をさらに深くさせた。
「君の監督責任能力を疑うな。彼女が自傷癖があると、わかっていたはずだ」
「重々承知しています。私の判断ミスです」
「そのようだな」
ストラウスが皮肉めいた視線でルカの流した血のあとを、たっぷり五秒間眺めた。自ら凝固した血液に触ろうとはせず、代わりに靴の踵で踏みつけた。
「医療チームから出血は止まったという通信が入りました」
「当たり前だ。この施設内で死人が出ることは、それは絶対にあり得ないことであり、そのあり得ないことがあればそれは施設の存続が未来永劫あり得ないということだ。先の脳波の乱れが、人権委員会の脳髄に届き、一時的にショック症状に陥ったというのも、またあり得ないことだ。ここでは絶対にあってはならないことを、おまえの不注意で引き起こした」
そのとき、ちょうどストラウスの背後に影が立つのを確認した。静かに怒るストラウスをたしなめるかのような、ソフィーヤ・テテリナの迄然とした声音が響いた。
「システムの不備です、所長」
まるで存在を予測していたように、ストラウスが振り向いた。そうは言っても顔を半分傾け、視線だけを寄越すだけで、ほとんど注意を向けた風には全く見えない。
「何故、所員用の食事が配膳される」
「現場の判断では、防ぎ切れません。自殺をするなんてことは、誰も予想出来ないのですから。彼女の食事は、当分の間チューブに切り替えるべきです」
「倫理上の問題は無視してか」
「全責任は、私が。それよりも所長、人権委員会がお見えです」
ストラウスは冷めた目で見つめた。すべてにおいて関心を失ったかのような目の色をしている。一瞥し、それ以上何も言わず、そのまま部屋を出た。何一つ未練などないというように。
果たしてソフィーヤが脱力するのがわかった。
「あのオヤジ」
とソフィーヤは髪をかき上げ、
「それで、本当の所は誰が配膳したの」
「申し訳ありません、私が――」
「誰が、って訊いているんだけど」
メイニー・ジェーンの名を出すのが、一瞬ためらわれた。彼女が直接出したものであっても、それを確認しなかった私に責任がある。この場の監督責任は、私にあるのだ。
私の意図が伝わったのか、ソフィーヤは微笑んで言った。
「別に糾弾したいわけじゃないよ。この事態を引き起こしたのは私のせいだし、その責めを転嫁する気はない。でも今度から気をつけてもらいたいから、ちょっと注意するだけ」
「注意でしたら、後の方がよろしいかと。自殺未遂の現場を見てしまったので、医務室で休ませています。心的ダメージによっては、修正プログラムを施さなければならないかもしれない」
「そう。じゃあ後にするわね。どのみち、後で調べればわかるし、それにもっと厄介な案件を抱える羽目になったから」
「人権委員会ですか」
ソフィーヤは、お手上げというように首を竦めた。
「ちょっとタイミング悪かったかもね。嫌悪のパターンが、一時的にせよ所内に広がっちゃったから。大抵の人はそれで影響されるってことはないんだけど、委員の連中って皆そういうのに敏感だから」
果たしてどちらの意味で「敏感」と言ったのか。倫理院の中には、わざと脳波プロテクトの基準をゆるめる者もいる。突発的にしても嫌悪感情は起こりうるものであるが、それに身を晒すことで倫理性をアピールしているのだ。完全な倫理社会が実現されていれば、他人の脳波に影響されることなどないなどとして。
そういう彼らは、比喩でも何でもなく「敏感」だ。
「ショックで倒れたというのも、そういう事でしたか」
「そんなの自己責任だろうって話だけどね。まあ信念のために命を晒す覚悟はご立派だけど」
「それで、その方は」
「もう気がついたよ。それで、いたくご立腹で所長を召集って算段だよ」
それほど驚いた顔はしなかったのだが、彼女はいかにもといういたずらめいた笑みを浮かべた。
「方便だと思った? あんたを救うための」
「いえ、ただあまりにもタイミングが良すぎたので」
「世の中そうはうまく行かないよ。まあ、もうちょっとあんたの困惑ぶりを見ていても良かったけど、そういうわけにもいかないからね」
「別に困惑などは」
「明らかに動揺してたけどね。近年希にみる慌てっぷり。あんたのあんな顔見たのは、後にも先にも私だけだろうね」
困惑という定義に当てはまることなど何もなかったと思ったが、彼女からすればあれでも立派な「困惑」であるらしい。一人で納得して、一人で笑い、それでも彼女の言うことを逐一訂正するの気にもなれないのでそのままにしておく。そうやって、いつの間にか彼女の制御下に置かれ、彼女のペースに引きずられることとなる。それに違和感を覚えることすらなくなった。
「それで」
私は話を切り替えることにした。
「ルカ・オベールの面接は、どうするのですか」
「目下の問題はそれよね」
彼女は急に真顔になって、
「あんなことになったすぐ後に、じゃあやりましょう、ってわけにもいかないだろうし」
「通常、自殺未遂者に対するカウンセリングはどれくらいの時間を置くのですか」
「自殺しようって人がここ数年いなかったんだから、わからないね。でもまあ、最近の脱走騒ぎなんか見ていると、時間なんかかけるだけ無駄って感じだけど。保護したら有無を言わさず脳を調べられ、プログラムを施す」
都市外へ出奔する、間接的自殺者。施設内ではそういう位置づけだった。直に刃物を突き立て、命を絶つのではないにしろ、都市の空気に慣れたものが外縁に出て生存出来る確率は限りなく低い。故に、間接的であるにしても、自殺者と同じに分類される。
「では、ルカも同じように、傷が癒えたらすぐにでも」
「そう簡単にいかないよ。強引にやって、警戒されたら何も話してくれなくなる」
「強引さがあなたの信条かと思っていましたが」
「そんなわけないだろう」
そんなやりとりをしながら、彼女は廊下を曲がった。彼女の診察室は別棟なので、直進しなければならないはず。ソフィーヤは私に、ついてこいというように顎をしゃくった。
「実はね」
彼女は少し、申し訳なさそうな困惑の色を成した。
「私らも呼び出されてんだよ、本当は」
「呼び出される、といいますと」
「人権委員会に。担当のカウンセラーから話を訊きたいってさ」
「それなら、そうと仰っていただければ」
「言い出しづらかったんだ。まあともかく、もうちょっとの間つきあってよ」