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「なんだか振り回されてんな、おまえ」
シェン・リーが固着されたスクリーンを叩き、プログラムの演算式を組み立てながら言う。金色の格子に定着されたDNAの塩基配列が、ビット数に置き代わり、数列が構築されてゆく様を呆けたような表情で見つめて、合成飲料のボトルを口につけ、一息ついてから、
「あの先生は、どうにも俺たちプログラマーとは違うところがあるからな」
「違うとは?」
「医者なんだろう、あの人。倫理ネットが構築される前、まだフリーサイドがコンピュータが見せる電位空間でしかなかった時代の人だから、倫理ネットじゃなくて原始的な対面式カウンセリングを経験してきた」
プログラムを組みながら、シェン・リーは業務に関係のない情報をあちこち張り付けていた。週刊ニュースの三文記事とグルメ情報を並列させてプログラミングをする、という芸当はおそらく研究所内ではこの男にしか出来ないことだろう。それでも業務は人並み以上にはこなす。シェン・リー自身、よほど器用な設計をされた世代なのだろうか、あるいは後天的に身につけたものなのだろうか。
「言語による治療が非効率のものであるけど、ああいう上の世代はそれこそが至高のものであるって考えてる節があるからね。だから違うんだよ。俺たちとは考え方が」
「特にそのような様子はないが」
私は画面を閉じた。ルカに関する報告資料だが、何十回と彼女の経歴を眺めても、新しい情報など得られない。
「カウンセリングには倫理ネットが必要ないって言うんだろう。古い考えだ、それは」
「必要ないと言っているわけじゃない。ルカ・オベールにとってはそのほうが良いってことなんだろう」
「でも必要ないって言う。ネットを切るってことがどういう意味なのか、良く分かっていない証拠だ」
「彼女は、それでも経験者だ。彼女に従うより他ない」
私がそういうと、シェン・リーは哀れみめいたような渋面で以て応えた。
「まあいい、もともと俺が口出すようなことでも無し。口出す暇も無し、と」
スクリーン上を流れる行列式と複雑な回路図を眺めてシェン・リーはため息ばかりつく。よほどのことがない限り現れないエラーメッセージに頭を悩ませているようだった。
「厄介なのか」
「ああ、厄介もなにも。今までにない脳波の揺れだ。脳神経に何ら異常はないんだけどな」
今、シェン・リーが向かっている回路は、ここ最近増えている自殺志願者のものだった。性格には自殺を希求しているわけではないが、シェン・リーが受け持つ患者は自らの職も、自由な暮らしもすべてかなぐり捨て、都市の外へと逃げだそうとした、そういう人間のものだ。
都市の外に出たところで、必ず死ぬという保証はないが、都市の中のように必ず生存できる保証もない。完全な治安と完璧な医療を自ら抜け出し、揺り籠を飛び降りようという人間は、自殺志願者と同等であると見なされる。
「都市の外に出たいってなら、申請すれば別に難しいことじゃねえんだけどな。けど、単に都市の外に出ようってな類じゃないんだ、こういう人間はな」
コーヒーをすすりながら、別のスクリーンに触れて、検索単語を入れながら、シェン・リーは時折瞼を押さえた。
「こういう患者がいるってのに、カウンセリングどうこうでうまく行くってなあ思わんけど」
そんなことを呟いてスクリーンを叩くと、スクリーン上上に画像が映し出された。
「現実に、紙媒体のメディアってものはほぼ廃れたんだが、古い時代に思いを馳せたい人ってのはいる。で、そういう人用に本というものはまだまだ存在するんだが、この本はちょっと違う」
「何がだ」
「ナツィオへの帰還、ってそれが本の題名なんだが。都市の外に出たがる自殺志願者は、決まってそいつを呼んでいる。どこのどいつが出しているのかわからない地下出版なんだが」
「ナツィオ?」
「生誕の地っていうやつだ。ナチズムの語源にもなっている。まあ人は生まれた地を愛し、民族の為に尽くすっていう古くさい教義だ。都市外縁の民族派ゲリラなんかの考えと似ているんだが、そいつを読んだ人間はなぜか都市の外に出たがっちまう」
「本自体に、何か脳波を乱すものでも?」
「まさか。本は本だ。それに、何か脳に干渉する電波でも出ていりゃ、すぐにわかる。倫理ネットの監視に引っかかれば」
「じゃあなぜ」
「知らんよ。脳波は基本的に安定しているし、今のところはその本を緊急避難的に遠ざけておくってぐらいしかできない」
シェン・リーはスクリーンを閉じた。終業時刻が近づいて、そろそろ生体分子がオーバーワーク警告を発してくる頃だ。ライフワークバランスの取れない就業は如何なる理由があろうとも許されず、それは都市行政機関であっても変わらない。
「残業ってのは人権侵害だとは思うけど、こういう時ぐらいは認めてもらいたいものだね。全然終わる気配がない」
「非行率なシステムを自ら好んでやることもないだろう。労働が崇高であるとされていた時代の遺物にすぎないものだ。それこそ民族派のイデオロギーと変わらない」
「まあ、そうだな」
とシェン・リーはカップを握りつぶした。オブジェの向こう側に位置する屑籠に投げ捨てるが、見事に外れて床に落ちた。それを待ちかまえていたかのように、円形状をしたクリーナーロボットが床上を滑り、今し方捨てられた投棄物を回収しにくるのを、シェン・リーはぼんやりと見つめていった。
「そういやあの娘も自殺志願者なんだって?」
「ルカ・オベールのことか。はっきり自殺志望とわかっているわけではない。自傷癖がそのまま自殺願望というわけではないからな」
「でも何度か死にかけたんだろ? 両親は生命主義でフリーサイド行きを希望しておいて、子供が自殺志願者になってりゃ世話ないね」
「それは関係ないだろう。親がどうだろうと、子供には子供の思想というものがある」
「しかし、ルカは両親のことは嫌っていないのだろう。フリーサイド側から、両親が彼女を説得するとか、できないのかね」
「フリーサイドから介入することは許されていない。それに、フリーサイドに何らかの嫌悪感情を持っているなら、それは危険だよ」
「とはいっても、自殺志願者。カウンセリングごときでどうにかなると思えないけどね。何せプログラミングでもこれだけ苦労しているんだから」
シェン・リーは、誰に聞かせるでもなく、呟いた。
「何で死にたがるかね」
それは、私にもわかることではない。
フリーサイドの記憶はいつのことか、と問われたらおそらくは否と応える。それは本当に記憶がないのではなく、どう説明して良いか分からないからだ。言語に変換するという行為が、フリーサイドではそもそも必要とされない行為だ。あそこにいる間、快いものだったのかそうでないのか、定かではない。ただ古来から否定されてきた苦痛というものは、まるっきり存在し得ない、それがフリーサイドだ。
フリーサイドには苦痛はない。老いることも、病に伏せることも、死ぬこともない。人間にとっては理想であるはずの世界だった。なにしろ近代の歴史というものは、苦痛を出きるだけ遠ざけることに執着し、快楽を追い求めることを目的としていたのだ。ありとあらゆる意味で人間の行動を縛る神が死に、肉体的苦痛を伴う習慣や儀式は追放され、精神的苦痛を伴う我慢を強いる社会は駆逐された。すべては苦痛から逃れるためだ。
だからオベール夫妻がフリーサイドを希求した理由も、すべて人類の歴史を以て証明できる。オベール夫妻は中産階級の、ごく普通の家庭だった。子供に長いこと恵まれず、人権委員会に何度も養子の申請をしていた。ルカを迎え入れた後、彼らはルカを「まるで我が子のように」かわいがったという。夫妻の間に不仲はあり得ず、また仕事や家庭に何か問題を抱えていたわけではない――フリーサイドの懐疑派は、オベール夫妻のような人間を指さしてさも現世に問題を抱えていたかのようにのたまうが、実はそうではない。ごく普通の、そして都市の福祉と医療の恩恵に預かり、幸福そのものを享受していたような人間がフリーサイドを目指すのだ。まるでそこに行けばより一層の幸福を受けることが出きると信じているように。
本当に幸せになれるのか、否か。それは行ったことのある人間にしか分からない。そういうわけで、フリーサイド世代と呼ばれる私に、良く人は訊ねるのだ。フリーサイドとはどういうところなのか、と。当然、答えることなどできない。
言えることとは、少なくともルカにとっては、フリーサイドは拒否するに値するものだった。システムの異常か、あるいは彼女自身の心の変化なのか。人類が痛みを遠ざけることを望んでおきながら、彼女は自ら痛みを引き寄せ、自傷行為に及んでいる。機械細胞でなければ、死に至らしめる可能性すらあるのだから、シェン・リーの言うように彼女は自殺志願者なのかもしれない。本来ならば自殺を志願する者は、強制的であってもプログラムを施し、自殺願望そのものを消すことも許されているのだが、如何せんそのプログラムを受け付けないのだから、カウンセリングで原因を探るより他ない。
だが、その間にも彼女の体は、機械細胞に浸食されてゆく。
研究所に入ってすぐに病棟に向かった。重度の精神疾患を抱える者を保護し、リハビリとプログラミングを繰り返すためだけにある棟。そのさらに奥が、ルカ・オベールの収容されている部屋だ。特例としてナノボット散布が三十パーセント以下に抑えられ、カウンセリングの最中は脳波測定すら行われない。人類がかなぐりすてた原始的な、異境じみた診察室に私たちはいる。机を挟んで、ソフィーヤと私が座り、ルカ・オベールと対面する。相変わらず全身に敵意を纏わせ、周りの空気ごと私たちを拒んでいるような雰囲気すらある。細い手足と薄い肩に精一杯力を込めて、威嚇するかのようにこわばらせていた。
「緊張しないでもいいのよ」
あくまでソフィーヤは友好的に振る舞った。患者の懐に入るには、こちらの襟元を開かなければならない。そのためには本来一対一の面接が好ましいのだが、不測の事態に備えて私も同席することになっている。
「そんな構えられると、こっちも緊張しちゃう」
緊張などといっても、脳の分泌量はその都度調整される。厳密に緊張状態に陥ることなどあり得ないのだが、彼女はあえてそう言った。
「緊張とかじゃない」
低い声音だった。ルカはあくまでもそれを押し通すのだというように、うなり声にも似た口調を無理に絞り出していた。ソフィーヤは苦笑いしながら、ガラス基盤のノートを取り出した。ナノボットの少ない場所では、あらかじめ粒子を定着させたガラス端末を用いることがある。ただの一枚ガラスにすぎないが、粒子が脳内回路に連動して視覚情報を現出させる。
「南フランスってね、私行ったことないの」
そのガラス基盤に、ソフィーヤは触れた。粒子が流動し――それを肉眼で捉えることはできないが――南フランスの景色と思われる画像を描き出した。青と白、古い町並みと海岸線。空と海が交わる境界線上に、太陽の白色を受けた商船が航行している。リアルタイムの映像だろうか、景色はかすかに動いていた。
「良いところなんでしょうね。十年前、景観保護区となったところで一度旅行に行きたいと思ったんだけど、なかなか時間が無くてね」
「保護区となったのは八年前と記憶していますが」
私が訂正するのに、ソフィーヤは黙ってガラス基盤を叩いた。すぐに網膜の裏側に、プライベートメッセージが刻まれた。
曰く、「余計な口挟むな」と。こんなことで少ない回線を使ってもらいたくないのだが。
「別にそんないいとこじゃないよ」
ルカが、か細い声で呟いた。ソフィーヤがそれを聞き逃すはずもなく、
「そう? 観光地としては人気高いみたいだけど」
「別に。その映像だって、一部だけだし。保護区だとかいっても、ほとんどが似たような光景だって。清潔なビルと塵一つ無いアスファルト。誰も彼も気持ち悪いぐらい血色の良い顔張り付けて、人間がどれほど健康かっていう証明みたいに同じような体つきで歩いていて」
恨み辛みをぶつける風でなく、嘲りのようなもの。呆れかえったすべてのものに、見切りをつけた風情すらある。露骨に嫌悪感を示せば、まだ対処のしようがあるというものである。なのに。
「あんたもそう。つまんない奴らの一人で、それなのに私についてみんなみんな、可哀想だからなんとかしなきゃって。くだらないことしかしゃべんないんだから、ご機嫌とろうっても無駄」
「うーん、そういうことじゃなかったんだけどね」
ソフィーヤは苦笑して、ガラス基盤の画像を打ち消した。
「ただ、私は都市から出ることってあまりないの。他の都市に行こうにも時間がなくて、まあ確かにあなたの言うようにどこも同じような光景だけど、でも他の場所にも興味あるからね」
「他の場所なら、都市の外がいい」
不意にルカが笑みを浮かべた。口元を不敵に歪ませて、その目には何ら楽しさなど感じてなどなく、むしろ苛烈さすら増す笑みだった。
「私の育ったところのこと、教えてやろうか? あの夫妻のところじゃなくて、それよりもっと前。ゲリラ村でのこと」
「そんなことは話さなくてもいいわ」
ソフィーヤがルカの身上を知らないわけはなく、当然彼女がそこでどんな目に遭っていたのか、知らないわけではない。
「いいじゃん、そっちの方がたぶん楽しいよ。何にもない都市よりは一杯あって、刺激的だって――」
遮るように、チャイムが鳴った。昼を告げる合図だった。
「その話は」
とソフィーヤはガラス基盤を仕舞って立ち上がる。
「また今度にしましょう。あなたも疲れているだろうし」
ルカの酷薄な笑みが消えた。また元の、何の光も宿さない、鋭さばかりが目立つ無表情に。粒子が一瞬にして形態を変えるよりも早く、戻る。
「じゃあね、ルカ。また来るわ」