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「調子はどうだい、ユーリ」
私が部屋を出たときに、後ろから声をかけられた。ソフィーヤ・テテリナのやや気だるさを押し隠すような物言いは、すぐに分かる。
「来週からパートナーだから、よろしく」
「パートナーとは」
「カウンセリングの資格を持っているのは、私の他にあんただけだって聞いたから。さっきストラウスに言われたよ、あんたをサポートしてくれって」
「あなたとペアで、カウンセリングをということですか」
「あんたには実務経験はないでしょう」
当然の如く、ソフィーヤは言う。プログラマーでカウンセリング資格を持っていること自体が稀であるのに、その上実務経験など到底望むべくも無い。そんな事情は全て呑み込んだ上での物言いだった。
「昔取った杵柄で、どこまで出来るか分からないけど」
「経験がおありなら」
私は特に気分を害したわけでもないが、一応口にしてみる。
「先ほどのミーティングに来ていただければ、良かったのですが」
「悪いわね。人権委員会の連中が来ててさ、その対応してたのよ」
「委員会がここに?」
「あの子、ルカ・オベールの処遇についてね。あのままカウンセリングを始めるかどうかってこと。このまま研究所に置くか、それともフリーサイドにまた送り込むかって。倫理院でも揉めているみたいね」
「彼女をフリーサイドに送り込もうというのですか」
「確定じゃないよ、そういう意見があるってだけ。大体、フリーサイドが元であの子の体、ボロボロになったんだから。簡単にまた送り込もうなんて意見は少ないよ。でも彼女の両親はフリーサイドにいるわけで、子供の権利上両親と引き離すのは好ましくないって判断されている。虐待の疑いがなければ、基本的に親と過ごすのが望ましいってことでね」ルカは、両親の話をしたときには何ら感情の変化が見られませんでしたが、話がフリーサイドのことに至った時に嫌悪を示しました」
私が言うと、ソフィーヤは少し驚いたように瞠目した。
「それはどの程度」
「基準値を一瞬だけですが越えました。ストレスがかかると判断し、中断しましたが」
「そう」
ふと彼女の瞳が揺れた。私から視線を逸らしたその目が、何か遠くのものを眺めるように変化した。ソフィーヤ・テテリナは何も見ていないような、私には及びもつかないものでも見ているような風情ですらある。
「そうなると、結構根が深いね」
誰に聞かせる風でなく、そう呟く。
「基本的に食事ってものは、いつも摂らなくてもいい」
彼女の手元に、合成食品のランチがある。所内の食堂に、私達はいた。
「その都度生体分子を補給すれば、必要な栄養素を蓄えられる。でも週に一度はこうして食事しないとね、食べ方を忘れちゃう」
ソフィーヤは細かく切った培養肉を口に運びながら言う。家畜の飼育と殺処分、食肉加工がまだ認められていた時代の調理をわざわざ模している。その時代の味覚を楽しむか、あるいは料理を口に運び、咀嚼するその行為を必要とする一部の者のために、そのようなイミテーション料理が存在する。
「非効率な栄養摂取なんだけど、食事って味覚や触感を楽しむ側面もあるわけ。文化圏によっては儀式であり、文化であり、その意味は様々なんだけど、基本的に人間は食事を生命維持だけでなくて文化として捉えていたわけね」
一体それが何の料理なのか分からない。彼女の皿にあるものを、手慣れた風に切り分けて彼女は言った。
「でもそれは動植物を殺して、他人の権利の侵害に基づくものが含まれていたわけ。だから都市の人間はそれを好ましくないって判断したんだけど、それでも人々の習慣はなかなか抜けないわけで。まあ私もそうなんだけどさ」
私は黙ってコーヒーを口にした。この飲料も合成された味覚に基づくものだった。飲まずとも良いのだが、彼女が食事をしている間することが無いので注文した。益も害もないので、暇を潰すには丁度良い。
「それで、さっきの話。つまりあの子は、フリーサイドに対して良く思っていないってこと?」
「ただ、彼女はフリーサイドに行く時に、同意書を提出したはず。フリーサイドに行く行かないは、個人の意思がなければならないはずなので」
「正式な手続きを踏めばね。でも実際はわからないよ、何せ非合法の業者だし」
彼女は最後に、塩化水を飲み干し、グラスを置く。
「よくあることだよ。フリーサイドそれ自体は、何らこの世界で暮らすことと変わらない。個人の意識は百パーセント転写され、ただ肉体を持つか持たないかの違いであるって証明されたとは言っても、やっぱり抵抗があるっていう人間は。人は生まれ落ちたときからこの世で生を全うし、正しく老いて正しく死ぬべきと主張する人間とかね」
ソフィーヤが食堂の正面に据えられた大型のスクリーンを見ると、浮遊する大画面には民族派ゲリラの同行を示す文字情報と映像が流れていた。都市外部に存在する、古い時代の教義を貫き、世界政府と倫理院を毛嫌いする勢力は、外縁の部隊と未だに前時代的な紛争を繰り返している。人権を無視する習慣と唾棄すべき虐待、それが普遍的であると主張するもの達。カフカスのコサック達の自爆テロを伝えるウェブニュースだった。
「ルカ・オベールも、民族派ゲリラの村で保護されたと聞きますが」
「保護されたのは五歳の頃でしょう。強固なイデオロギーに染まっていたとは考えられないわ。もっともそういう子供はまず養子には出されないで厚生施設に預けられるけど」
「ではなぜ」
「それを探るのが仕事でしょう」
身も蓋もない言い方をして、ソフィーヤは席を立った。トレーをもって、ついでに私が飲み終えたコーヒーのコップを拾い上げた。
「明日から始めるよ。手順は後で送っておく」
「私はなにをすれば」
「しばらくはサポートしてくれればいいよ」
ソフィーヤは通信が入ったのか、新たにスクリーンを呼び出した。両手がふさがっている状態だというのに、ナノボットの投影する文字情報を眼で追い、その状態のまま食器返却口に早足で駆けて行く。スクリーンを凝視して、足下を見ないままそれでも何かにつまづいたりしない。ほとんど神業めいていた。
食堂のスクリーンが、切り替わった。何か情報が更新されるたびに、スクリーンの表面がはがれ落ち、下から新たなスクリーンが現出する。といっても、実際にははがれ落ちるということはなく、ナノボットが配列を変えて新たな情報に形成し直されるというだけのことだった。ナノボットのビット数に変わりはなく、空間の粒子運動と光の投影で視覚情報が切り替わる。
スクリーンに、誰か知らない人間の顔が映し出された。都市の人間だが、外縁に逃げだそうとしたらしい。基本的に都市の外に出る手続きさえ踏めば――そしてその手続きはDNAが登録されていれば難しいものではない――自由に出ることが出来る。わざわざ外縁に出る必要などなく、不可解な行動だった。
私は席を立った。
診察は、いつもの医務室ではなく、引き続いてあの部屋で行われる。ナノボット散布量が特に多い場所は、それだけ生体分子への監視も強め、脳波測定もし易い。それだけが理由ではないだろうが、ともかくそれは行われた。
「ソフィーヤよ、よろしくね」
まるで作りものめいた笑みではなく、本当に親しい友人であるかのように彼女は握手を求めた。ソフィーヤ・テテリナは対象に触れることに何の躊躇いもないようだった。
ルカ・オベールは一瞬だけ目を合わせたが、すぐに俯いた。その目にもまだ、敵意の色が宿っているように見えた。下を向いていても、ちらちらと視線だけでこちらを伺っている。指先で髪をもてあそび、落ち着きがないようにも思えた。
「緊張しないでね。あなたをどうこうしようってわけじゃないから。ちょっとだけお話させてもらえればいいの」
「話すことなんてないよ」
彼女、ルカ・オベールが言った。初めて聞いた声は、ハスキーでありつつもどこか押し殺す、呻きにも似た響きをともなっている。
「何でもいいのよ。無理に話す必要はないけど、要望とかでもいい。私たちも出来る限りのことはするから」
「何もないってば」
ルカは心底呆れた風に、つっけんどんな態度を取る。
「どうせあんたら、私をどうにかしてあそこに戻そうとか考えてんでしょ? そうするように言われて、仕方なくやっているんでしょうが」
「そういうわけじゃないよ。あなたがどうするか、ということはあなた自身の自由だし、私たちもなるべくそれにあわせる」
「じゃあ、まずそこの奴がいじってる画面閉じてよ。そんなもんであたしの頭ン中見ようとか、気味悪い」
不意にルカは私を睨みつけた。画面を開いている者といえば、この部屋では一人しかいない。
「ユーリ、それ閉じて」
ソフィーヤは私の方を見ずにそう告げる。しかし、閉じろと言われて閉じるというわけにもゆかない。脳波の測定がプログラムの重要な指針となる以上、簡単に応じられるものではない。
私が躊躇していると、ソフィーヤは今度ははっきり、一言一句を刻みつけるように言った。
「閉じなさい」
少々圧倒されたことは否定できない。私は反射的にスクリーンを閉じた。ソフィーヤは続き、部屋の外に待機している所員にも閉じるようにと告げた。案の定、ガラスの向こう側から反論が挙がるが、ソフィーヤは妙に迫力のこもった圧しつけるような声音で命じた。
「閉じたわ、これでいい?」
要求通りにしても、ルカは睨み続けていた。
「どうだか。あんたら、どっかで盗み見ているんじゃないの?」
「そんなことはしないわ。信じられないなら、ナノボットに介入してこの部屋だけをスタンドアローンにもできる。空気中のナノボットを、四〇パーセント減ずればまともに脳波測定は出来ない」
もっとも、一立方あたりの空間からナノボットが四〇パーセントも減ったら、異常事態として研究員すべてに知れ渡ることだろう。ソフィーヤの声には、そうして異常を関知して駆けつけた所員たちを全て追い払ってやるという響きがこもっていた。
「私たちは」
と睨みつけるルカに微笑みかけ、
「あなたに無用なプレッシャーや、不快感を与えるたいわけじゃない。あなたが話したくなければ無理に話すことないし、嫌なものは嫌って言ってくれて構わない」
「ホントかよ」
ルカは鼻で笑った。どうせ出来っこない、と高をくくっているようだった。どうせおまえ達は口だけだろう、分かっているんだという風情の。
「それは、信じてもらうしかないわね。私たちがいくらそうだと言っても、あなたと私とではまだ信頼関係なんてないもの。無理はないと思うけど」
ソフィーヤは何とかして少女の懐に入ろうとしているが、ルカ・オベールという厚い壁を突破するのに難航している。少女はソフィーヤを軽蔑するような視線で見下ろす。その、少女の細腕には、無数の細かい傷がついているのが確認できた。
度重なる自傷行為によるものだと知れた。機械細胞がどれほど修復しても、また同じ箇所に傷をつけてしまうので、完全回復を待たずに新たな傷痕がつけられる。どれほど休みなく痛めつければそうなるのか。
ルカが、突然私の方を向いた。予期せず視線がかち合い、少女がますます視線を鋭くさせた。
少女は恐ろしげな視線をどうにかして演出している、という表情だった。切れ長の目に精一杯の迫力を宿してはいるが、少女の、年齢相応の幼さが打ち消してしまっている。それでも彼女の目は、憎悪であるかのような色を帯びているようだった。
脳波測定をしていたのなら、どれほど嫌悪の情に振れていたのか分からない。通常であればヘイトクライムの予兆として、倫理ネット中に嫌悪感が蔓延し、周囲にいる全ての者の脳幹回路に呼応することだろう。その瞬間から、都市警の網膜走査カメラにマーキングされ、問題行動が起こらないか否か監視され、という措置が取られる。カウンセリング目的の診察、そういう名目だからこそ見逃されているにすぎない。
「こんなことは危険ではないですか」
と、ルカの面談が終わった後、私はソフィーヤに提言した。ちなみにこの日のカウンセリングはうまく進まず、彼女と言葉を交わすことわずかに三言という少なさだった。
「彼女が嫌だって言うんだから」
「脳波を測らずに行えば、余分なストレスをかけさせても予防出来ません。心理的な負荷状態に晒されればPTSDの恐れもあります」
「だから負荷をかけさせないためにオフにしたんじゃない。どういう理由にせよ、あの娘が嫌悪しているのは何もフリーサイドに限らない、脳波測定の類が嫌だって言うんなら、あのまま続ければ相当のストレスになる」
「全てに従う必要はあるのでしょうか。悪意を事前に察知するのも脳波測定あってのもの。もし何かしらの暴力衝動があった場合、緊急避難行動をとることも難しくなります。プログラミングを施すならばまだしも、対面式のカウンセリングであれば脳波を測ることは当然であると思われますが」
「それがなければ出来ないっていうわけでもないわよ。そもそもそんなものを必要としない時代の手法だから」
「あなたの身の安全を保証するものです、ドクター」
はたと、彼女が立ち止まった。あやうくぶつかりそうになるところを身を引いてよけたところに、彼女が刺すような視線を送ってくる。
「あの子が不快だってことを、あなたはわざわざやるの?」
「しかしそれによって、彼女の自傷行為を見過ごすことになるかもしれないとなると、看過できる要求ではありません」
ソフィーヤは、少し斜に構えたまま、じっと私の方を見る。スクリーンを固着させたまま所員が三人、私たちの間を通過した。
ソフィーヤがため息をついた。
「だから危険だって言うのね」
「今は」
およそ自らを死に至らしめるということが、私には信じられないのだが、今でも自殺を試みる人間というものは一定以上、いる。その場合でも倫理ネットが有効な予防線であり、自殺願望はネットを介してすぐに伝わる。
「ネットを切るということは、つまりそれだけのリスクを負うこととなる」
「分かっている。けどあの部屋には、自らを傷つけるものは何もない。それに、行為に及んだら即座に止めるぐらいのことはできるよ。それに、いつもネットを切るわけじゃない。カウンセリングに費やすほんの数分間、接続を切ればいいだけの話よ」
「しかしそれでは」
「いいから」
そうやって強引に説き伏せる。いつもの通りだ。