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私の施設行きまで、あと二十時間というところだった。定められた出勤時間よりも早く、私は研究所のゲートをくぐった。
RNA鎖のオブジェが、私を迎えた。もう二度と目にすることはない巨大なモチーフを横目に、私はある場所を目指していた。
あれからの説明は簡素なものだった。私が送られる施設と、そこでの学習プログラムの内容を聞かされ、そこから二日間の猶予を与えられる。その間に世話になった人に挨拶でもしろということだったのだろうが、生憎私にはその類の知り合いが極端に少ない。シェン・リーにはせめて一言いっておこうと思ったが、回線が向こうから遮断されていてメッセージすら送れない。当然と言えば当然だった。
それで、もう一人。最後に伝えておくべき人物の所へ、私は向かっている。
時刻表示は、6:03と指している。本来なら勤務者がこれほど早く出勤することはあり得ないが、しかし彼女はいた。診察室の扉を開くと、いつものように白衣に身を包み、机に向かっている。
「随分早いね、あんた」
ソフィーヤ・テテリナは、今までのことなど全く気にかけないかのように、常にそうするように私に声をかけた。
「時間外労働は、ちゃんと申請出さないとだめだよ」
「もう私は、ここの所員ではありませんから」
「その割には、正面のゲートをくぐれたじゃない」
「それは」
と私は、背中の荷物をおろした。
「あなたが細工してくれたお陰です」
「バレたか」
ソフィーヤは柔らかく笑い、私に向き直った。
「これから施設に行く、って格好でもないね」
予想通りの反応が返ってくる。実際私の出で立ちは、誰が見ても異様なものだった。これから登山か、あるいは探検にでも出かけようという服装だったのだから。家にはろくなものがなかったので、防刃加工の、デザートパターンの迷彩上下と砂漠仕様のコートを購入し、それらを身に着けた。
「都市を、出ようかと」
「出て、どこに行くのさ」
「外縁に」
ソフィーヤは、驚きいたような声を出す。
「どうしてまた」
「あれから、色々と考えていました。倫理社会の正しさが、どこにあるのか。彼ら――阿宮たちは間違っていたのか。ルカに、たとえルカ自身を否定することになっても、生きるように言わなければならなかったか、などと」
「正しいと思ったから、そうしたんでしょう?」
ソフィーヤは足を組み、椅子に深く座り直して、
「ならば、正しいと言えば良い」
「それが実際、自信がないのですよ」
「なにそれ」
とソフィーヤは笑う。
「正しさを探して、それでも見つからず、最後はルカに選択させた。本当は私自身が選択したとは、言い切れません。だから今度は、私が選択する番だと思ったのです」
「選択するために、外へ?」
「私は都市の外を知りません。だから、自分の目で確かめようかと」
「脱走ってことか」
いつものように、気だるさを滲ませた笑い方。私がした行為と、その意味も。犯した罪とこれから行う罪も、何もかもを飲み込んだ風情がある。私のことも、ルカのことも、何も語らないし、語る必要もないと悟っているかのように。
ソフィーヤは卓上の写真立てに手を伸ばした。セルゲイと二人で写るそれを、指先で表面をなぞりながら、
「それで、ここに来た理由は」
と、ソフィーヤは手を離した。
「まさか、それを報告しに来たわけじゃないでしょう」
私は懐から、阿宮が最後の渡した記憶メモリを出した。それを見て、ソフィーヤの顔が若干こわばった。
「これに適合する機器を探すのに、苦労しました。ゲリラの世界ではまだまだ、シリコンチップが現役だったようで。中は、阿宮たちの一派が関わったこと。たとえば私の家の駐車場の、セキュリティをどう破ったか、とかも。全て暗号化されていましたが、見ることが出来ます。その中で、あなたの名を見つけました」
ソフィーヤは、覚悟を決めたような面もちで、私の目を見ている。
「最初、少し引っかかってはいました。あなたの夫、セルゲイ・テテリンの技術をゲリラが知っていたということも含め。偶然の一致とは、思ったのですが」
「偶然じゃないよ。彼らにそれを教えたのは、私」
そう、語るソフィーヤの目は、
「ついでに、脳神経回路にテキストを送り込む方法も、あとそもそもが都市に手引きしたのも。まあそっちは、他にも協力者がいるから、私一人でってわけじゃないけどね」
「あの集団自殺のときも、あなたが関与していたのですか」
「他の施設も、調べれば一杯いるよ。ゲリラの内通者が。都市警が躍起になって調べているから、私のところにも来るだろうね」
別に来てもいいけど、と言うソフィーヤの目に、かすかに涙が溜まっているように見える。ソフィーヤは目尻を押さえ、涙を拭うと、手のひらにスクリーンを現出させた。
「技術も価値観も、全部が全部合理的なものに変わりつつある」
スクリーンの表面をなぞると、色素が攪拌され、集合してゆく。まるで違う種類の砂がより集まり、一つの絵を作り出すチベットのサンドアートを思わせ、一つの像を生み出す。机上の写真立てと、同じ。セルゲイとソフィーヤが寄り添っていた。
「あんたが探すのに苦労したという、電子機器もハードなものからだんだんとソフト志向になり、そのうちソフトウェアだけで起動させる、粒子の無形CPUなんかが生まれ、人の神経と同調させることで完全に有形のコンピュータは消えた。合理性を、推し進めるうちに、サイバネティック技術もそれに従い、義肢から機械細胞、そして知性を粒子群に移すことで、究極の形態を作り上げよう、と。そうやってどんどん、効率的合理的に、って。人も物も、そうやって無形のものになることが正しいというようにね」
左手でスクリーンに触れながら、右手で写真立てに手を伸ばす。ソフィーヤは両方を見比べて、ややあってからスクリーンを消した。
「でも、写真とかの外部記憶装置ってものは、無形にすると意味がなくなるんだよね。忘れてゆくものを、強制的に思い起こさせるものでもあるわけだから、神経回路に蓄えておいても、いつでも取り出せるといっても、その作業すらも忘れてしまう。だから、無理矢理にでも形にして残さなければならない」
写真を持つソフィーヤの手が、必死に何かに耐えるように、小刻みに震えていた。
「大事なものは目に見えないとか、そんなのは嘘っぱちだよ。ちゃんと人間は、目に見えるものを信じている。人も、物も、目に見えてこそ認識できるし、自分という存在も、自我さえあればそれで自分になれるわけじゃない。他人からの、客観的な視点があって初めて自分を認識出来る。人間の社会性は、そういう所から成り立っている」
ソフィーヤは写真を置いて言った。
「でも社会というものは、同時にしがらみを多くするわけ。フリーサイドの創始者たちは、完全に自由で完璧な人権を欲した。その結果生まれたフリーサイドは、確かにその面においては成功したかもしれない。そこに行った者たちが、他の誰かから知覚出来ないとしても、主体は確かに生き続ける」
「あなたは、それに反発したのですか」
「あの人の研究が、あの人自身のためだったって、話したよね」
ソフィーヤは、全てにおいて達観したような口調で話す。もはや自分の罪も、私の罪も、何も関係がないというように。
「私も、あの人に生きてもらいたかったから、研究の完成を目指した。あの人の親族が、フリーサイドを薦めたけど、目の前にいるあの人が知覚できなくなるのは嫌だったから。でも結局、あの研究は実らなかった。あの人が衰弱して、自力で立てなくなったとき、親族連中から私は責められたよ」
「どうのように」
「あんたが自分の都合でフリーサイド行きを阻止するから、彼はこの世界で余計に苦しまなければならない、ってね。勝手な理屈をつけて、あの人を独占したいだけだろうと。夫である以上に、人間として個人の自由を尊重しろと。私がセルゲイを、夫婦感情という理屈をつけてセルゲイを縛り付けているって、思っていたんだろうね。最後の最後で、どうしようもなくなって、彼はフリーサイドに行った。しばらくは向こうから呼びかけてもくれたけど、それも三年もすると、なくなってしまったね」
「何故ですか」
「さあ。でもあなた、フリーサイドの片鱗を見たでしょう。どうだった?」
どうと言われても、はっきりと思い出せるものではない。何か意識が判然としなかった中で、心地よさを得ていたことは分かる。
「さっきの話に戻るけど、あそこじゃいくら自我を保っているといっても、それ以上のことはない。客観的に自分を見るものがないから、結局は集合意思に取り込まれてしまうんだろうね。フリーサイドの管理者も、委員会も、その辺の判断は曖昧だけど」
「セルゲイは、あなたのことが分からなくなったと?」
「確かめる術はないけどさ。どうなったか、なんて」
ソフィーヤは真剣なまなざしで私を見つめ、
「完全な自由を求めたら、この世から去るしかない。そうやって、欲望が無秩序的に広がって、人を自死せしめたことがあったんだよ。それを引き留めるための社会構造でもあった。多少のしがらみと、痛みを伴うとしても、自己の欲求を抑制する何かがなければ、人の欲望は際限がない」
潤んだ瞳に、私の顔が写っていた。
「自由主義者は、あらゆる制約を嫌って、フリーサイドを作り上げた。そうすれば理想のまま、意識だけで生きることが出来る。願望と情念のみが、あの場所にある」
やがてソフィーヤは、目をそらした。
「でも、そうまでしてあの人を生かして、私を忘れて。同時に、この世界で彼と過ごした時間も、思い出も、全て社会の制約として、好ましくないものとして判断されてしまった。私がフリーサイドに疑問を持ったのは、そのときからだった」
ソフィーヤは、涙を拭った。
「でも、あんたを巻き込むことなんてなかったよね。フリーサイドを否定するってことは、あんたを否定するってことだし。私は同時に、あんたに罪を負わせてしまった。ルカがここに運び込まれたとき、私は何が何でもあんたを関わらせないようにすれば良かったのに、全部一人で良かったのに……ごめんね」
涙がこぼれた。悔恨や悲哀や、どうしてそこまで流すことが出来るのか。ソフィーヤは一人、泣いていた。声をかけようとして、しかし私は言葉を飲み込んだ。こんな時でも、言葉を尽くそうとしている自分が、ひどくつまらないものに思えて。
私は黙し、ただ彼女の震える肩を見つめた。