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久しく呼ばれない、名を聞いた。名前というよりも、単純に外から見て識別できるか、そのためだけに与えられたコードだった。
ユーリという名は、ソフィーヤによるものだった。それ以外に呼ばれていたナンバリングは、略称でしかなかった。それ以外の名を呼ばれたことがなかったので、最初はそれが何なのか分からなかった。
「T-3425212――」
もう一度呼ばれる。私がこの世で最初に与えられた、識別コードを。
私は、立ち上がった。ただ一人。倫理院の広大な議場の中央で、与えられた私のスペースは、わずかに机一つ分ほどで、その周りを委員会の面々が取り囲む。
ルカが、自らを貫いてから十二時間後。彼女が息を引き取ってからは、およそ十一時間と四十九分後。生命維持装置も間に合わず、死に至り、彼女の死が各都市に伝えられ、狂ったバイオロイドの存在が明るみに出てから、わずか二時間後――私が覚えている情報はそのぐらいで、この場に引きずり出されるまでずっと、私は何かを考えていた。
委員会の誰かが、私の罪状を読み上げた。一番大きな罪は、殺人だった。立場上、彼女に鋭利な刃物など渡せばどうなるかなどと分かりきっていたことで、それを意図して手渡した罪は大きい。続いて、ゲリラの遺留品を勝手に持ち出したことなど。フリーサイドへのアクセスについては、なにも触れなかった。
「以上。間違いはないか」
委員長席に座る男の顔は判別できなかった。顔を見るのも、億劫になっていた。
「ありません。すべて間違いはありません」
私が言うのに、委員たちが唸る。一体全体、どのような間違いでバイオロイドが倫理規定に反したのか、と。
「君たちは、倫理を守るために生み出されたはず。そのような行為は、そもそもとれないはずだが」
「それ以上に私は人間です」
よくそんなことを、恥ずかしげもなく言えるなと。そんな憤りにも似た脳波が、そこかしこから伝わってくる。それでも私は顔を上げない。ただ手元だけを見ていた。
「人間だと、どうなるんだ」
「遺伝子や、あるいは脳に刷り込まれた情報だけで、行動が決まるわけではないと。あなた方がそう仰るように、私もそうしたまでです。自分の欲求に従い」
「それを押し殺そうとは思わなかったのか」
「思いました。だから私は、あのような形にしました。彼女が、自分自身どう選択するのか。私は彼女に約束しました。彼女の意思を尊重すると」
「だから、自殺に手を貸したというのか」
自殺。外縁の不合理な掟、イデオロギーに押しつぶされた人間が執る手段。その外縁の不合理さに抗するための倫理であり、その倫理を埋め込まれたバイオロイドが、自殺を肯定すべきではない。そういう理屈だった。
阿宮の言葉が、脳裏をよぎった。それが正義なのかと問う、阿宮の言葉を。
「私は、正しさを探しました」
どのような解釈をされてもよかったから、とにかく言いたかった。
「この倫理社会が、正しいと信じました。だから彼らの理論は間違っていて、非合理なもので、それを是正するのが私の役目であると」
「ならば、なぜその非合理さに迎合したのか」
苛立ちを露わに、委員長が言う。私は、拳を握りしめた。
「たとえば、彼らに。命だけあれば良いと説けば良かったのでしょうか」
ほとんど意図しないまま、言葉が出てきた。それでも良いと思った。
「彼らが生きてきた場所を否定し、彼らを育んだ全てを否定することで、彼らの非合理さを指摘し、それを正すのであれば。それは人格の否定であり、意思を尊重することとかけ離れた行為には、なり得ないのでしょうか」
正しさを探した。私は正しいのだと言い聞かせた。
たとえ阿宮たちの故郷が消え去っても。たとえ阿宮が妹と引き裂かれても。たとえルカが自分の生まれた環境を否定されても。たとえルカがフリーサイドを拒んでも――
それが正しいと言わなければならなかった。だから正しさを証明しなければならなかった。
「だが、倫理とは。人権とは、他者を尊重することではなかったのですか。外縁の社会は全て非人道的と決めつけ、こちらの正義を押しつけることが倫理なのでしょうか。その倫理によって、彼女は孤立していました。そのために、彼女が苦しんでいたのだとしたら」
ルカの、最後の言葉。聞き取ることは出来なかったが、その言葉は確かに――
「だとしたら、彼女は倫理に殺されたのだと。それを私は」
「もう良い」
厳然とした声。委員長は倫理社会全ての怒りを代表するかのように告げた。
「その倫理のもとに、我々は生きているのだ。かつて何度も繰り返した過ちを、もう二度と行わないための倫理だ。そしてそれを守るための、君たちバイオロイドだ。君の言葉は、自分自身の否定でもあるのだぞ」
それが正しさである。そんな、揺るぎない正義。分かりきっていたことだった。私には、もうそのような正しさを主張する根拠などないはずだと。
判決が下されるのを、私は聞いていた。厚生施設での再教育プログラムと社会奉仕。実質、この都市からの追放を告げ、査問委員会は閉会した。
「あの女のところにいて」
帰り際、アードニーが声をかけた。
「ちょっとおかしくなったのかしらね」
「なにがでしょうか」
あまり相手にしたくはなかったのだが、アードニーは私の進路をふさいでいる。
「それとも、あの娘のイデオロギーに感化されたのかしら」
「イデオロギーは関係ないです」
私は、アードニーを押し退けて行こうとした。
「私自身が決めたことですから」
「どうかしらね。外の連中とつきあううちに、洗脳されたのかもしれないよ。気がつかないうちにね。あなた自身、自殺願望がどこかで芽生えているかもしれないから、そこも直してもらったほうがいいよ」
「彼女は」
私は、それ以上アードニーの声が追いかけてこないよう、足早に駆けた。
「彼女は死にたかったわけではありませんよ」
「そうでしょうね。外縁のイデオロギーに毒されて、死にたいと無理矢理思いこまされて」
私は、立ち止まった。
「彼女は生きたいと、願っていました。社会から切り離された姿のままでなく、彼女の生まれた地で、切に」
「それがイデオロギーだって言ってるのよ。生きたいならば、機械細胞のままでも生きられるし、あなたが邪魔しなければフリーサイドで生き続けられたのに」
「そんなにフリーサイドが良いなら、まずあなたから率先して行けば良いのでは?」
私が問うのに、アードニーは忌々しげに唇を噛んだ。
「そういう問題じゃないでしょう。私が行こうと行くまいと、今私が話していることと関係ない」
「やはり」
私は背を向けて、
「覚悟がない、とは本当でしたか」
私は、そのまま歩き去ろうとした。
「ちょっと、待ちなさい!」
アードニーが追ってきた。私の肩を掴んだ。その手を振り払うのに、アードニーはすさまじい形相で睨みつけてきた。
「覚悟がないのであれば、そこに立つのは止めた方が良いかと」
アードニーは、まだ何か抗議してきたが、私の耳にはもう入らなかった。