36
前方の車を、追いかける。委員会の、電気式エンジンを搭載した公用車だ。自動運転で走行するそれには、アードニーと、ルカが乗っている。スモークフィルムを張り付けた窓ガラスでは、中の様子を伺うことはできない。
私は前の車を見据える。隣には、委員会から派遣された係官が座り、スクリーンを広げて何やらやりとりしている。前方の、アードニーと通信しているのだろうか。
特にこのフリーサイドへの転送作業に、カウンセラーが同行する必要など全くないのだが、ほとんどごり押しのような形で同行するようになった。
「珍しいこともあるものですね」
係官が、スクリーンを閉じた。
「何がですか」
「いえ、あなたのようなバイオロイドが、あそこまで主張するとは」
多分、この同行のことを言っているのだろう。私は少しばかり不可解さを覚えながら、
「私が主張をしないと思っていたのですか」
「いいえ。ただ、合理的判断を優先させれば、このことに特に意味はないはず。あなたのシリーズは、もっと合理判断に長けていると思っていましたが」
「遺伝子の配列や、脳神経回路ではそのようになっているとしても、常にそうとは限りませんよ」
私が言うのに、若い係官は何のことか分からないという顔をしている。
私は、何の気もなしに訊いてみる。
「あなたは、たとえば一日の摂取カロリーを越えて、糖分を欲することがありますか」
「カロリーは自動計算されますから。生体分子が糖分量を換算して報せるので、それはあり得ません」
「もし、人が全て遺伝子のプログラム通りに行動するのであれば、そういう計算もなしに糖分を摂取してしまうでしょう。原始の、まだ人類が定住をしていなかった時には、糖分は貴重なものだった。その本能が、遺伝子に組み込まれているのですから」
「は、はあ……」
奇異なものを見るような目をしていた。係官の顔に、困惑が浮かぶ。まさかこんなところで、認知心理学の蘊蓄を聞かされるとは夢にも思わなかっただろう。
「でもあなたはそうしない。理性でもって、摂取量を控える。私も同じですよ、必ずしも遺伝子によって行動の全てが決定されているわけではない。私も、そのような行動から外れることもあります」
人に、非合理さを捨てよと説いておいて、と。もし、この場にソフィーヤがいたら、あるいはそう言ったかもしれない。非合理なものを、合理的な判断に変える。カウンセリングであっても、プログラミングであっても、同じことだ。
だからと言って、非合理さを敵としているわけではない。合理性が全てなら、ソフィーヤの写真立ても、阿宮の刀も、ルカの紙細工も、全て非合理なものだ。そうしたものを廃してしまえば、待ち受けるのはフリーサイドのみとなる。この倫理都市は、何かを強制するのではなく、個人の考えを尊重するものであるとしたら、そうした非合理な装置を廃する根拠などない。
だが、委員会は、フリーサイドを推し進めている。彼らの信条、合理的でかつ人道的、しがらみも争いも、老いも死もない理想的な世界のために。その象徴として、外縁によって哀れにも両親と離ればなれになった少女を、送り込もうとしている――アードニーや、倫理的な人々が描くシナリオ通りに。
それが正しさだと信じている。
「着きましたよ」
つい考え込んでいたので、車が停まったことに気がつかなかった。前方の車から、ルカとアードニー女史が降りるのを見る。私も車を降りた。
五メートルほど、ルカから離れながら、私は回廊を歩いていた。相も変わらず簡素な作りで、彩りと言えば案内表示のスクリーンぐらいなものだった。先日、私がソフィーヤと共に入った広間とはまた別の、もう少し広い部屋に入る。半球状の天井を備えた広間には、スクリーン表示が無数に漂っている。ドーム屋根の真下なのだろう。
「さあ、ルカ」
アードニーが言った。ルカは、中央の椅子に座る。私たちは彼女を取り囲むようにして立った。
「これからあなたをフリーサイドに送るわ。大丈夫よ、何も痛いこともないし、目を覚ませばあなたの意識は両親のそれと合流する。前のように、失敗することはないわ」
優しく、諭すように、アードニーは完璧な笑顔を見せながら説明する。当のルカには、何も耳に入っていないらしく、うつむいたままだった。
「あなたが過ごした、外の世界みたいなことはない。きっと、すばらしい人生が待っている。だから、緊張しなくていいのよ」
緊張だとか、そういうことではなかった。ルカは明らかに、自分のすることを自覚してた。その発端を作ったのは紛れもなく私で、そして私も、彼女が何を成すか、気づいていた。
アードニーが離れると、ルカを包み込むように、粒子が光りを帯びた。白光を放ち、ルカの背中と、肩に、真綿のような光がまとわりつく。
ルカの膚が、変化してゆく。立体映像、あるいは粒子スクリーンが消えるときのように、ルカの膚が、空間に溶け込んでゆくのが分かる。砂糖菓子めいて崩れ去ってゆくそれは、彼女の分子配列が信号に変換され、徐々にフリーサイドの情報に還元されてゆくことを、表していた。
彼女の髪と、指先と。儚いほど薄い彼女の膚も、やがて光に包まれ、フリーサイドへその身を委ねてゆく。徐々に、徐々に。意識もすべて、フリーサイドの精神の野に。
ルカが目を開いた。私を見た。目があった数秒間、ルカの唇が動いた。何事かを、喋ったが、その意味はもう永遠に分かることが無かった。
突然、ルカが立ち上がった。還元がまだ続いている中で、いきなりのことだった。アードニーも、係官たちも、驚いて目を凝らしていた。
ルカが、懐から包みを取り出した。紫めいた、防刃布。それを取り払うに、中身が露わとなる。
銀色の、鉄。鋭角の刃物。彼女の兄の形見――阿宮が持っていた刀の欠片だった。外縁部隊に砕かれ、現場に放置されたものを、私が回収したものだった。
係官たちが動いた。アードニーが叫んだ。
「やめ――」
その瞬間。ルカが向けた刃の先が、ルカの白い喉を、貫いた。
一瞬、時間が止まったようになる。係官たちが、駆け寄るまもなく、ルカの体が、崩れ落ちた。
怒号が響いた。フリーサイドの転送が、止められた。ルカの周りを浮遊していたスクリーンが、緊急事態の警告表示に切り替わった。出血のグラフと脳波グラフ、その他諸々の医療警告表示が映し出される。
ルカの喉元から、血が溢れる。床の上に、血のプールを生み出す。ナノボットの人工血の黒が、ルカの白衣を汚す。布に浸透してゆく黒い血が、ますます色を濃くさせる。
係官が、医療用カプセルを用意しろと叫んだ。アードニーは驚きのあまり、血の気が引いていた。その場に座り込み、事態を飲み込めきれず、目を見開いたままだった
私はルカの元に歩み寄った。ルカの喉元から、風の漏れるような音がしていた。ルカは虚ろな目でもって、私を見上げた。
「こんなことを、言う資格はないと分かっているが」
私は膝を突いた。彼女の頬に、手を触れた。まだ彼女の膚は、温かみがあった。
「君を失いたくはなかった」
ルカは、最後に微笑み。
やがて目を閉じた。




