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特例などほとんど下りることはない。通常、フリーサイドへのアクセス権限は私にはない。アクセスへのパスコードは倫理院が保有しており、こちらからフリーサイドへ交信することは出来ない。
それでもその日、私は聖堂にいた。倫理院のパスコード、一時的にフリーサイドへのアクセスを可能とするソフトウェアを実装した、DNAチップを手にしていた。
「こういう措置は」
私を案内しながら、ソフィーヤははひどく不服そうに言う。
「特例中の特例だよ。本来ならあんたは、フリーサイドにアクセスなんて出来ないからね」
ちなみに、パスコードはソフィーヤのものだった。倫理員につてはなく、仕方なしに頼ることになった。ソフィーヤは、私の申し出を最初は断ったのだが、
「ルカのために、フリーサイドの下見をして、説得させるとかあなたが言うから。本当にそれが目的なのかどうか知らないけどね」
「私が嘘偽りなど言えないことを」
精一杯、脳波の乱れを押さえ込みながら私は告げた。
「よくご存じでしょう。倫理規定に逆らうことがどれだけ困難であるかを」
「どうだろうね」
生体認証を受けて、聖堂の中に入った。倫理員のパスコードさえあれば、ここへは何度でも入ることができる、とソフィーヤは言う。
「フリーサイドへのアクセスは」
私は歩きながら訊いた。
「何故制限されているのでしょうか」
「何故、ってもねえ」
回廊には、強化ガラスの柱が並び、その合間には案内表示のスクリーンが浮かんでいる。大理石めいた床と天井、他にはなにもない廊下を、粒子の膜が浮遊して、ある種の彩りにすらなっていた。
「フリーサイドから呼びかけることはあっても、こちらからアクセスするには制限があるのでは、本当の意味での自由化とは言えないと思われます」
「意識をそのまま転写するのが、フリーサイドだよ。当然、面倒な手続きもある」
ソフィーヤは広間へ通じる空圧錠の扉を開ける。パスワードを入力し、承認された後、重々しい扉が開かれた。
「もしただアクセスして、そのまま意識がフリーサイドに転写されたら、もう二度と戻ることはない。だからアクセスするにも、色々と手順を踏まなきゃならないんだよ。市民が勝手にアクセス出来るようになって、事故でも起こされちゃたまんないでしょ」
「あなたは」
私は、彼女の背中を見て言う。
「あなたは、フリーサイドにアクセスすることがあるのですか」
「開いたよ」
とソフィーヤは、私に入るよう促した。己の肉体と意識を転写する広間は、ただ広いだけの何もない部屋。白い壁に囲まれた、ルカといつも会うあの部屋を、もう少しだけ広くしただけの。
「余計なこと、考えなくていいの。あんたは本来、ここにはいない人間なんだから。アクセス出来るだけでも感謝しなよ」
それ以上の口答えなど許さぬという口調でもって言う。私は、中に入った。
「アクセスを開始するよ。十分したら自動的に切れるから、それまでにことを済ましなさいよ」
ソフィーヤは扉を閉めた。
一人、広間に残された。私は中央に歩み寄る。粒子の濃度は、これまでにないほどの量だと知れた。拡張視野で見る限りの数値は九十パーセントを越え、その粒子の中にはフリーサイドのそれも含まれている。たとえ粒子が死んでも、粒子群そのものは増大し、また配列を変えるため、そこにある意識はいつまでも生き続ける。今まさに、その中に私は身を置いている。
果たしてフリーサイドからは、こちらの姿を認識出来るのだろうか。出来るのだとすれば、どのような思いで見ているというのか。そんなことを想像していると、外にいるアードニーの声が、室内に響いた。
「始めるよ」
その言葉と同時に。不意に、膚がざわめくのを感じた。
目を閉じる。呼吸を止める。耳をすませる――私の体内活動が全て活動を停止したかのように、次には静寂が訪れた。自分の体の末端からが感覚が消失し、それこそ今ここにある意識が、暗転した空間の中をさまよっていた。
目を開いた。実際は開いていなかったのかもしれない。それでも見た。
光が差し込んだ。白昼めいた眩しい光だが、それを眩しいとは感じなかった。
オベール、オベール――
呼びかけた。意識は途絶えることなく、探していた。ルカの両親、その波長を探した。
オベール、オベール――
光の中に飛び込む。まるでそれを、最初から望んでいたかのように、あるいは予定されていたかのように引き寄せされる。ひどい眠気と、意識の混濁と、心地良さとが、満ちてくる。
暗転。膚のざわめきが大きくなった。すさまじい刺激がかけ、神経が灼ける感覚がした。再び自分の肉体が、戻ってきて、私の体中を焼いた。
強制射出。
針で貫かれている。指先から神経の奥に入り込み、体内で暴れている。思わず声を上げる。その声すらも聞こえない。
灼熱、灼熱、灼熱。
次にその感覚がおそってきたとき、意識がはじき出された。衝撃を受け、目を開き、息を吐いて起きあがる。周りを見ると、聖堂の白い壁が目に入り、私は大理石の床に伏していた。どうやら気づかぬうちに倒れこんでいたらしい。
額を拭う。ひどく冷たい汗をかいている。私は起きあがろうとしたが、足が立たないことに気がつく。
「何が――」
漠然とした記憶を頼りに思い出した。私は確かにフリーサイドにアクセスした。そこでオベール夫妻の波長を探し――しかしそこから先の記憶が曖昧だった。
時刻表示を見る。まだ五分も経っていない。ソフィーヤは十分経ったら交信を切ると言っていたのに、これはどういうことなのか。
「思ったより短かったね」
入り口で声がした。視界がぼやけるのに、私は目を凝らして声の主を見る。曖昧な輪郭が、徐々にはっきりしてきて、その姿を知覚する。ソフィーヤ・テテリナの姿を見て、私は少しだけ安堵した。
「時間には早いのでは」
「早くて正解。あんた、あのままだったらフリーサイドに呑み込まれていたよ」
「呑み込まれるとは」
「分かったでしょ、アクセスできない理由が」
ソフィーヤは私を助け起こそうと手をさしのべた。
「あそこは少しでもアクセスしようとすると、集合意志の中にとけ込んでしまう。よほど強固に拒否しなければ、いつの間にかフリーサイドの一部になってしまうんだ。意識が混濁して、自分の意識がそのままフリーサイドの意識となり、フリーサイドの思考がそのまま自分の思考になる」
彼女が何を意図して言っているのか、私には見当もつかなかったが、とにかく私は立ち上がった。神経がまだところどころ断ち切れたように、痺れを残している。
「強制終了させたんだよ、今。意識が一つになる時というのは、それは心地よいものらしいけど、そこから無理矢理引きはがすとなると痛みが伴うみたいだね。あんたも結構、痛がっていた」
「痛みですか」
神経接続など比較にならないほどの強烈な刺激が、まるで四肢を引き裂かれたような心地にさせていた。それが痛みというのならば、痛みで間違いないのだろう。ひどく不快な感覚だった。
「フリーサイドでは、苦痛というものはない」
ソフィーヤは、肩を竦めて言った。
「苦痛や、しがらみや、そういうものから全て解き放たれたい者が、フリーサイドを目指す。この都市で、倫理に守られても尚、苦痛は消えることがない。結局、肉体がある限り、苦痛の原点は消えないから。だから意識だけで住まうフリーサイドに、一切の苦痛はない。あんたも、心地よかったんじゃない? 呑み込まれかけて」
正直に言うべきかどうか迷ったが、はっきり言ってその通りだった。このまま、意識の中に呑み込まれても良い、とちらとでも思ったことは確かで、しかしそれを口にするのもはばかられたので黙っていると、ソフィーヤは微笑を洩らして言う。
「別に恥じることじゃないよ。そういうように出来ているからさ。意識が一つにとけ込み、老いや死の恐怖からも解放されて、痛みの元である自分の体もない。その先には集合意志の一つであるという安心感だけが残る」
「それならば、個人の意識が消失してしまうのでは」
「そうではないね。フリーサイドを構成する一つにはなるけど、個人の意識が消えるわけじゃない。だって全体の意識が、自分のものになるわけだから。ただ、それでも外側の人間から見たら、どこに個人の意識があるのかなんて分からない。オベール夫妻の意識も、分からなかったでしょう」
「気づいていたのですか」
私がオベール夫妻の意識を探していたことを。ルカがこれから向かう世界で、オベール夫妻がどのように迎えるのか、そしてその世界がどういうところであるのか。その確認を行うために、アクセスしたことを。
「薄々ね」
ソフィーヤは腕を組み、
「委員会の言い分は間違ってはいないよ。ルカがフリーサイドに行けば、オベール夫妻の意識とも融合し、ルカは永遠に心地よい世界で生き続けることが出来る。両親の意識と共にね。ただあんたが外から見たとしても、向こうはもうあんたを知覚することはないだろうけど」
私はなんと言って良いのか分からなかった。ルカは、自分が自分でなくなる気がしていると言い、機械細胞を嫌っていた。機械細胞を傷つけ、痛みがないと嘆いていた彼女を守るための世界の実体が、これだと言うのならば。
「ルカの望みとは、まるで逆ではないですか」
私は、まともにソフィーヤの顔を見ることが出来なかった。少しでも目をあわせると、何を口走るか分からなかった。ルカのためと言っておきながら、ルカの望みとは違う世界を提供する。それが、ソフィーヤのせいではないと分かっていても、何かしらの悪態をついてしまいそうだった。
「そうかもしれないね。でも、彼女の望みを叶えることが出来ないならば」
その先の言葉が、しかしソフィーヤも口にすることが出来ないようだった。奇妙な沈黙、それがその先が何もないことを、如実に語るように。
やがて、口を開いた。
「時間だよ、ユーリ」
そう告げるのがやっと、という風に。