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「自由主義は加速している」
シェン・リーが、複雑な波形が刻まれたスクリーンをなぞって言った。
「何だそれは」
「フリーサイドが出来たときの、創始者の言葉だ。彼女の両親が思い描く理想でもある、あらゆるものから自由になるための究極形態ってね。彼らだけじゃなくて、結構都市の内部には多いらしい」
私は、フリーサイドの歴史を思い出そうとしていた。国家群がまだ存在していたとき、当時のアメリカ合衆国で完全自由を模索していたリバタリアンたちによって、自らを肉体のくびきから解放しようと設立された教団が、後にフリーサイドの原型を作った、それが始まりだったと記憶している。
「医療が発達して、侵襲式のナノボットを体に入れてでも、逃れられないのが死と言うものだ。病や老いから来る一切の苦痛や恐怖から解放されても、死というものがどうしようもないのが現状だってな。でもフリーサイドならそういうことはない。あそこに行けば、人類最後の課題が解決出来るって、そういう思想だ」
「機械細胞や機械義肢や、選択肢はありそうなものだが」
私は、ガラスの向こう側を見た。向こうからはこちらの様子が見えないようになっている。ガラスを隔てた先にいるのが、ルカ・オベールという少女。三人の所員と対面している。彼らはカウンセリング要員ではなく、私と同じプログラマーだった。名前から始まり、出身だとか服の好みだとか、当たり障りのない会話で緊張を解こうと試みているが、少女はうつむいたまま口を開かない。それどころか、迷惑がってもいる風でもある。
シェン・リーの手元に広がる脳波グラフは、急激にではなく微かに変動していた。脳波測定の非侵襲型インターフェースがナノボットを介して、一秒刻みでナノボットから情報を送られる。その脳波の記録は明らかに嫌悪の値に振れていた。あまりにも激しい変動は個人の人格権を損ねると判断されるが、今はまだそのレベルには達していない。
「機械細胞だって、充分苦痛を和らげてくれる。義肢は傷つくことがない。確かに良い選択だけど、フリーサイドならば苦痛そのものがないらしい。精神の末端にまで、安らぎを与えてくれる。自己複製する分子に意識を移せば、ほぼ永久的に生を享受できるってね」
「それは誰の言葉だ」
「どこぞのフリーサイドシンパの議員が、ウェブニュースでちょっと」
それだけのことを記憶している、シェン・リーに賞賛の声を送るべきなのかどうか、一瞬迷ってしまう。
「フリーサイドか・・・・・・」
かつて存在した国家群に反逆する形で生まれたフリーサイドは、今や世界中に拡大し、今もまだ増殖し続けている。ライフスタイルの、新たな形として。またターミナルケアや生命保護の手段の一つとして。人権委員会もその存在を認め、規制緩和の動きも活発となっている。私を初めとしたTXシリーズも、こうした動きの中で生み出されたと聞く。フリーサイド中での思考形成という、新たな試み。
「彼女の親は、フリーサイドにあこがれるあまり、違法業者に依頼したらしい。で、方法が不完全だったのか知らんが、彼女の両親はフリーサイドに転写されたものの、あの子一人が残されてしまった。そういうことみたいだね」
よくある話だ、とシェン・リーはため息交じりに言う。
「あの少女」
と私は口にしていた。
「何だって?」
「いや、南フランスで保護されたと聞いたが――何と言うか、顔つきが欧米人らしくない」
「容貌や容姿についての不用意な発言は、人権侵害になりかねないぜ、ユーリ」
人権侵害と言う割には愉快そうに笑う。よく笑う男だった。ここに赴任してから、彼ほど表情豊かなバイオロイドには未だお目に掛かれていない。
「さっきは画像の乱れかと思ったが、どうもそうではなかったようだ。彼女の両親もフランス生まれだと聞くのに、彼女――ルカ・オベールの顔立ちは、お前に似ている気がする」
「そうだよ、だって。あの子は東洋系だから」
「と、いうと」
「養子なんだってさ、オベール夫妻の」
シェン・リーは別のスクリーンを呼び出した。私の目の前に現出させたかと思うと、数秒とおかずに情報を刻みつけた。
「元々あの子は、外のゲリラ村で保護されたらしい。十年ぐらい前に、都市外縁のゲリラから、身寄りのない子供を保護して養子に迎えるってプロジェクトがあった。極東のゲリラから保護されて、オベール夫妻が希望して、戸籍を取得した、それがあの子だ」
スクリーンに、シェン・リーの発言を裏付けるような情報が羅列される。人権委員会の、孤児受け入れ事業のデータだった。
「元の名前は何と」
「アミヤ・ルカ、と言った。漢字表記だとこんな感じ」
シェン・リーは人差し指で、空中に文字を書いた。シェン・リーの指が動いた通りに、ナノボットの採光がトレースし、金色の文字を浮かび上がらせる。もう既に廃れて久しい象形文字だった。当然読むことは叶わず、『阿宮瑠香』と不可解な形を持つ彼女の名はどこからが名前でどこからが姓なのか、見当もつかなかった。
「下の文字、『瑠』と『香』でルカって読む。それが名前。極東でも珍しい名前と苗字らしいけど、まあともかくあの子はゲリラたちの中で死にそうだったところを、人権委員会に保護されたわけだ。でもその時募集した夫婦はきちんと審査されて、その上で里親になったわけなんだよな……」
シェン・リー、まるで感慨深い場面に出くわしたような、遠い目をする。脳波測定で細かく人格を精査したはずなのに、その両親が何故フリーサイド行きを希望したのか、疑問であるようだった。しかしフリーサイドに行く人間は、人格に特別問題があるわけでもなく、第一都市内に住む人間が異常人格者であるはずがない。本当に普通の人間が、フリーサイドに憧れを持つのだ。
丁度ガラスの向こう側で、所員が彼女の両親について質問を投げかけていた。君の母親はどんな人なのか、といった類の、やはり当たり障りのない話。両親の話になると、彼女の脳波は少し落ち着きを見せた。例え言葉では両親を讃えても、脳波が恐怖や嫌悪を示すことがある。その場合は虐待が疑われ、親の人格に問題ありと判断される。しかし今はその兆候は見られない。
「オベール夫妻は、彼女にとっては良き親だったらしいな」
とシェン・リーは言う。シェン・リーにとっての「良き親」とはどういうものなのか分からないが、少なくとも虐待などは無かったのだろうと伺える。もっとも、倫理ネットは児童虐待や育児放棄に対応しているから、多くは被害者を出す前の早期発見が可能となっている。ナノボットが倫理思考を監視し、常に他者と共有している中では、突発的であっても殺意や敵意を生じさせることは少ない。衝動が高まれば、脳神経回路がホルモンの分泌を抑え感情を鎮め、大事に至る前に都市警に通報が挙がる。虐待やあるいはヘイトクライムを防止する、理想的なテクノロジーといえた。
「でも、あの子何も喋んないな」
「緊張しているのだろう。いきなり心を開いてくれる患者などいない」
「そうかねえ、まあ気長にやるしかないか」
「気長に、というのもまた違うだろう」
私が言うのに、シェン・リーは怪訝そうに目を細めた。
「どういうこった」
「フリーサイド転送による副作用、というか。DNAを情報に還元する際に、うまく転写出来れば良いが失敗すれば肉体に負荷をかけることになる。違法な業者ならばそれも当然、その結果として彼女の体内機能が失われてしまった」
「だから機械細胞にしたんだろう」
シェン・リーがデータを見ながら言った。彼女の体が、機械細胞によって大半が占められていることを示すデータだった。外部で精製したDNAを元に、金属分子を増やす機械細胞は、移植自体は難しいことではなく、自己複製によって元々の細胞が機械細胞に置き換わるまでに時間はかからない。
「その副作用のせいで、この子は機械細胞で補填せざるを得なかったと」
「データによれば、機械細胞に補填した後から異常行動が見られたらしい。なぜか、自分の体を傷つけるようになった。それもただの自傷行為でなく、手首を切り首を切り、よからぬ薬品を飲み込んだりして、そうだな。自殺未遂を何度も繰り返した」
「自分の体を? 自分で?」
シェン・リーは信じられないという様子で聞き返す。当然といえば当然の反応だった。都市の中にいて、そんな奇特な行為を繰り返すものなどいないだろう。シェン・リーはさらに訊く。
「原因は分からないのか」
「今の所はまだ。ただそのせいで他の体組織は崩壊を続け、そのたびに機械細胞が修復し、それを繰り返していくうちに機械細胞が九割を占めるまでになった。あの機械細胞は、修復と同時に元々の生体部分を補強する作用もあるからな」
「心のケアが必要ならば、さっさとプログラムを組めば良かろう」
「プログラムを受け入れないんだ、彼女は。治療自体を拒否する。残った方法が原始的なカウンセリングで、何とかプログラミングを受けるまでの心境に持っていこうということらしい。ただ彼女自身の攻撃的な衝動を抑えないと、治療も難しいらしい」
「いくらプログラムを拒否するといっても、強行手段に出るわけにはいかないのかね」
「人権委員会は承服していないようだが」
再びガラスの向こうを見る。四方を真っ白い壁に囲まれた広い室内の真ん中に、少女が一人座っている、その光景がやたらと少女の違和感だけを際立たせる。ただ一つだけ色のある、異物めいた存在に見えてしまう。彼女の纏う白い衣に落ちる、長くて細い艶めいた髪色は黒に彩られ、それだけでもやたらと目立っているせいだろうか。
所員の一人が、フリーサイドについての質問を投げかけた。その瞬間、いきなり脳波が波を打った。嫌悪の値に急激に振れ、悪意とすら取れる感情が現出した。
「まずいな」
シェン・リーはマイクを引っ掴み、所員に指示を投げかけた。
「今日はここまでだ。患者にストレスがかかる」
言うと、所員たちは早々にスクリーンを閉じた。あまりに激しい嫌悪の感情が続くと、精神的に悪影響であるとされ、カウンセリングは中断される。
「今の、どう思う」
「フリーサイドに、あまり良い感情を持っていないようだな」
どう思うも何も、見たままの結果を私は口にする。それ以外に判断のしようもない。シェン・リーはデータを閉じて、
「まあ、違法業者に掛かってあんな体になったんなら当然か。しかしフリーサイドを否定されちまうとはね」
シェン・リーは何か同情めいた視線を向けた。ルカの境遇を、理解しようと努めているようだった。
「フリーサイドがどんだけ良い所かって、教えてやりゃいいんじゃないか? ユーリ」
「何故私が」
「だって、お前。フリーサイドが古巣なんだろう? 俺らみたいに、コンピュータで意識を形成したのとは違う、フリーサイドの集合意思によって思考を生み出されたんだったら、あそこがどんな所かって分かるんじゃねえか」
「分かるわけないだろう」
スクリーンが、また砂糖菓子のようにさらさらと崩れてゆく。完全に無くなったところで、私は立ち上がった。
「フリーサイドにいた、という言い方は誤解を招く。TXシリーズが思考を形成したとは言っても、意識があったわけではない。どんな場所なのかと問われても」
「冗談で言ったのにこのカタブツは」
シェン・リーは苦笑した。
「お前さん、真面目すぎて頑固なところあるよな」
どうやら、それがこの研究所での、私に対する共通認識らしい。今更訂正する気にもなれず、私は黙って立ち去った。