29
夕闇が覆っていた。
つい三週間前ではまだ明るかった時間帯も、冬が近づくにつれ徐々に日が短くなってゆく。日が傾き、橙の陽光が赤紫を帯び、あきれるほど明るかった周りの空間を濃い群青に染め上げつつある。すでに街の灯がともり、高速を車の列が成し、LEDの白色電光が尾を曳きながら流れている、そんな時刻だった。
ナビゲーションシステムが導くまま、私は家路を辿っていた。郊外の共同住宅街までは、混雑がなければ十分とかからない。そして先日のように、交通システムに狂いがなければ混雑はあり得ないことだ。都市の動脈が高速とすれば、生体分子が体内の恒常性を保つように、交通を監視し、あるいは誘導しながら車両を管理している。
それも狂いがなければの話だ。どのようにしてシステムに侵入したのかわからないが、先のようにシステム自体が狂ってしまえば、渋滞が生じる。我々は常に完璧でなければならず、完璧以外の選択はあり得ない。それはすなわち綻びでしかなく、途端に生活の基盤ごと崩されてしまう。 だからこそ、都市警も倫理院も必死になっている。都市のシステムに綻びがあれば、倫理そのものが崩されかねない。外からの暴力を招き入れてまで、止めたいものがある。社会そのものを守ろうとする理論は、外のゲリラとあまり変わらない。
私は高速を降り、住宅街へと車を進める。その先は工業地帯、そこを抜ければ共同住宅に至る。
その道の途中、一人の女性が道を歩いているのが見えた。いくら監視システムが働いているとはいえ、こんな場所を女性が一人で歩くこと自体が珍しい。私は彼女を追い越して車を停め、窓から身を乗り出した。
声を、かけようとした。道に迷ったか、あるいはどこか体の調子でも悪いのか。いずれにしても放っておくわけにもいかなかった。
「どうしました?」
そう問いかけてみたが、返事はなかった。もう一度呼び、彼女の顔を覗き込んだ。
女性の目には、全く生気というものがなく、虚ろでどこを見ているのかわからない。顔は病人のように青ざめていた。ただ病人であるならば体内の生体分子が異常警告を発し、周囲の人間に伝えるはずであるのに、その気配は全くない。ということは、健康に異常はないのだ。ただ私が見た限りでは、病人そのものにしか見えない。
私は車を降りて、彼女の元に駆け寄った。話しかけるが、何もしゃべらず、私を押し退けて歩き――足取りもおぼつかない――何かに向かって、のろのろと歩を進めていた。
「ちょっと待って。君は一体どこに」
私はそう訊いた。我ながら馬鹿馬鹿しい質問だとは思ったが、最初に口をついた言葉がそれだったので仕方がない。
彼女は一度、振り向いた。口の中でぼそぼそと何かを呟く。多くは聞き取れないが、一つだけ分かる言葉があった。
「ナツィオ……」
耳を疑う。もう一度聞き返すまでもないほど、その単語だけは鮮烈だった。とっくに回収されて消却された本の題名を、この女性が口にするということは、つまり彼女は自殺願望者なのだ。
「ナツィオ」
建物の陰から、別の人物が現れる。同じように虚ろな目で、ただ空の一点を見据えて。また一人、二人と人は増え、皆一様に同じ方向に向かって歩いてゆく。気づけば沿道には数十人と人の群が出来ていた。
呆気に取られていると、マクガインから通信が入った。網膜の拡張視野を通じて、私は回線を開いた。
「ユーリ、そこにいるのか。今どんな状況だ」
頭の中にマクガインの声が響いていたが、私はどう言ってよいか分からなかった。
「分からない……皆、同じ方に……凄い人数」
多分、聞いている方は相当の理解力を働かせなければならない説明だっただろう。マクガインは回線越しに舌打ちして、
「今、あっちこっちで通報が入った。郊外の都市住人が大挙して、門を目指しているって」
都市の円周を囲む、門と呼ばれる障壁は、通常は堅く閉ざされている。他の都市に移動するでもなければ、一般人は近づこうともしない。そんな場所を徒歩で目指せば、どれほどの日数を要するか分からない、などと。私はそんな愚にもつかないことを考えていた。
「今、都市警がそちらに向かっている。俺もそっちに行くからな」
そう言って、マクガインは通信を切った。私は彼らの見据えている先を見た。人々は道一杯に広がって、ただ進むという意志だけで歩いている。その先にある門を目指して。
門付近は、工業地帯となっている。
石油が世界を席巻し、争いの元になるまでに貴重な存在となっていた二十世紀ほどではないにしろ、石油が数あるエネルギー源の選択肢からあぶれることはなかった。徐々に天然由来のガス体エネルギーやバイオマスに押されつつあっても、完全に排除されることはない。石油は工業製品として用い、さらにそれらに付随したプロパンなどは液化ガスとして利用される。
その、液化ガスの精製施設だった。旧型の化学プラントとガスタンク、錆びた鉄骨で編み込まれた解剖模型じみた工場には、毛細血管のように入り組んだ配管構造がある。微かに鉄とガスの匂いが漂い、充填場の機械音が唸っている。ここだけはまさしく、外縁のそれとそう変わりない、産業革命時代そのままを写したような工業施設が広がっている。
人々の群は、工場の合間を抜けながら歩いていた。私も彼らに混じって歩く。完全に理性を失っているかのように見えて、実際は規則正しく、群衆は整然としている。列を乱さず、規律正しい亡者の行進と形容出来そうだった。
どうするべきか、迷った。ここで一人を取り押さえれば、おそらくは他の誰もが気にもとめず行進を続けるだろう。しかし一人だけだ。一人押さえ込むのに精一杯で、その他大勢を救うことは出来ない。その一人ですら、私の腕力で抑えきれるかどうか、分からない。
そのとき、上空でヘリのホバリング音がした。私の真上を飛び越える黒塗りの機体は、透明羽を目一杯広げ、その羽を昆虫のそれであるかのように羽ばたかせている。よく目をこらさなければ、三角錐の物体が浮かんでいるようにしか見えない。その腹からは、大型の銃器らしき先端が突き出ていて、都市警にしてはやけに物々しい装備に思えた。
群衆がふいに止まった。私は道の先を見た。群衆から五十メートル先、灰色の装甲車が三台停まっている。彼らの行く手を阻むように、黄色の簡易バリケードが道を封鎖し、装甲車の上とバリケードの前には屈強そうな男たちが立ちはだかっている。
都市警とは明らかに、格好も装備も異なっていた。赤と緑のジャングルパターンの迷彩服を着て、エンジ色のベレー帽を被っている。持っているのは、都市警の短針銃や電気銃とは違う、もっと無骨な小銃だ。装甲車は、威嚇専用の都市警のものとは違い、複合チタンと思われる鉄板を何枚も重ねたつくりとなっている。車体には所々煤けたあとすら見えた。その側面には、ヘリについていたものと同じ――赤い羽毛の猛禽が羽を広げた意匠。鋭い目つきは、黄金色をしている。
「今すぐに引き返せ。警告を無視すれば発砲する」
拡声器で、告げる声。無機質じみた警句と共に、バリケードの前にいた兵士たちが小銃を構えた。まさか、本当に撃つはずはない、そう思っていた矢先、兵士の銃口が一斉に火を吹いた。
銃声がした。上空に向けて撃った威嚇射撃は、鼓膜どころか体の芯に響くような、そんな音だった。群衆は止まらない。もう一度撃つ。発射炎が横一列に、黄緑の華めいて咲く。
先頭集団の、足下の地面がえぐれた。彼らの進行を止めるための威嚇射撃だった。それでもゴム弾や電気針では、アスファルトを打ち抜くだけの威力はないはずだ。
「止まれ」
命令する声。先頭の兵士が発砲した。
群衆の一人が、足を押さえて倒れた。太股から血を流し、うずくまって苦痛に身悶えしている。非殺傷性の武装しか認められない、都市警の銃ではない。やはりあれは実弾なのだ。
「外縁部隊が」
後ろから声をかけられた。振り向くとマクガインが口惜しそうに歯噛みして、群衆を見ている。
「ここまで早く入り込むとは」
「許可を出したのか」
「まさか。だがこの事態、都市警じゃどうにもならないな」
まさしく敗北宣言に等しいことを言うが、マクガインの言葉通りだった。一人が撃たれて、群衆は明らかに動揺していた。それでも進もうとするのに、兵士たちは足下を撃ち、肩の辺りギリギリを狙い、あるいは群衆の頭上を撃つ。いつ当たるか分からない、そんなタイミングで。
「安心しろ。外縁の連中、射撃は慣れているんだ。あれで外すことなんざ絶対にない。死の恐怖を、ああやって想起させて自殺を思いとどまらせようってんだろ」
「そんなやり方――」
「ああ、クソだよ。でもどんだけクソでも、人死には出なけりゃそれに越したことはないってことだろうよ」
兵士たちが撃つ。群衆がそろそろと、後ずさりを始めた。それでも前に進もうとする者がいれば、足を撃つ。皮膚をほんの数センチえぐるだけの射撃で、致命傷にならぬように撃ってはいるものの、都市の概念からすれば信じ難い暴挙だ。
「これが外縁というものか」
マクガインが呟いた。どうにもならない現状を傍観するしかない、悔しさが滲んだ物言いだった。市民に銃を向け、恐怖で操る姿には、もはや倫理的などとは全く当てはまらず、しかしそれでも群衆には効果的だった。
「どうするんだ」
と私が訊くのに、
「とりあえずここにいても仕方がない。お前は早く戻ることだ。あとは連中と連携して、ことを収める」
マクガインはそう言うと、短針銃を取り出す。早く去れというマクガインの言葉通り、私は逃げまどう群衆と一緒に、その場を去った。