26
突然、網膜の裏に通信が入ったことを告げるシグナルが点滅した。ソフィーヤかと思ったが、ソフィーヤとは違うパターンを示している。文字列が、拡張視野に表れるのに、私は声を上げそうになっていた。
レイラ・アードニーの個人識別信号だった。一度、言葉を交わしただけであったにも関わらず、なぜ私の識別信号にアクセスできたのか、そんなことを疑問に思う間もなく、診察室の空気ロックが外れる音がして、三人分の靴音が進入してきた。
「ずいぶん殺風景なところでやっているのね」
黒服二人を従えて、紺色のスーツのレイラ・アードニーが入ってくる。まるでこの診察室はすでに委員会のものである、と公言するかのような振る舞いだ。
「久しぶりね、ユーリ。元気だった?」
「委員直々にお見えになるとは聞いていましたが」
私はルカを背中側に隠すように、立ち上がった。ルカが明らかに敵意を帯びた目で睨んだのが見えたからだった。
「主治医は生憎、遅れてくることになっています。面談は、彼女の許可が必要です」
「ソフィーヤが遅れるって、珍しいわね。何かあるの」
理由は聞いていない。私には今朝、遅れるとだけメールを寄越しただけだった。面談に関しては私に一任されているので私はルカに会っても支障はないのだが、他の人間を会わせるなると話は別だ。
「大変申し訳ないが、主治医が来てからにしてもらえませんか。今はまだ」
「なんかナノボットの濃度、薄いわね。含有率十パーセント以下ってところ? こんな中じゃ脳波なんて計れないわね」
アードニーは私のことなどまるで気にかけていないようだった。ルカを見かけるなり、満面の笑みを作った。
「初めまして。あなたのことは以前からよく知っているわ、ルカ。今度のことは大変だったわね」
アードニーはおそらくどこに行っても、誰にでもそうしているであろう、社交辞令から入った。ルカがどれほど敵意むき出しにしても関係ないというように。
「今日はどうしても、直接会っておきたかったの。あなたはたぶん、フリーサイドを誤解しているんじゃないかってね。ちょっといい?」
アードニーは私を押し退けて、ルカの対面に座った。何を遠慮する必要があるのかという態度で、ガラス板の端末を取り出して、文字列を打ち込むと一つの画像を映し出す。
「あなたはゲリラの掟を、守らなければって思っているかもしれないけど」
ルカの眉が動いた。アードニーは気づかない。
「けどね、フリーサイドってそんなに悪いものじゃないのよ。たぶん、あなたのご両親から話は聞いていると思うけど。あそこは苦しいことや痛いこと、死ぬことや老いることもない」
アードニーは一方的に話を進めている。カウンセリングの基礎など、全く無視している。ルカは拳を作って、うつむき、じっと話に耐えている。
「もちろん、この都市内でも同じように苦痛から解放される術はあるけど、それでも人間同士の諍いは絶えない。だけどフリーサイドならば、そのようなことはないわ。個人が尊重されつつも、互いに感情を共有できる。電子に変換されているから、傷つくこともない」
「委員、少し控えて――」
「あなたは黙って、ユーリ」
アードニーは、どうしてもフリーサイドのすばらしさを伝えたかったようだ。これ以上ないほど強い口調で私をたしなめた。
「もちろん、外縁にある因習やしきたりに縛られた、不合理な思想の押しつけもない。個人が集団に埋没させられ、自由を制限されたりすることもないわ。あなたもゲリラ村にいたことは、そういうしきたりに縛られていて。ううん、それについてあなたは、自分を責めなくていい。だけどそういう不合理な因習のもとでずっと我慢していてそれに慣れてしまったから、きっと嫌なものも嫌って言えなくなったのよね。だからフリーサイドも、ゲリラが忌避するなら自分も忌避しなきゃって、そう思っているのよね?」
確信を持った言い方。アードニーにとっては、絶対的に正しいこと。しかし。
「あんたは」
ルカは、うなるような低い声を発した。
「あんたには、分かるってのかよ」
アードニーはしてやったりというような笑みを浮かべた。
「そういう人って、ずいぶん見てきているわ。ゲリラのイデオロギーに洗脳されて、自分で判断できないって人はね。でも私がそういう人たちにフリーサイドを薦めてあげるの。最初はいやがっていても、後で説得して、フリーサイドに行ったあとは幸せそうに暮らしている。そうすると私はよかったって、思うの。人間を押し殺す、外縁のしきたりに縛られて人生を終えるなんて、人として間違っているからね。今でもそういう生活を選択して、都市の生活すら忌避する人たちがいるけど、私はそういう人に言ってあげたいわ、そうやって洗脳されたままでいいのって。きっと皆、本当は都市の生活に憧れているのに。かびの生えた掟で、選択を狭めてしまうのね」
ルカの細い肩が、小刻みにふるえている。もはやその目に少女らしい柔らかさなど、微塵もなかった。今まではそれでも、幼い面影を残していた横顔も、すでに敵意そのものでしかなく。
「だからね、あなたにもフリーサイドをもっとよく知ってもらいたい。そのために私もできることを――」
最後まで発することはできなかった。ルカは立ち上がると、右の拳で、アードニーの頬を張った。
アードニーが派手に椅子から転げ落ちた。隣の黒服があわててルカを止めに入ろうとしたが、それよりも早くルカはガラス端末を拾い上げ、黒服の顔面に思い切りたたきつけた。
ガラスが砕け、黒服の一人が顔から血を流して倒れる。もう一人がルカを押さえつけるが、ルカはガラス片を男の手に突き立てた。拘束がゆるんだところで、男の顔に切りつける。黒っぽい機械血が飛び散り、白い壁を汚した。
「あんたに何が」
ルカはガラス片を拾って、床に伏しているアードニーの前に立ちはだかった。アードニーの両目は驚きに見開かれていた。殴られたことに対してか、それともルカが自分を拒否したことに対してなのか。
「あんたに何が分かるってんだよ」
ルカがガラス片を逆手に持ち、アードニーの顔面に向けて、振りおろした。先端がアードニーの右目をえぐる寸前、私は手を伸ばした。ルカの右手を押さえて、凶行を止める。
「やめるんだ」
静かに告げたつもりだが、息が上がっていたのでやや怒鳴るような物言いになった。ルカは最大限、憎悪を込めた視線で私を睨んだ。
「こいつの肩持つんだ」
「そうじゃない。だがそういうことは」
「肩持つんだ、私のこと分かりたいとか言っておいて」
いきなりルカは、開いている左手で私の首をつかんだ。華奢な骨格からは想像できないほどの力だった。そのまま私を壁に押しつけ、ガラス片を喉元につけた。
「どうせあんたら、そうなんでしょ」
ガラスの先端が、少しだけ膚を傷つける。微量な出血を、関知する。
「あんたら、自分がそうじゃないと気が済まないから、あんたらの理想にそぐわなければ無理にでも引き込もうとするんだろ。そうやって、私のいたところがどうだったか、なんてろくに知らずに否定するんだろうが」
首にかかる、力が強くなる。ルカの細い指が、膚に食い込んで行く。
「だったら、分かろうとか言うなよ。分かりたいとか、変なポーズつけるなよ。私がどう思っているかとかこうに違いないとか、勝手に想像して、そうでなければならない、とかって決めつけるだけなら、私のこと放っておいてよ。哀れんで、慈しんで、良いことしたって悦に入って、そういうことしか能がないんだったらもう黙ってろよ」
ルカの両目は、見開かれていた。獰猛な光を宿し、しかし瞳がかすかに潤んでいた。涙なのだろうか、すでに眼の異物を除去する以外に使い道などない涙が、ルカの目ににじんでいるようだった。
「私は」
ようやく、私は声を絞り出した。
「どうして君を、そこまで苦しめているのか知りたかった」
「苦痛なんて、何一つ覚えないってのに? この肉人形」
すっと、ルカはガラス片を振りあげた。
「私のことを分かりたいってなら、いっそ死んでみなって。こいつを受けてみて、それで少しは痛みも分かるってなら、考えてやるよ。どうせ分かりゃしないだろうけどさ」
「構わない」
ガラス片を、私は見据えた。先端は私の首筋を向いている。おおよそ二十四度の鋭角を成した破片は、首筋に切りつけられれば頸動脈を完全に破壊し、それはナノ分子の修復も間に合わないほどの出血となる。そうなれば私は自分の血に溺れて事切れる。そんな予測が、ぼんやりと頭の中に浮かんだ。
そこまで分かっていても、尚。
「それで気が済むのならば」
私は何故、そのように答えたのか。
ルカは唇を噛んだ。彼女の桜色めいた唇から血が滲んだ。やはり同じ黒、しかし色素の薄いものだった。
ルカは腕を振り下ろした。破片の先端を、私の首筋と垂直になるように傾け、水平に切りつけた。次には膚が切り開かれて、血管に達するだろうと、思われた。
影が割り込んだ。
そうとしか言いようがなかった。私とルカの、わずかな合間に割って入り、ルカの腕を掴んだ人物をみて、ルカはかすかに驚愕の声を上げた。
「これは持論なんだけどね」
私には彼女の、白衣の布地しか見えなかった。それだから彼女、ソフィーヤ・テテリナがどういう顔をしているのか分からなかったが、ルカのおののいた表情を見るに相当なものなのだろうと推測できた。
「おイタがすぎる子供は、言葉で言っても分からないことがある。もちろんやりすぎは良くないけど」
と言って、ソフィーヤはルカの腕をひねりあげた。ルカが悲鳴を上げ、ガラス片を落とした。それでも細い腕を壊さぬよう気を使っているのか、かなりきわどい角度で関節を極めている。手首を返し、肘を縦方向に捻りあげることで尺骨を伸ばし、同時に上に突き上げることによってルカはつま先立ちを余儀なくされている。完全にルカは抵抗する体を成していなかった。
「でも、最後の手段としてこういうことも必要だ。特にこういう馬鹿な大人しかいないようだとね」
ソフィーヤはそのままルカを引き離し、壁に押しつけた。ルカの肩を掴み、腕を持ちかえて、都市警がそうするように彼女の身柄を完全に拘束する。ルカは抵抗するが、ピンで押さえつけられた標本の虫のように全く動くことが出来ない。ソフィーヤはそれほど強く押さえているようには見えないのだが。
「遅くなって悪かった、ユーリ。でも何で委員会なんて入れるんだよ」
「一応、止めはしたのですが」
「そうかい」
そんな言い訳など無用だっただろうが、ソフィーヤは気のない返事をした。
診察室に、都市警の制服が二人入ってきた。入り口を固めていた二人だ。まだ年若い警官は、中の状況を見て困惑顔で効いてくる。
「これは、一体――」
「一体、じゃないよ。こういう事態に備えてのあんた達なんじゃないのかよ」
ソフィーヤは、ルカの腕を押さえたまま制服の一人を叱責した。
「脳波に、変化がなかったので」
もう一人が、やはり困惑した様子で、それでも職務を果たそうとルカの腕を押さえ、身柄を拘束する。ルカは、もはや抵抗する気はないらしく、ぐったりとしていた。
「脳波は切ってあるって、何度も説明しただろう。あんた達、脳波がなきゃ何もしないでくの坊か。大した仕事だね、税金食っておいて」
ひどい侮辱の言葉だが、今のこの状況で異を唱えられるはずもなく、警官二人は恐縮したようにうなだれるばかりだった。
ソフィーヤはため息をついて、二人に指示をした。医務室に連れてゆき、あとはスタッフに従うように。彼らの経験不足を補うような的確な指示を飛ばした後、二人はルカを連れて診察室を去り、それを確認してからソフィーヤは私の方に向き直った。
「何で彼女、あんな状態に?」
「私のミスです」
「そうだね。こいつをここに入れたのはあんたのミスだよ。カウンセラーでもない人間に、一言だって喋らせたりするから」
続きソフィーヤは、まだ床にしゃがみ込んでいるアードニーを睨み、
「危うく部下を死なせるかもしれませんでしたよ、委員。彼らの生命を守ることも、あなたの責務ではないのですか」
「まだあなた、柔術なんてやっているのね」
アードニーはふらふらと立ち上がった。ルカに殴られた頬が、赤みを帯びていた。
「趣味でやっている分には文句はないでしょう」
ソフィーヤは、特に手を貸そうとか助け起こそうと気はないらしく、アードニーをただ見下ろす格好だった。
「他人の体を壊すことに愉悦を感じることなんて、あんまりまともとは言えないわね。別に禁止されていることじゃないけど、あまり委員会としては推奨したくない趣味だわ」
「あなたがしている、人に説教して回るような高尚な遊び、私には似合いませんから」
アードニーは、頬をさすりながらソフィーヤを忌々しげに見据えた。
「ああいう、イデオロギーに毒されていたら直接暴力に訴えてくる、そういう意味じゃあなたの趣味も役に立つかもね。暴力を暴力で迎えるには、ぴったりだわ」
「それが本音ですか、アードニー」
ソフィーヤの声は、静かだった。しかし少しだけ震えていた。
「カウンセリングとは、クライエントに襟元を開いてもらわなければならない。そのためには相手を見下ろす態度がもっとも禁忌で、あくまで対等でなければならない。あんたがそんな態度で臨んだら、クライエントだって分かりますよ」
倫理ネットが健在ならば、脳波が爆発しそうに高ぶっていたはずだ。ソフィーヤは両拳を、握り込んでいた。
「あなたに半端な覚悟しかないことは、昔からよく知っていました、アードニー。別にそれはそれで構わないですし、誰もが覚悟を持たなければならないなんて言いませんよ。でもそれならばそれで、余計なことはせずに黙っていて欲しいものですね。とりあえず、ここと早々に立ち去ってもらいたいものです」
「私はただ――」
ソフィーヤが睨みを効かせる視線は、最後通牒じみていた。ソフィーヤが次に口を開くときには、同時に実力を伴いかねないという威圧感がある。アードニーはソフィーヤを睨み返し、黒服二人を従えて診察室を出た。空圧ロックの扉が閉まる音がして、再び静寂が訪れる。
「喉をやられたね」
ソフィーヤが私の首に触れた。体温がほとんど感じられないほど冷たい指先だった。
「切られてはいませんよ」
「でも相当な力で握り込まれている。痕が出来ているよ、首」
「異常はありません」
「そう」
とソフィーヤは、手を下ろした。
「筋繊維も機械で、普通の細胞より出力が大きいんだ。あんたみたいに最初から機械細胞を持って生まれていれば、力の加減は自然に出来るけど、あの子は移植されて間もないから加減を知らないんだね。相当の力だっただろう」
ソフィーヤはテーブルの上に置いてある、紙の鳥に目を付けた。人工血の黒ずんだ粘液に浸り、赤いくちばしと翼が黒ずんでいた。ソフィーヤは壊れやすいものであるかのように、両手ですくうように鳥を拾い上げた。
「汚れちゃったね。都市内じゃ、この手の紙はそんなに扱っているところはないんだよ」
「あなたが持ってきたのですか。その紙を」
「探すのに難儀したよ。この三枚しか手に入らなくて、でもせっかく作ってもこれじゃあね」
ソフィーヤは血を拭おうとしたが、紙である以上はそれも叶わない。あきらめて、テーブルの上に置き、
「何を言ったの」
詰問するようでなく、ソフィーヤはただ訊いた。私の答え方など特に何も期待しないという問いかけだった。
「彼女に、どうすれば分かるのかと」
「ルカを分かろうと?」
「分かるはずがないと、言われました。痛みすら覚えないくせに、分かろうなどと言うな、そんな体裁をつくるなと」
ルカの言葉をなぞってみた。それが絶対的な拒否であるかのように思われた。絶対的に拒否して、その拒否の源が、彼女の感じている痛みそのものであり。
そして私には、その痛みを知る術はない。
「痛みを知らない私には、ルカを知ることなど不可能なのでしょうね。あなたの言うように、カウンセラーはクライエントと対等でなければならないのに、私はそもそも彼女と違う場所に位置していた」
ならば、彼女の前に立つ資格など、私にあったのだろうか。本当に彼女を救うための手だてを、考えることなどが。
「私には、その資格が」
「ユーリ」
それの先に触れてはいけないとばかりに、ソフィーヤが遮った。ひどく沈うつそうな顔をしていた。
「あんたはよく頑張ったよ。あの子のことをちゃんと考えていた。体裁じゃなく、本気であの子を分かろうとしていたってことも、私は知っているよ」
ソフィーヤが私の肩に手を置いた。そうすることで彼女自身も、気持ちに整理をつけようというように。
「だから、そんなに自分を責めることはない。あの子はそう、もう少し急がずゆっくりやれば、もしかしたらまだ芽はあったかもしれない。けど、そうはならなかった。だからもう、この話は終わりなんだ」
そうやって、無理にでも彼女自身が終わらせようとしている。そうしなければならないことは、分かっていた。どれほど納得できなかろうと、続けていくことが困難であるならば。我々は元々の場所に戻るべきだった。
私は日常に、ルカはフリーサイドに。それが最終的にあるべき姿と、言い聞かせ。