23
彼女の診察室を、自分から訪れるのは初めてだった。普段から呼び出され、健康診断と称して雑談をして帰るというパターンが定着していたので、自らの足で進んでいるという感覚が奇妙なものに思えた。
廊下を突き当たり、診察室に入る。案の定、ソフィーヤはいた。スクリーンに打ち込む手を止めて私の方を見て、あからさまに驚いた顔をした。
「珍しいね。あんたの方から来るなんて」
「私もこういう事態になったことが」
入るよう促され、私は彼女の目の前の椅子に腰掛けた。
「少し信じられません。ドクター、少しあなたから事情を訊くことになるかもしれませんから」
「事情ねえ、さっき都市警が事情聴取に来たばかりだったけど」
ソフィーヤはスクリーンを閉じると、私の方に向き直った。
「過去に結婚歴があるか、とか。そのときの配偶者は今どうしているか、とか。フリーサイドにいるって言ってやったらばつが悪そうな顔してたよ。あんたはどういう反応示すのかな」
「分かっていたのですか」
果たしてソフィーヤは肩をすくめた。
「薄々ね。前回のことから、もしかしたらそうじゃないかとは思っていたけど」
「なぜ、黙っていたのですか」
「確信が無かったから。何かの間違いじゃないかってね。今更あの研究のことで揉めることもないだろうって思っていたけど」
ソフィーヤの机に、見慣れないものが置いてあるのに気づく。木製の小さな額縁の中に、人物画を描いた絵が飾ってあるのかと、最初はそう思った。よく見れば絵ではなく、ソフィーヤに寄り添うセルゲイの像を写し、二人して笑みを浮かべて、フレームの中に収まっていた。
「あんたは写真って見たことなかったっけね」
私がその絵を見ているのを受けて、ソフィーヤは額縁を手に取った。
「ちょっと懐かしくなって、引っ張りだして来ちゃったよ。ナノボットが投影するものじゃなくて、これは特殊な紙に直接像を焼き付けるもの。昔の記憶装置の中じゃもっともポピュラーなものだよ」
「写真は知っています。しかし、回路に保存しておけばナノ粒子でいつでも具現化出来るのではと思うのですが」
「確かにね。私もそう思っていたけど、けれどこうして形に出していないと分からなくなることがあるからね」
「何をでしょうか」
「あの人がいたってこと」
ソフィーヤは、憂鬱さを抱えたような目をする。
「実際、最近まで忘れていたからね、私も。回路に蓄えていつでも取り出せる、って言っても常に具現化してあるわけじゃないし、具現化してもすぐに消えてしまう。こうやって無理にでも写真を飾って、常に見ていないと。無理矢理、外部記憶装置に触れていないと、過去にそれがあったのかどうかも忘れてしまう」
ソフィーヤは、それこそ無理に作ったような笑みを見せた。
「偉そうなこと言えないよね私も。こんな事件があってから思い出しているようじゃ、ダメだね」
珍しく、自嘲するような笑い方だった。本心をいくら覆い隠そうとしても、脳波は如実に語り、弱々しく鬱屈したような波長が伝わってきた。
「フリーサイドに行った、と聞きました」
「当時は機械細胞も、まだ補助的な役割しか果たさなかったからね」
ソフィーヤが眦を押さえたのを、私は見逃さなかった。それを見ていない素振りをするのに、相当苦労した。おそらく相当不自然に視線を逸らしただろう。そうでなくとも私の乱れた脳波を、コンマ何秒かソフィーヤは関知したはずだ。
「再生医療も、全身に病巣が散らばったらどうしようもないっていう、そういうレベルの話。臓器という臓器、筋肉という筋肉が急速に蝕まれてね。あの時は分子を導入するにもいちいち許可が必要だったから、あの人面倒がって入れてなかったんだよ」
私の下手な演技に気づかない振りをして、ソフィーヤは続けた。
「あの研究はあの人のためでもあった。でも倫理の問題に触れて、結局封印せざるを得なかった。あの人はもうどうしようもなくなって、親族からフリーサイドを勧められ、最終的にはそれに従ったってわけ」
「今でも連絡は取っているのですか」
言ってから後悔した。そんな余計なことを聞く必要などまるでない。それこそプライバシーの侵害になりかねないことだった。
「そんな気を使わなくてもいいって」
ソフィーヤは可笑しそうに言った。いつもの、茶化すような口調で。
「他人のことを詮索することが良くないって、多分そう思っているんだろうけど、それも程度によることだから。あまりに露骨でなければ何の問題もないよ」
「いえ、不躾でした。今の発言は取り消させてください。この話も、これで終わりに」
私はかまわないのに、とソフィーヤは言って、スクリーンをかき消した。
「しかしあんたも運がないね。ゲリラに二度も捕まるなんて、多分あんたが初めてだよ」
「ゲリラが入り込むこと自体がなかったことですから」
ようやく彼女はいつもの調子に戻ったのを受け、私は少しだけ安心する。
「クローンの体は生きながらえるためだけでなく、都市に入り込むためであったようですね。おそらく他のゲリラも、同じようなクローン素体を用いているのでしょう。あなたとセルゲイの研究が、どうして外に流出したのかは分かりませんが」
その辺りは、都市警の猟犬が捜索をしているに違いなかった。今朝からマクガインの姿を見ていないが、現場の指揮に入っているのだろう。
「クローン素体であれば、体を乗り換えることも危惧されますが」
「記憶の移し換えなんて滅多にできないことだ。昔のサイバー義肢とは違うよ。それより」
ふいにソフィーヤの目が、鋭さを帯びた、気がした。それもはっきり分かるほど、緊張の色を帯びた瞳をしていた。それと分かる変化はほんの一瞬のことで、脳波の揺れにも何の影響もないほどの短い時間ではあったのだが。
「それより、あんたが何もされなかったのか、ってのが気懸かりだよ。危害は加えられていないみたいだけど」
すぐに元の、穏やかな目に戻る。私はその変化を気づかない振りをしなければならなかった。
「もう一度、骨を折られそうにはなりましたが。他には異常はありません。ただ気になるのは、ルカのことですが」
「何か言ってたの?」
「いずれ迎えにいくと。そう言っていました、阿宮圭は妹を取り戻すと」
「やっぱり兄妹なんだねえ、まあそれが自然といえば自然。親子を引き離すのがダメで、兄妹を引き離すことは良い、じゃあ矛盾している」
「しかし、ゲリラとなれば区別して考えるべきでは。たとえ親子でも、虐待や育児放棄がされていれば隔離されます。兄妹であっても、ゲリラと一緒に住まわせておけば悪影響であることには」
「でも阿宮兄妹は、二人とも機械が嫌いみたいじゃない」
ルカをわざわざ旧姓で呼ぶ辺り、どういう意図なのか理解しかねたが、私は黙っていた。
「ああ悪いね。別にあんたの悪口を言っているわけじゃないよ」
「それは分かりますが、しかしあなたの考えそのものには、正直同意しかねます」
「そう思う?」
「一度も口にしたことがない合成肉を嫌いだと言っているようなものです。阿宮のあの本と、ルカのフリーサイド嫌いはそのような非合理なものです」
「合理なものでないと認めないという態度は、ちょっと偏りすぎだね」
ソフィーヤは、まるで叱責するかのような口調で迫る。特に私が何かミスを犯したわけでもないのに、子供をたしなめるかのような風情すらあった。
「自殺っていうものは」
ソフィーヤは、ほとんど声にならないような囁き声で言った。
「集団の中で、不合理なルールの元で個人が追い込まれるケースもあるけど、実は逆のことだってある」
「逆とは」
「まだカウンセリングなんてものが脳波測定と併用されていた時代のことだけど」
都市が出来て間もない頃の話だろうか。都市の人間は実年齢と外見は比例しないので、過去の話を聞くときは正確に暦と照合しないと、苦労する。
「都市が開発されてしばらくは、自殺とまではいかないけど鬱にかかる人間が多くてね。それこそ、今みたいな脳神経回路のプログラミングはそんなに一般的じゃなかったから、一人一人を相手しなきゃならなかった」
ルカ一人でさえも、すでに手に余るというのに、それが何人も何日も続くと想像すればソフィーヤの苦労も分かる気がした。そんな私の勝手な想像などよそに、ソフィーヤは遠くを見るように目を細め、
「都市ができる前から、自由主義というものは社会から個人を切り離すことに躍起になっていてね。社会に埋め込まれた個人を何よりも嫌って――まあその究極がフリーサイドだね。ただあれはあれで、また違った自殺の類型があるんだけど」
「違ったものとはどういう」
「それで、その都市内部の鬱症状というのが」
おそらくわざと、ソフィーヤは私の疑問を逸らした。あまり余計なことを聞いて話を脱線させてもいけないので、私はそれ以上は触れなかった。
「近代社会は細分化の歴史だよ。ワークライフバランスを第一にして、在宅勤務が一般的になったことで煩わしい人間関係から解放され、自分の趣味の時間が大幅に増えた。言論の自由が保障されていたから、妙なしきたりに縛られることもなくなった。近代の歴史というものはそのサイクルの繰り返しで、民族や部落や国家、そういう集団がどんどん消え去っていった。この都市も、単純に入れ物としての都市であって、外縁の世界みたく宗教や君主によって人々を結びつけるものじゃない。そうやって個人は個人になっていった」
「そうした集団の中で、個人が圧迫されることがなくなったのですから、良いことなのでは」
「でもそんな時でも、自殺者は出た。集団の結びつきが弱い社会で、孤独に耐えかねて死に至るってケース。多分、あの本を読んで自殺未遂に追い込まれるのはこっちのケースかもしれないね。都市の人間は皆孤独を抱えているから」
都市の人間が孤独、というのは初めて聞くことかもしれなかった。総じて、都市住人は倫理院のセッションや、人権会議に出席し、おそろしく短縮された労働時間のお陰で大幅に余暇が増え、社会活動を通じて人間関係を広げる機会は一昔前より増えているはずだ。余暇を与えることは、企業の義務の一つとなってさえいる。
「特別、都市住人が孤独とは思いません」
「しかし彼らには、共通意識というものがない。やはり個人はどこまでいっても個人。社会との連関はない」
私が聞き返すよりも先に、ソフィーヤは話を続ける。もはや私の存在など気にも止めていないかのような振る舞いだった。
「人間の心は、生まれたときにはすでに決定づけられていたって知っている」
まるで私が知らないことを見越しているかのような物言いだが、あいにくその手の話は倫理院の基礎講義で聞き飽きている。
「心は太古の昔には完成していて、脳はそれを実行しているに過ぎないという、認知心理学のテキストにある話ですね」
「なんだ知ってるんだ」
と残念そうに言って、
「じゃあこういう例は知ってる? 人間って、本来はゴミの分別が出来ないってこと」
「あまりそのようなことは」
「人間は、昔はまだ居住地が決まってなくて、遊動生活を送っていた。そういう時代の人類にとっては、ゴミが出たらそれはどこかにうっちゃらかしておくものだったんだよ。だって、明日にはどこかに行ってしまう身だから。どこに何のゴミを捨てるか、なんて考えていればその分体力の消費も激しく、野獣に襲われるリスクも大きくなるから」
私の理解の速度など気にも留めず、ソフィーヤは続ける。
「そのときに形成された脳がその行為を覚えて、遺伝子にその行動が刷り込まれている。だから定住を初めてからも、誰もかれもがゴミをその辺に捨てていた。環境問題が取りざたされるようになって、ようやくゴミを分別する必要があると人類は悟ったんだけど、いくら分別を呼びかけてもなかなかすべての人がやってくれるわけじゃない。やはり遊動生活のときの癖が抜けなかったわけ。どう、面白いでしょ」
「ええ、まあ」
ゴミを分別する、というくだりは。私の知る限り、ゴミはどこに捨てようと勝手に清掃ロボットが回収して回るものだったので、わざわざ分けていた時代の話は、確かに新鮮といえば新鮮だった。
「で、その社会と個人の関わりも、そういう理屈で説明できる」
どういうことなのか、と私はそんな顔をしていたのだろう。ソフィーヤは全て得心した表情で言った。
「人間というものは、生き残るためにどうしても社会的な生き物にならざるを得なかった。牙や爪を、何の武器も持たない人間が唯一、原始の時代で他の動物に対抗出来る手段は仲間同士で群れ、コミュニケーションを取りながら獣の位置を探り、また狩りをするにも互いに連携を取りながら行った。そうして戦いに赴く男たちを癒すために、女たちは彼らの家を預かり、男たちが安らげる場所をつくった」
「男尊女卑の保守論調にも聞こえますね、それは」
「現代じゃカルト扱いだけど、あながち間違いではない。言語を武器に、コミュニケーションを取ることで獣に対抗してきた人間は、社会的な言語をそうやって、進化の過程で獲得していった」
ソフィーヤははっきりと、自分の言説を理解しているものの話し方をする。その次に何を口にするのか、妙な期待感を持たせる、演説めいた口調だ。
「社会の中で、人は他者との連帯を強め、それによって他者と共感し、その社会に貢献することで生を獲得していった。その社会に関わることで生きて、逆に関わりがなければ死んでしまう。生きるためには社会の中で自分の役目を見つけて、人からはその役目を果たしていると認められ、初めて社会の一員となれる。遊動から定住生活に変わってもそう、職場であったり、家庭であったり、村邑や部落、はては国家まで社会の形態は様々だけど。民族ごとにある儀式とか祭典はそうした確認作業で、自分が何者であるかという客観的根拠を与えるための装置だよ。社会に帰属意識を持つことが、生存のために必要なことだった」
ソフィーヤは言葉を区切り、
「そう考えれば、あの本に触発されて都市を去る人間が増えるのも無理はないかもしれないね。都市にはない、社会の中で他者との連帯や共感を得るということがない。ただ個人は個人であるということ以外には客観的に自分を認める集団性が乏しいからね」
「それは」
恐ろしげな響きもなく、言ってのける。ソフィーヤの冷淡な口調の前に、私は言葉を失いかけていた。やっと捻りだした声は、自分で思うほどずっと力なく響いたことだろう。
「ゲリラのイデオロギーを、あなたは認めるということですか」
「そうじゃない。けど、そういうケースも確かにあるってだけで。都市が出来る前も出来た後も、社会との連帯感が得られずに鬱を患うケースはあったけど、今じゃすべてプログラミングで解決できるからね」
そこまで言ってから、ソフィーヤは身を乗り出して私の目を覗き込むようにした。視線を逸らすことなど許さない、そういう意志が、脳波ごと感じられた。
「ユーリ。人間、というか生きているならばある程度は遺伝子によって決定づけられるものだよ。なぜ赤ん坊は誰にも教わらずに歩行し、簡単な言語ならばすぐに取得するのか。なぜ世界中には似たような寓話や神話が存在し、どの民族も同じようなモチーフの神をあがめるのか。あんたは考えたことはある?」
私が是と答えることなど無いであろう、そう確信しているかのような問いかけをしてから、ソフィーヤはさらに畳みかけるように言う。
「人間が通常抱く、愛情や排他的な差別も、そうした構造があってのこと。集団に帰属するのは、その集団に属さなければ生きてこれなかった事情があり、差別はその自分が生きている集団を守ることであり、愛情は集団の連帯に他ならない。遺伝子はそのような情報を伝えるものであって、人間は生まれたときからその情報を持っている」
私の反応を見ながら、ソフィーヤは徐々に語気を弱めていった。私の発言を待ちながら、というように。
「遺伝子が、決定づけるという考えは優生学的ではありませんか」
「あんたは自覚ないだろうけど、あんただってそうだよ。全くの白紙で生まれたわけじゃない、倫理規定をインプットされて、そのプログラムから逸脱しない行動を、無意識に取っている。もっともその規定も、都市警みたいな実力機関に従事する者はまた違う言語を刷り込まれているけど。それと同じことだよ。あんたは別に、倫理規定に反しないよう常に心がけているわけじゃない、あんたの行動がすでに、倫理規定に縛られているわけだから」
なんと返せば良いのか迷っていると、ソフィーヤは薄く微笑んだ。
「まあ、そうだからといって、これはあくまで一つの説に過ぎないわけだから。この理屈すべてが当てはまるわけじゃないよ」
「ならば何故そのような話を」
「暇つぶしみたいなものだって。そろそろ終業時刻だし」
そう言われて、退出時間が迫っていることに気づいた。網膜裏にクレジットされた時刻表示は、刻限まであと十分少々しかないことを告げ、私は立ち上がった。
「長居しました」
「かまわないよ。他の連中だったらさっさと追い返しているけどね」
冗談なのか本気なのか分からないことを言って、ソフィーヤは声を上げて笑った。
「私はまだ残るから、帰ってていいよ」
「残業ですか」
自己管理の甘さと効率の悪さの象徴でもあるかのようなオーバーワークを、自ら好んでやる彼女ではない。何か他の理由があるのだろうが、私はそれには触れずにおいた。
「ルカの、次の面接は明日やろうと思う」
去り際、ソフィーヤが思い出したように言った。
「また急ですね」
「時間がないからね。まだあの子から、本心を聞き出していないし。一応、面接はあんたに任せるから、どうしても難しければ代わるよ。私は外で控えているから」
続きソフィーヤは、忌々しそうにため息をつき、
「実は、人権委員会が直々に動いているみたいでね」
「それは」
なぜと言いかけて、しかし理由など訊くまでもないと気づく。都市警の判断が優先された今の状況で、委員会も焦りを見せ始めていた。法案の提出を急ぎ、急進派が台頭し始めている、その中でルカに白羽の矢が立つことは至極自明のことであって、当たり前すぎることだ。
「あの子も、多分私たちの手を離れることになる」
それは予言にも近い言葉だった。ゲリラたちが取り戻しに来るのか、それとも彼女がフリーサイドに送られるか。いずれにしても、あと一回。それですべてが終わる。