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正面の、RNA鎖のオブジェの足下に都市警の一群が固まり、廊下を行き来する制服たちをやり過ごす。誰かとすれ違う度に警告と威嚇がない交ぜとなった視線を送る彼らには、いずれも思考プロテクトがかかっていた。脳波の相互発信が倫理ネットの原則であるが、都市警にとっては自分の脳波を読まれることは致命的であり、そのため都市警に限っては脳波を遮断することが義務づけられている。こちらの脳波は監視して、自分の頭の中身を見せない。唯一、公的機関としての暴力である以上、都市の住人とは違う倫理規定があるのだろう。
そう言い聞かせても、相手の脳波にふれることが出来ないことには得体の知れない恐怖がある。私は目を逸らして足早に廊下を歩いた。どこにいても都市警の制服姿が目に入るので、出来るだけ遠ざかる必要があった。
「あんまりビクついていると、目立つぜ」
いきなり背後から声がした。振り返るまでもなく、声音と脳波が如実に語っていた。
「気持ちはわかるがね、この仏頂面が三メートル置きに立ってやがるんだ。見たくもない面拝まされりゃ気も滅入る」
シェン・リーはわざと制服たちに聞こえるように言っているようだった。ヘイトスピーチになりかねない物言いであっても、少しぐらい罵ることは与えられた当然の権利であるかのような口振りだった。
「誰はばかることなく悪口を言うために都市警がある、とでも思っているのかシェン・リー。配慮に欠けた言動は慎めよ」
「構うことない。誰も気にしないし、奴らも言われ慣れてるだろうよ」
シェン・リーが通り過ぎた後ろで、若い警官が顔をひそめていた。強化プラスチックの警備杖を携え、微動だにしないが、不愉快さを込めた視線だけ私たちの動きを追っていた。
「ただでさえ今は非常時だ。下手に刺激するようなことは避けた方が良いと思うが」
私が言うのにも、シェン・リーは鷹揚に肩をすくめた。
「あんまり肩肘張っても始まらんよ、こういう時は。まあ今まで無かったことだからな、無理もないけど」
廊下を突き当たってカフェに入ると、さすがに制服たちの姿は無かった。私は近くの椅子に座るとコーヒーを注文した。
「誰も彼も、おびえている。ゲリラたちがこの街にいるってことを意識してりゃそうなるだろうが」
シェン・リーはというと、自走式のオーダーテーブルに運ばれてきた無料のミネラルウォーターを煽った。
「出版社もすでに手入れが入ったみたいだが、あとどれぐらい、ゲリラのフロント企業があるかわからない。この水のメーカーだって、分からんものさ」
まさか、と口に仕掛けたが倉庫街を買い取るぐらいだから、そのぐらいはやるかもしれない。私は思わず、コーヒーカップの底を見てしまった。
「しょうがない。倫理ネットの中和作用も追いつかないくらい、皆緊張感漂わせて。所長もそうだっただろう」
「動揺しているようではあったが」
「へえ、そりゃすごい。滅多にないレアケースだ」
まるで今ある空気を全て入れ替えようとしているように、シェン・リーは大げさに言った。わざとらしく笑うシェン・リーの脳波も、かすかに緊張の波長が感じ取れた。相当、無理しているのだろう。
「おまけに都市警の警備がついているとあっては、誰も落ち着いてはいられんよ。あの連中、何考えているか分からないからな」
シェン・リーは、ふと何かに気づいたように顔を上げた。
「ああ、すまんな。お前の同期がいるんだっけ」
「別に気にすることでは」
私はコーヒーを口に含んだ。そういえば今朝は、マクガインの姿は無かった。
「それより、例のことは調べはついたか」
私が訊くのに、シェン・リーは少し迷うようなそぶりを見せた。
「一応、分かったことは分かったんだが」
「何か問題でも」
シェン・リーが言い淀むことなど初めて見たが、それを気にすることは今どうでも良いことだ。
「いや、とりあえず見てもらおうか」
とシェン・リーはスクリーンを開いた。空中の粒子ディスプレイを指で軽く弾くと、反転し、私の方にデータの表示された面を向ける。文字列が流れ、映像ファイルと一緒に再生された。
「電子回路に記憶を移して機械の体で代用するという構想は二十一世紀からすでに存在していたが、それをクローンで応用しようとしたのが彼の研究らしい」
「それは違法だろう」
「いや、再生医療の分野が発展してからしばらくは、幾分規制が緩かったらしい。一部の地域では、クローンの生成も可能だった。その中で、記憶を移し返るための研究も為された。その開発チームにいたのが」
シェン・リーがスクリーンをなぞった。微かに表面の粒子が流動したかと思うとそれらがより集まり、一人の男の映像を具現化させる。
「セルゲイ・ニコライヴィチ・テテリンは当時最高の技術と知識を投入して、これに臨んだ。彼自身は分子生物学者だったが、チームにはコンピュータプログラマーとエンジニアがいたそうだ。プログラム演算と、生物回路を構築して神経とネットとをリンクさせるやり方も、そのころにはすでに出来ていたらしい」
スクリーンの男は学者というよりもアスリートのような体躯の持ち主で、眼光が異様に鋭く何か差し迫ったものでもあるかのようなにらみの利かせ方をしている。落ちくぼんだ目が、そう見えるのだろうか。体格のわりには顔はやつれ、膚がやや浅黒さを帯びていた。
「彼は、今は」
「記録によれば」
シェン・リーが触れる指の動きにあわせて、スクリーンのページが捲くれて内容が更新されてゆく。経歴も、嗜好も、政治的思想も、過去一度でも都市住人であったときがあれば全て、ナノボットの群知性に記録される。
「二十年も前に、フリーサイドに行ったみたいだ。かなりの大病を煩っていて、当時の医療では到底治せるものではなかったらしい。他の選択肢もなかったので、病巣を抱えた体を捨て去ってフリーサイド入りを果たしたというわけだ。もちろん、ちゃんとした手続きを踏んで」
シェン・リーはカップを握りつぶし、清掃ロボットの前に投げ捨てると、無骨な金属の箱が律儀に拾い上げた。
「彼の構想は結局実ることはなかった。クローンそのものが倫理の問題とぶつかりやすいからな、この研究は倫理院では認められなかった。今ではこの技術も都市内では違法になっている。セルゲイは、自分の研究で自分の体を作りたかったようだったが」
「クローンが倫理に問題があって」
私が口にするのに、シェン・リーは意外そうに目を細めた。
「何だよ」
「いや、クローンが倫理規定に抵触するなら、私たちのようなバイオロイドはどうして許されているのかと思って。いくら人工塩基であろうと、幹細胞から肉体を作り、そこに意識を宿すという工程は同じだろう」
シェン・リーは最初、私の言っていることが分からなかったらしい。おそらく一分は黙り込み、頭の中で反芻し、精一杯の理解を示そうと努力しているが肝心の理解が追いつかないという表情で首を傾げ、
「つまり、どういうことだ?」
やはり分からなかったらしい。訊いた本人も完全に理解出来ないまま投げかけてしまったのだから、それも無理からぬ話だろう。
「クローンは本人の細胞を元に生み出すだろう。当然、DNAは本人に依拠したものになる。体を造り、意識を移す、これは機械細胞と同じ理屈だろう。機械細胞も本人のDNAをコピーして肉体を造るのだから」
「クローンってのは幹細胞から生殖細胞を生み出して、そこからヒトが生まれる過程を水槽の中で培養するんだ。つまりどうしたって一人、人間をそっくりそのまま造らなければならない。もしかしたらそのクローンに意識が芽生え、自我が出来ているかもしれないところに、無理矢理オリジナルの人格を植え付けることになるんだ。そうすると、クローンの人権を踏みにじることになるだろう。バイオロイドは意識とは別に、体を造っていくのだから意識は宿りようがない。倫理セッションでやったことだろう」
「だが、本人の肉体をそのまま用いるのだから、機械細胞よりは本人に近いものを造ることが出来るのでは」
「機械細胞は模倣だ。クローンはまるっきり人間が生み出される過程をなぞるわけだ。赤ん坊から生み出し、成長に関する因子を欠落し、自我が芽生えるよりも先に別の人格をアップロードする。それは人権侵害だろう」
シェン・リーは最後にスクリーンを指でなぞると、セルゲイの経歴を記したページに戻る。再びのやつれた表情と対面し、シェン・リーはやや食傷気味にため息をついた。
「それよりも、フリーサイドに記憶を移すのとクローンに移すのとじゃ違うんだと。人間の意識を完全に移行させるための回路は、人間の頭脳に収まるほどのバイオチップじゃ容量が足りない」
「チップに移すのか?」
「脳から脳へ移すってことは出来ないからな。言語によるインプットは時間がかかるから、電子回路への入力になるだろう。だがそれだけなら、かなり不十分で、フリーサイドぐらいの大がかりな回路でないと収まらない。フリーサイドは、普段は見えないから認識しづらいけど、あれは都市内全てを覆うぐらいの容量がある。そのぐらいのフィールドを用意してやらないと、意識の移行は出来ない」
「もし、無理矢理移したとしたらどうなる」
「さあ、例がないからなんとも。記憶が全て移ることはないだろうが、意識も宿るのかどうか。だからお前を拉致した阿宮圭だって、本当の阿宮圭かどうか分からんぜ」
それは、阿宮本人が口にしていたことだ。自分には、生まれてからの記憶が全て備わっていないと、まるでそれが恐ろしげな響きもない当たり前の事柄であるかのように語っていた。
「最初にお前がこいつ調べてくれって言ったときには、驚いたよ。ゲリラがそんな技術を持っているとは思えなかったからな。どうやら都市の技術が流出したものらしいが」
シェン・リーは心なしか興奮しているように――実際脳波は高ぶっていた――少し意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「そういや、調べるうちに結構おもしろいことも見つかったぜ」
ゲリラの情報におもしろいも何もない気がするが、シェン・リーの期待に答えてやるべく、私は聞き返した。
「どういうことだ」
「経歴のところ、見てみ。そいつは既婚者だったみたいだが」
「半世紀も前の結婚制度がそんなに珍しいのか」
「お前もなかなか言うようになったな」
シェン・リーはスクリーンを新たに開き、文字列をなぞるとその箇所だけが金色に光り、浮かび上がった。丁度彼――セルゲイが二十歳の頃に結婚したことを記している。相手は同じ研究チームの、二歳下の女性であるらしい。
「公開された情報とはいえ」
私は、シェン・リーの高揚する波長とは裏腹に、少し気重だった。
「何か人のプライバシーを覗き見ているような感覚になるな」
「プライバシーってほどの情報じゃないさ。いいからここ見てみろ」
シェン・リーが指し示す先を、私はみた。私にとって、おそらくシェン・リーにとっても一番馴染みの深い名前がそこにはあった。