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 右手の辺りに、スクリーンを固着させた所員とすれ違った。

 浮遊する無数のナノボットに投影された視覚情報に文字を打ち込むのに夢中で、あやうく私とぶつかるところだった。体をかわした瞬間、眼前のスクリーンが歪んだ。私と彼との間に生じた空気の流れが、空中のナノボットを拡散させたためだった。すぐにまた同じ像を結び、彼は私に謝罪の言葉を述べてから足早に駆けてゆく。廊下を行き交う人々は、誰も彼もが同じようなスクリーンを目の前に固着させ、緑色のスクリーンが彼らの移動にあわせて空中を流れている。

 ナノボットはどこにでも散布されている。公園のベンチ上でも、リビングルームでも、ベッドの上ででも、誰もが同じような情報小窓に向かい、肉眼では関知できない薄い光の膜を通じてネットワークとつながる。

 粒子のテクノロジーによって固定端末は過去のものとなっていた。一部の懐古主義者たちが用いる、シリコンチップの端末をいじる者は、社会的にはマイノリティである。液晶画面はナノボットが生み出すスクリーンに、半導体の回路は脳幹に備えた神経回路に取って代わられた。現在、情報処理とは膚の下に走る疑似神経回路とナノボットが連動し、一番身近な脳という生体コンピュータにインプットする作業のことを指し、機器そのものは無形化の一途を辿る。情報の出入力には、わずかに〇・二ピコ秒しかかからないという事実は動かしがたく、それを思えばシリコンチップを好んで用いる者はいない。

 ロビーには、所員であふれていた。巨大なRNA鎖を模したようなオブジェが中央に鎮座し、それを囲むように配置された大理石のベンチに腰掛けた白衣の集団が、各々の業務を遂行すべく空間にスクリーンを固着させ、ネットワークとやり取りしながら光格子の情報と行列式に向かっている。

 周囲に倣って、ということでもないが、私もまた自分のウィンドウを呼び出した。薄い光の膜と相対して、指先でなぞると膚の下にかすかな手応えを感じる。ディスプレイの光格子と数列を指で弾き、固有IDを呼び出すといつものプログラム画面を現出させた。指先でスクリーンをなぞると、かすかな手応えを感じる。疑似神経が電位信号に触れ、反応することで脳内回路と情報を共有させる、その際生じる電気刺激だ。回路に蓄えられた情報がミクロンの電子膜に、演算式を焼き付け、それを基に私はプログラミング言語を組み立てる。スクリーン上をアルゴリズムが流れるのに、数列が網膜に焼き付くような感覚になる。

 数列は膨大な脳のコードであり、そこに現れる数字はすべて思考のベクトルそのものだった。精神を病み、対人関係にトラブルを抱え、どうにも立ち行かなくなった人々が、最後の手段として用いるのが、ニューラルプログラミングと呼ばれる手法だった。測定する脳波によって、感情の導き方を脳にンプットするこの技術は、それでも脳に直接言語を送り込むという意味で特別扱いされている。倫理に触れかねない、脳への干渉は、限られたスタッフのみが行う。だから、本来ならばホールの真ん中でスクリーンを広げるべきではないのかもしれないが、高度にコード化された脳の中身は、それこそ高度な暗号技術を要するので、一見しただけでは読み取ることはほぼ不可能だ。

「鬱になっているのか、この患者は」

 かと言って、暗号は万人に解読不可能になっているわけではない。横から覗き込むシェン・リーには、特に暗号など意味を成していないかのよう錯覚に陥らせる。

「勝手に見ることは、プライバシーの侵害になる」

「こんなとこでおっぴろげてちゃ、見たくなくても見えるわな」

 スラングめいたことを言って、シェン・リーは自分の前髪を引っ張った。モンゴロイドの血をひく彼の容姿は、等しく漆黒に塗られた髪色をしていて、それが遠目から見てもそれと分かるほど目立つ。黒い髪とは、所内でも少数で、配属されてからしばらくはそのような染髪料があるのだと本気で信じていた。なぜ髪を染めるのか、などと聞けば場合によってはヘイトスピーチになりかねないので、一週間は彼と口を聞くことがなかったのだが、シェン・リーも同じプログラマーであったことで、互いに交流が生まれ、今ではプログラミングについてアドバイスを受けることも少なくない。

「しかし、これは相当複雑な演算だな。どんなトラブルを抱えているんか知らないが、良くここまで放置していたものだ」

 シェン・リーが驚くのも無理はない。企業が社員のワークバランスを考えた経営

していれば、本来ならば精神病の類はほぼ一掃できるはずなのだが、どの都市でも完全にバランスが取れているとは言い難い。倫理院が常に目を光らせ、人権を損なうことのないよう――企業活動であっても、対人コミュニケーションであっても、個人の脳波は表層部分に限り、ネットワークで監視している。鬱になるほどのストレスを溜め込むことは滅多にない。都市住人は他人の脳波を感じずに日常を送ることはないのだから。

「仕事も家庭も、充実はしていたようだ」

 私は文字列の最後の値を入力した。

「特に何かに不満を抱えているわけではないようだったが、それでも実際にこうして深いレベルまで心を病んでしまっている。本人は、どうやらこの都市で何を手に入れても、満足ができない。そう考えているようだ」

「そこを突き崩してやるのか?」

「プログラム上では。ただそのように導いても、彼の心に響くかどうか。どうやらフリーサイド入りを希望しているらしい」

「フリーサイドか、猫も杓子もフリーサイドだねえ」

「どういう意味だ、それは」

「大流行って意味だ、フリーサイドが。それほど皆して悩み抱えているのか、ってそういやお前さんもフリーサイド絡みだったか」

「私にフリーサイドのことなど聞いても分からないよ。胎内を記憶する子供がいないように、私も意識が出来る前のことなど覚えているはずもない」

「そうかい。まあそれはそれでいいんだが」

 ようやく、プログラムが完成した。指先の疑似神経を通じて脳内回路にバックアップを蓄える間、網膜裏に張り付けた微小ディスプレイに通信が入ったのを確認する。差出人はリーバー・ストラウス、最重要事項と記されたメールを私はナノボットが漂う空中で、スクリーンとして開いた。

「呼び出しか」

 とシェン・リーが言うのに、私はスクリーンを閉じた。

「フリーサイド絡みの要件だ」


 ストラウスが研究所の所長という立場にいるのには理由がある。初期型バイオロイドの、初の公的機関登用という実験的名目からの起用で、特に能力による選別ではなく、ある種の宣伝効果も含めた人事であった。ストラウスはこの世に生を受けてからわずか二年の間に、一所員から所長にまで上り詰めた。異例の出世でもあるが、そこには倫理院の意志が介入している。

 ともあれ、優位遺伝子を限定的に選別された彼自身もまた有能でもある。少なくとも彼の人事を妬む者を黙らせるほどには優秀だった。十年という少ないキャリアでも研究所をまとめることが出来るのも、彼が生まれながらに優位であることの証でもある。

 そのストラウスと、私は向き合っている。ホルモン投与など当たり前なこのご時世に、わざわざ高年齢――およそ五十歳代――の風貌にモデリングされた、彼の深い皺が刻まれた顔が机を挟んで対面し、鋭い眼でもって遠慮なく睨みつける。本来、そのような威嚇にも似た行為は人権委員会に好ましくないと判断されるのだが、威嚇感情が想起されているわけではないので特に問題はない。

「カウンセリングの経験はあるか、12トゥエルブ

 開口一番、ストラウスはそう聞いた。12トゥエルブという呼称は、私自身のナンバリングが十二番目であることを表す。ソフィーヤ・テテリナのパーソナルネームは、ストラウスには通じない。

「君の経歴は見た。三年前に精神学医療を修得したようだが、カウンセリングの資格も取ったと聞く」

 そう言うストラウスの手元には、掌に収まるほどのサイズに切り取られた、ナノボットの小窓が浮かんでいた。かすかに燐光すら放つスクリーンは、ナノボットの絶対量が少ないせいかやや輪郭が崩れかかっている。

「確かに資格はありますが、カウンセリングそのものに関わったことはありません、所長」

 私は答えた。そう答えるより他なかった。古い、カウンセリングの手法が言語を介して行う精神療法であり、それを応用したのがニューロプログラミングという手法である。なので、プログラマーは最初にカウンセリングを学び、場合によっては資格を取得する。

「しかし、カウンセリングはすでに廃れた技術です。それを行う機会は皆無であり、私が携わることなどありませんでした」

「だが資格はある」

「教練所にゆけば誰もが兵士になれるわけではありません」

 私が言ったことが、余程意に介さないのか。ストラウスは渋面をますます濃くさせる。

「施設には、カウンセリングの資格を持つ者は、君を含めて二人しかいない。今までは確かに、カウンセリングの必要性がなかったから、カウンセリングのスタッフを増員することなど考えなかった」

 それこそ精神病患者や、人格を破壊させた鬱病患者、あるいは倫理ネットでも抑えきれない暴力衝動の持ち主であっても、ニューロンへのプログラミングですべて事足りることの証左であった。言語へ変換し、対象者に説得する方法は、コミュニケーションのツールが貧弱だった時代の遺物であることは疑いようがない。

「プログラマーは口をそろえて同じことを言うな」

ストラウスが指先でスクリーンを弾き、両手で引き延ばした。神経が、ナノボットの投影域を拡張すると、果たして半身を覆い隠すに足るほどのスクリーンに固定された。

「ルカ・オベール、十五歳」

 言い訳や逃げ口上の類は許さぬというような、断固とした口調でストラウスが言った。スクリーンに、今喋った通りのデータが送信され、文字情報と共に人物像までが刻み込まれた。ストラウスの脳神経回路に蓄えられた、おそらくカウンセリングの対象となる患者だろう少女の顔と対面させられる。

「南フランスで保護された。精神レベルが十二階層にまで至っている」

「かなり重篤ですね、十二階層とは。どうして今まで手を打たなかったのですか」

「少し訳ありだ、この子は」 

 切り出す間を計りかねるように、ストラウスは言葉を切った。ややあって口を開いた。

「君は、フリーサイドへ至る手順を知っているか?」

 いきなり話が変わるのだから、少々不意を突かれた気分だったが、そんなことはおくびにも出さずに私は答えた。

「脳神経を、ナノボットへとリンクさせるのでしょう。ニューロンの配列と、DNAのコードをスキャンし、粒子の配列にアップロードする。良く知られたやり方です」

 おおよそ間違って記憶することなどあり得ない。私自身がそこで生まれたのだから。散布されたナノボットとは別に浮遊する粒子群は、無形ではありつつも独自の配列をもって存在し、そこには無数の回路が形成される。脳と、DNAの配列をまるごとコピーして転写した先が、フリーサイドだ。精神の野などとも呼ばれるそこに、無数の人格と記憶、人々の意識が漂っている。

「フリーサイドはその特性故に」

 ストラウスは私の答えに満足したわけではないだろうが、とりあえずは合格というように頷いてから言った。

「粒子の配列が保証される限りは、そこにいる意識群は存在し続ける。システム自体が故障することがあっても、ナノボットの自己複製によって粒子が絶えることはない。つまり、生き続けることが出来る」

「転送されるには、正式な手続きが必要です」

「だが法の目を掻い潜って、フリーサイドを目指す者も少なくない。そこに行けばほぼ永遠に生きることが出来る。彼女――ルカ・オベールの両親も、そういう思想の持ち主だった」

「それは」

 私はスクリーンの少女を見た。十五という年齢相応の、幼い子供の面差しを残している中で、視線だけは意志の強そうな、老成したものだった。色素の濃い、黒い瞳でもって、敵意すら感じられる鋭い目。

「彼女はフリーサイド遺児だ」

 私の脳裏に浮かんだ言葉をなぞるように、ストラウスが言った。


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