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 一週間が過ぎていた。 

 あの自殺を目の当たりにして、倫理ネットを介して心的ダメージを負った人間は、総じて研究所の世話になることとなる。義務や命令ではなく、ショッキングな事態を目の前に心の平静など保てるはずもないので、人々は進んで研究所に訪れ、プログラムを施し、何とか心的負担を少なくさせようと躍起になる――それに答えるべく、我々は一丸となり、彼らの心的負担と向き合う。そういう一週間だった。

 私はプログラムにかかりきりになり、ストラウスは現場の対応に追われ、ソフィーヤもまた例の男の足取りを追うために駆り出され、そのせいでルカの面接は取りやめとなった。従って、私の感じた疑問をぶつける場が用意されたのは、事件から大分経ってからのことだった。

「悪いニュースと、最悪なニュースがある」

 事件から十日目。膨大な患者をほぼ捌き終わり、診察室に呼ばれた時、ソフィーヤが口を開いた。

「どちらも悪いことしかないのですか」

「悪いにも程度があるでしょう。バッドかよりワーストかで、ぜんぜん違う。個人的にはもっとも酷い方から聞いた方が心理的負担は少ないと思うけど」

「では、そちらから聞きましょう」

 私が言うのへ、ソフィーヤはやや疲労の色がにじむ微笑をしてからスクリーンを開いた。

「あんたの腕をぶっ壊した男の個人データが取れた。都市警の猟犬ドッグが嗅ぎつけて、その男の生体を分析したんだけどね」

「それは良いニュースではないのですか」

「結果を知るまではそう思っていたけど」

 言って、彼女はスクリーンをなぞる。見知らぬ男の顔と個人情報が、半立体のグラフィックとして浮かび上がった。

「ネイサン・ジョーンズ。それがこの男の名前。NYの市民IDを持っていたけど、三年前にデータが抹消されているわ。老衰に伴い、なけなしの金でフリーサイドへの切符を買ってあちらの世界に行ってしまったため、ね」

「それは」

 確かに最悪と言えた。私を拘束した男は大分若く、まだ三十歳手前であるかのように見えたのだが。映像の男はかなり老け込み、そのまま寿命を尽きさせるか、あるいはフリーサイドに行くべきか、その分岐点に立っている。そういう年齢に見えた。深い皺が刻まれた、老人の顔。

「確かなのですか」

「残念だけど、連中の猟犬ドッグ部隊が今まで外れを出したことないんだよね。あれが狂っているとなれば、あんたの古巣を訴えなきゃいけないレベルだけど」

 ドッグと呼称しておきながら、その実六本の機械脚を持ち、羊と鯨の神経を組み込んだ自走ロボットT―0型、通称「猟犬ドッグ」。現場の生体を正確に走査スキャンして、膨大な生体データの中から合致する生体を探し出す、生物捜査専用のロボットが都市警に採用されている。犬というよりも猫のような細心さで探し出した生体は、ほぼ確実に選別されるので、間違いなど考えにくい。

「機械の故障でなければ、あの言葉は何なのでしょうか」

「あんたの聞き間違いってことはないの?」

「確かに言いました。妹と」

 ソフィーヤはしばらく考え込んだ後、ため息混じりにつぶやいた。

「兄弟がいたとは聞いたことなかったけどね」

「オベール夫妻に引き取られたときは、確かに一人だったのでしょう。しかし引き取られる前はそうとは限りません。彼女の個人情報は飽くまで都市内部でのこと。ゲリラ村にいた頃の情報は乏しい」

「つまり、あの子だけ引き取られて、あの子の兄が今更になって戻ってきたということ? 回収された生体は、別人のものだけど」

 ソフィーヤはスクリーン上のデータを見ながら唸った。

「ルカに兄がいたのかどうか」

 私はソフィーヤが自分の世界に入ってしまう前に訊いた。

「本人に聞くべきでしょうか」

「あまり面接に関係ないことはしたくなんだけどね。余計なことは考えてもらいたくないし」

 スクリーンを消し、ソフィーヤは向き直った。

「実は自殺事件のことも、例の本についても伝えていない。あの子自身が微妙な問題抱えているってのに、これ以上神経を刺激するようなことがあったら、それだけでも心理的に悪影響を与えかねないから」

「しかし事実関係がわからなければ」

「そういうのは都市警の仕事だよ、ユーリ。滅多なことはしないことだよ。あんたも懲りたでしょう、その腕で」

 ソフィーヤは私の腕に触れた。ようやく神経がつながり、折れ曲がった関節が修復された右腕だが、まだ指を曲げ伸ばす時に違和感を覚える。二度と余計なことをするなという戒めのような腕は、未だ私を縛り付けていた。

「きれいに靱帯が切れていたから、まだ修復が早かったんだよ。中途半端に伸ばしたままだと、その分治りが遅くなるんだから、あんたラッキーだったよ」

 何が幸運なものかと口にしかけたが、あのまま殺されていたかもしれないことを思えば確かに幸運だった。私は腕をさすりながら、ため息をついた。

「ルカのことを口にしたら、折られました。血縁関係は無くとも、やはり何かしら関係があるのかと」

「そうは言ってもね。生体の元の持ち主については、すでに委員会が確認した。フリーサイドに、ネイサン・ジョーンズを示す固有波形が見られたわけだから、間違いなくネイサン・ジョーンズはフリーサイドの住人だって分かっているんだけど」

 ならば、あの男が口にしたことが虚構だったのだろうか。だが、そんな嘘をついて何の得があるのか。

「この件は、追って調べる必要がありますね」

「ほとんど都市警の仕事だから、私たちがやることはないけどね。生体の分析も、捜査チームで行うだろうから」

 どこかソフィーヤは冷めた口調だった。あれほどの事件があっても、すべてを突き放して見ている。

「あまり驚かないのですね」

 私が問うのに、ソフィーヤは意外そうな目で見た。

「どうして?」

「平然としていますが、あの本のことを忘れたわけではないでしょう」

 例によって、自殺した男性の家には地下出版『ナツィオへの帰還』が発見されたという。元々銀行員だった彼は、仕事でも家庭でもトラブルはなく、順風満帆に過ごしていたという。その彼が、あの本を持っていたということは、家族も同僚も全く知らなかった。当然、自殺するようなそぶり――悩みを抱えていたり、誰かと関わるのをいやがったり――そういったことは一切なかったということだったが。

「自殺者、あるいは自殺未遂者は皆、あの本を読んでいる。そしてあれの著者の名が」

「阿宮圭ってね。あんたの言いたいことは分かるよ、つまりあんたの腕を折った奴が、ルカの兄を名乗った。その兄ってのが、阿宮圭なんじゃないかってことでしょう」

「何かしらのつながりは疑うべきことかと。偶然の要素ですべての説明がつけばそれでも良いですが」

「でもその仮説にはいろいろと無理があるね。第一、阿宮圭はすでに死んでいる」

「その情報が偽り、ということはないのでしょうか」

 ソフィーヤは手を止めた。私の言ったことを反芻するように視線を宙に漂わせ、しかしそれでも意図を掴みかねるというように、聞き返す。

「どういうこと?」

「データベースへの侵入は、通常の都市住人にはできません。したがって情報の書き換えなどまず不可能でしょう。しかし倫理院の、コードを知っているものならば可能です」

「倫理院だろうと何だろうと、閲覧と書き換えには生体の記録が必ず残る。それだけじゃ何とも言えないよ」

「本当に、データの侵入は可能ではないのですか? その侵入記録を消すことは」

 まるでそれが重大な何かであるような、深刻な目をする。ソフィーヤはそれを口にすることを、非常に躊躇っているようだったが、それでもようやく口にした。

「それは」

 と前置き、それも相当の時間が掛かったように感じた。

「多分出来ないよ。技術的にそれが不可能というわけじゃなくて、行政がそれをさせないからね。ただ、ネットワークをかいくぐることができないわけじゃない。でもそんなこと言ったらキリがないからね」

 ソフィーヤはやがて、馬鹿らしいことだと頭を振った。

「でも滅多なことは言うもんじゃないよ。仮にできたとして、それこそ何の得があるって話だから。ゲリラの手助けする義理なんて何もないし、都市の人間にとって、ゲリラは自分たちの存在を脅かすものだから、手を貸すはずもない」

 ソフィーヤは気分を切り替えるように立ち上がった。大きく伸びをして、それまでの悪い空気を入れ替えるように深呼吸して、

「でもまあ、その男がルカの兄だとしても阿宮圭と結びつくものがなければね。捕まえることができれば、それでも良いけど。でも捕まったところでまた死なれるかもしれないし」

「また、とは」

「ああそうだ、言ってなかったね。悪い方のニュース」

 とソフィーヤは言って、

「あんたが追ってた男、昨日自害したってよ」

「自決ですか? どのように」

 確か、捕縛されたときは猿ぐつわを噛まされ、両手は電子錠で固定されていたはずだった。自害できるような風でもなかったように見えた。

「納得いかないって顔だね」

 ソフィーヤは当然のごとくに私の疑念を感じ取ったようだった。私は何度、彼女に言い当てられる運命にあるのだろうかなどと妙な考えが浮かびながら、

「あの状態で自害とは考えにくいので」

「都市警も予想外だったんだろうね。体の中に毒仕込んでいたんだよ」

「体内をスキャンすればすぐに分かるのでは?」

「粒子のカプセルに毒を封入していた。そいつを気道から肺の内壁に張り付けてあったんだよ。細かいから見落とすんだよね、ああいうのは。体内で爆ぜて、内部に回るのに数秒とかからない」

「そういうものは取り除くことはできないのですか」

「できないってことはない。ただ体の内壁に一体化しているから、発見は難しいけどね。あっちのゲリラは特に、捕らわれたら自決すべきって思っているらしくて、よくこの手の自害を試みる」

 自決の瞬間を目の当たりにした都市警の隊員たちは、さらに深い心理的ショックを受けたのだろう。明日からまたプログラムを作り直さなければならないだろう、と思いながら

「ルカに、そのようなものは仕込まれていないのですか」

「ああ、あの子は平気よ。都市に生活拠点を移してずいぶんになるんだから。それで、ルカだけど面接は明日にやろうと思う」

 この一週間ずっとプログラムに掛かりきりで、今までルカのことに全くノータッチだった。なので彼女の面接自体、どこか現実味が薄れていたが、ソフィーヤはむしろそれこそが主であるべきという口調で話す。

「急ですね、また」

「前の面接から十日は経ってるよ。時間を置きすぎると、あの子の心も変わる」

 それに、とソフィーヤは口にしかけたが、言うべきか否か迷った挙げ句黙り込んだ。しかし言いたいことは分かった。もうルカには、あまり時間がない。機械細胞の進捗状況によっては、彼女はすぐにでもフリーサイドに送られることとなる。そうでなくとも議会は、フリーサイドへの規制緩和を進めている。

「それと今度の面接は、あんたがやりなさい」

「私が?」

 まったく予告なしにそう言われると、少しばかり面食らう。私が次の言葉を探していると、ソフィーヤはあきれたような口調になる。

「何驚いてんの。あんたがやりたいって申し出たんじゃない」

「それはそうですが、こんなに急に来るとは思いませんでしたので」

「しっかりしてよ。まあ余計なことを喋らなきゃそれでいいから。あと、あんたが会った男については」

 とソフィーヤは、立体映像を再び現出させ、

「今はまだ言わない方がいい。ネイサン・ジョーンズについては、ルカとの関連を調べてはみるけど、ルカには余計なことは言わないように」

 余計な情報は伝えず、当たり障りのないことだけを言うように。一見すればこちらの都合の良いことしか並べない、詭弁のようでもあるが、時にはそれが必要なこともある。

「分かりました、ドクター」

 倫理規定にも、何ら違反しない程度の隠蔽。全て納得ずくのことだ。

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