13
白と透明。彼女の座る椅子と、向かい合ったガラスのテーブル。彼女の衣服と、飾る物のない診察室と、誰も踏みしめたことがないのではと疑いたくなる床の色の、目に刺さる白の中に、彼女の髪が際だつ。黒い髪自体は珍しいものではないが、彼女のそれは少し違って見える。他の色の、一切の介在を許さないという風情の漆黒を、髪の繊維に織り込んだかのような濃い色だった。他に手を加えない髪を、ただ自然に流れるままにしている。彼女の幼い横顔にかかる、深い墨の色。
ソフィーヤはガラス机を挟んで、ルカと対峙している。今日はガラス基盤の簡易端末は持たず、その端末は今私の手の中にある。中の会話はすべて記録することになっており、同時に絶えず彼女を監視する都市警からの通信も端末に入る。
「傷の様子はどう?」
ソフィーヤが問いかけるが、カプセルに入って傷が残るということはまずあり得ない。首の傷だけでなく、腕の古傷も、すっかり治癒していた。おそらく、自傷行為でつけた傷は、専門家ではなく応急処置を重ねていたから残ってしまったのだろう。
ルカは自分の腕を抱えるようにして体を丸めていた。刺すような視線が見上げてくるのに、ソフィーヤはあくまで微笑を崩さない。
「この間、私がいなかったばかりにとんでもないことになっちゃったね。あんなことになったから、もう来てくれないかと思ったけど、今日来てくれた。それだけでも十分よ」
「誰かにそう言えって、言われたんかよ」
随分敵意むき出しなルカの云いに、ソフィーヤは肩をすくめた。
「まさか。私は一度も誰かの指示なんて受けていない。あなたの言うように通信も切ってあるし、私に指示をするようなものは何もないわ」
「そう言い切っても、私は確かめようがないけど?」
「そうね。それはあなたに信用してもらうより他ないわね」
ソフィーヤは苦笑し、ルカはやはり視線をゆるめず、睨んでいる。その様子を私はガラス越しに見ていた。
「こんなことで」
背後で声がして、振り向くと9の厳つい顔がいきなり間近に迫ってきたのに、私は少し狼狽してしまった。
「何故ここに」
「監視すると言っただろう」
9はガラスの向こう、ソフィーヤとルカのやりとりを見ていた。音声はこちら側に届くが、こちらの姿は見えないようになっている。私は慌ててスピーカーを切った。
「お前は向こうに行かないのか」
「最初の一回はそうだったのだが。ドクターが、本来カウンセリングは一対一だと言うのでね。あんなことがあった後で、二対一の面接は心理的な負担が強いと」
「面接か」
アルファ9が馬鹿にするように鼻を鳴らすのに、私は少しばかり納得しかねた。
「何がおかしい」
「いや、こんなことで何か変わるとは思えなくてな。脳神経回路にプログラムを与えてやれば良いものを」
「それができないから、こうして原始的方法をとっているのだろう」
こいつは何か説明を聞いたのだろうかと疑いたくなる。
「都市警は、ゲリラのことしか頭にないのだろが」
「ゲリラのことではない、都市全体の治安維持のためだ。たとえば読んだだけで自殺の衝動に駆られる本と、その巻末にある著者の名前」
「ルカは関係ない、と言っているだろう」
「それを判断するのも、我々の仕事だ」
まるで私やソフィーヤにその権限はないと、遠回しにそう言っているようにも聞こえる。反論しても、同じように否定されるのだろうと予測し、私は再びガラスの向こうに目を落とした。ルカは何もしゃべらず、ソフィーヤも無理に喋らせようとしないので、診察室には沈黙が流れていた。
「あんなことで」
と9が言って、
「どうにかなるとは到底思えないがね」
「お前たちが暴力の専門なら、こちらも精神医療という専門がある。なかなか互いの仕事は見えづらいものだ、マクガイン」
彼は一度無視した。というよりも聞き逃したのだろう。私がその名を口にしたことに気づくまでに数秒かかった。
「あ?」
「マクガイン。そう呼ばれているのだろう。名前など不要だとのたまっていたお前が、随分な変化だ」
9――マクガインは、不愉快極まりない様を、鉄の面に押し込めるのに精一杯らしかった。非常に長いこと激情をかみ殺し、ようやく理性が勝ったらしい。静かに言ってのけた。
「チームの人間が勝手に呼んでいるだけだ。俺が名乗ったわけではない」
「そんなものだろう、パーソナルネームというものは。私も似たような状況だ」
「何故、貴様と同じくされなければならんか」
彼――マクガインは、苦々しく吐き捨てた。
「心理プログラムというものは、カウンセリングの論理療法を元に設計されている」
私が切り出すのに、マクガインは不意を突かれたらしく、あわてたように聞き返した。
「何だと」
「先ほど面接が役に立つのかと訊いたが、プログラムは脳波を測定し、クライエントの何が彼の障害になっているのかを分析する。家庭のこと、仕事上のことなど、とにかく本人が抱いている非合理な固定観念というものを、回路から読み取り、それを変えるための行動を提示し、合理的判断へと導く。そういう手順を踏むわけだ」
「行動規範をそのまま脳にアップデートするわけではないのか」
「それは洗脳に近い行為だ。あくまで本人の意志を尊重するために、感情を押さえつけている固定観念を崩す、そのための思考変換を促すというものだ。本人の意志と関係なく社会的倫理的人道的思考を植え付けることは、たとえ倫理のためとはいっても禁止されているからな、診察には事前に別のプログラムが組まれる。リレーションといって、緊張を解きほぐしてプログラムとの融和を目指すものだ。本人にとって、一番心地よいと感じる波長と脳波を同調させることで、クライエントがリラックスする状況を作り、抵抗無くプログラムを受けられる心理状態に持っていく」
「よく分からんな」
目下、マクガインは興味を抱くには至らないらしく、義務的に訊くことで退屈を紛らわせている。私にはそう思えた。
「プログラムは今のプロセスでクライエントの心理負担を取り除く。だがルカの場合、そうしたプログラムを受け付けようとはしない。リレーション・プログラムすら、脳波と同調せずに拒否している。そうなると言語による面接によって、彼女の非合理な固定観念を見つけてそれをうまく行動変換させてやらなければならないのだが、そこに至るまでが大変でね」
「そりゃあ、自殺までされるぐらいだからな」
マクガインは皮肉のつもりだろうかそう言って
「そこまで強固な観念に縛られているならば、いっそのことお前の言う、洗脳に近いことであっても施せば良い。あの娘が死にたがるうちは、強制的な手段もやむを得ないだろう」
それがどういう意味であるのかをまったく考慮しない物言いに辟易する。都市警というものは、全員同じ考え方なのだろうか。人道のため、多少の暴力の行使を許された、数少ない存在であるがために、与えられた思考というものも暴力の匂いを纏っている。
「お前の好む施設は、ここにはないな。厚生施設なら多少の強制性は認められている。強固なイデオロギーを持っていると判断された者が行くところだ。ルカの場合、一般の都市生活に溶け込んでいたから、そのようなイデオロギーはないと判断されていたのだが」
「しかし、今はそうではないと」
マクガインは、全て悟りきったかのような声を出す。
「ルカの自傷癖は心的要因でなく、もしかするとゲリラのイデオロギーかもしれない。そうなればここではなく、厚生施設で処置する方が望ましい。フリーサイドを忌避し、自らを傷つける固定観念も、イデオロギーありきなら強制執行もやむなしとなるだろう」
ちょうどソフィーヤとルカの面接が終わる頃だった。一度の面接で三十分かけても進展がない場合は、そこで打ち切ることになっている。カウンセラーが時間を引き延ばせば、クライエントの心理的負担をかけると判断されるためだ。
「集団を離れて、都市の中に入った者が、果たしてイデオロギーを維持しつづけることができるのか疑問だが」
マクガインは座ったまま動かないルカを見て言った。
「だいたい、あの娘の自傷行為はいつからのものなんだ」
「いつ、というと」
「あの娘、両親はフリーサイドに行ったのだろう。その前からずっと自殺未遂を繰り返していたのか」
「そのようだな。自傷行為について、何度かプログラムを受けたことはあるようだが、うまくいかなかったようだ」
私はあらかじめ回路に蓄えた情報を告げた。治療を行っても、その数日後にはいきなり手首を切ってしまう。彼女が自らを傷つけるなどと毛ほども思わないスタッフたちの目を欺き、尖ったものや鋭利なものを見つけては体を傷つけていた。記録にはそうある。
「もっとも、これほど頻繁に傷つけるようになったのは、彼女が取り残されてからだ。その原因を、探っている」
「あんな何の進展もないやり取りで何がわかるものかね」
「それを言われると、なかなかつらいものがある」
ガラスの向こうが暗転した。部屋が暗くなったのではなく、ガラス壁そのものが暗くなったのだ。色彩変動の分子が定着されたガラスは、電位信号によって光の反射度合いを変化させる。透明から黒へと変異したガラス壁が完全にルカの姿を覆い隠したのをうけて、私は向き直った。
「もし本当にイデオロギーの可能性があるなら、上海と手続きする可能性があるが、やはりそこでも監視するのか」
「当然そうなるだろう。阿宮圭とのつながりが分かるまで。もし何のつながりもなければ問題はないのだが」
「死んだ人間に、そういつまでも執着するものでもないと思うがね」
「馬鹿を言うな。いくら奴が死んでいるからといって、ゲリラにつながるかもしれない手がかりだ。見過ごすわけにはいかない」
都市警というものは皆同じ事しか考えていないらしい。これで倫理規定が同じだと言われても疑念しか抱きようがないが、それはソフィーヤの言うところの「優先順位が違う」ということなのだろうか。そのようなことを考えていると、空気圧力の扉が開く音がした。
「入るよ」
とソフィーヤは何の遠慮もなく部屋に踏み込み、勝手に椅子を引き寄せて座る。心なしか、疲労の色が見えた。
「進展はありましたか」
「見てたんならわかるでしょ。何も収穫なしよ、あの子相当手強い。昔取った杵柄じゃ、手に余るわ」
「イデオロギーの片鱗は」
「今の段階じゃ何とも。だいたいカウンセリングって、向こうから何か悩みがあるから相談しにくるのであって、こっちからアプローチするものじゃないからね。無理矢理聞くとそれはそれで相手に敵意を抱かせちゃうから」
「犯罪者への」
いきなり、マクガインが割って入った。
「カウンセリングもかつて行われた、と聞くが」
ソフィーヤ、まるっきり今気づいたという様子でマクガインの方を見やる。思い切り迷惑そうなしかめっ面を張り付けて、
「あら、失礼。ユーリの同僚だったわね、あなた。ええと、マクガインといったっけ」
「それは正式な名称ではない。私のことは――」
「番号だとすぐ忘れちゃうのよね、私。9とか12とか、そんなもの人に覚えさせる気なんてないでしょ、それ」
責めるような口調で言われても、ナンバリングは自ら好んでつけたものではない。そもそも、拡張視野には常に相手に関する情報が送られているのだから、それを以て「覚えられない」ということはない。覚える必要がないのだから。
ソフィーヤはマクガインと目を合わせず、スクリーンを開いて
「でもマクガインって珍しいよね。名前じゃなくてそれファミリーネームじゃないって。都市警には名前のセンスに欠ける奴しかいなかったのね。私ならもっと良い名前つけてあげるよ。どう?」
「遠慮しておく」
マクガインは全て諦めたというように息を吐いた。
「そう、残念。私結構得意なんだよ、名前考えるの。で、何だっけ。あの子が犯罪者だとか今言ったけど」
「あの娘がそうだというわけではない。犯罪者のカウンセリングにも用いられるのだろう、その論理療法というものは」
「あの子は何の罪も犯していないよ」
「自殺未遂を犯した」
「自殺は罪じゃない。望ましくはないけど、法として裁かれる類のものじゃないよ」
「だが、人道上認められるものではないだろう。罪でないにしても、許されることではないものであるはずだ」
「やめてよ、カソリックじゃあるまいし。そういう古い時代の教義は当てはまらないんだよ、この場合」
「だが、お前たちは自殺しようとした彼女を説得しようとしている。もし罪でないならばそのまま死なせればよいのにだ。それは自殺を罪だと認識しているからではないのか」
ソフィーヤは特に不機嫌そうではなかったが、水面下ではそろそろ本格的な論争に発展させてやろうと。そう思っているかのような、気配がした。
「次の面接はいつ頃に、ドクター」
本格的な論争になる前に、私が訊くと、ソフィーヤは向き直り
「とりあえずまた一週間後。あの子の固定観念が何なのか知るためには、もう二、三回は面接しないとね。何にせよそれが分からないことには。それらが分かった後に、あんたに徐々に渡していくからそのつもりでいて」
それはつまり、私が面接を行うということだ。自ら願い出たこととは言え、改めて聞かされると、自分がそれだけ大それた事をしようとしている。そう認識させられる。だが彼女は至って平然と言ってのけた。
「別に気負うことはないよ。私もサポートするし、やっているうちにできないことがあればすぐに代わる」
ソフィーヤは言い終わるか終わらないかのうちに時計を見て――年代物のアナログ時計を彼女は好んで身につける――席を立った。
「私はこれから委員会に報告に行かなければならない。ちょっと遅くなるから、今日はこの後あがっていいよ」
気づけば五時まで、あと三十分少々といったところだった。ソフィーヤは慌ただしく荷物をまとめ、部屋を後にした。
「報告など、必要あるのか」
マクガイン、ソフィーヤの後ろ姿を見送りながらつぶやいた。
「逐次報告の義務がある。何せ診察室はネットが切られた状態にあるからな」
「何故そのようなことを」
「クライエントの希望だ」
果たして私は、渋面と向き合う羽目となった。マクガインは不可解なものを見るように、実際に不可解だったのだろう、侮蔑すら浮かべた眼差しをしている。
「そうやって患者の言うことをいちいち間に受け、相手の言いなりになるのがカウンセリングというものなのか。恐れ入る」
「相手のやることなすこと全て否定してかかるお前たち都市警よりは、平和的だとは思わないかね」
不愉快さに拍車がかかった様子で、マクガインは怒りすら籠もったように表情を強ばらせた。
「ともかく、その一週間」
とマクガインは踵を返し、
「監視を続けるからそのつもりでいろ」
「それは良いが」
マクガインは早々に切り上げたがっているようだったが、これだけは言っておかなければならない。
「今日はたまたま会話を聞かせることになってしまったが、次からはそうはいかない。この中に立ち入ることは遠慮してもらう。やり取りを見ること、聞くこと、まして口を出すことはクライエントに悪影響を与える」
「それはお前たちの都合だ。我々には我々のすべきことがある。当然だろう、あの娘がゲリラに通じている可能性がある限り」
「そんな証拠はどこにもないだろう。何らかの手段で通じていたとしても、それと彼女のケアは別物と捉えるべきだ」
「何もあの娘を直接尋問しようというものではない。面接そのものに口を出すわけではない、ただ記録は見せてもらう」
「重大なプライバシーの侵害だ、それは。都市警といっても、そんなことは許されないはず。倫理規定に反しているではないか」
マクガインの威圧感に耐えつつ、私はさらに告げる。
「もし、彼女がイデオロギーを持っていて、厚生施設に移すとなれば、そこでどうするかはお前たちが決めると良い。だがここはまだ厚生施設ではない。ここではここのやり方に従ってもらう。いいな」
マクガインは最後まで硬い表情を崩さなかった。やがて渋々といった様子で了承の意を告げた。
「いいだろう。そちらの言うことは全て本部に伝え、その上で了承が得られたらそうする」
マクガインは、仕事が残っていると言って、部屋を出た。
私はスクリーンを呼び出し、診察室の様子を見た。当然のことだが、ルカは既に退出し、おそらくは今病室に戻っていることだろう。あと一週間か、もしくは一月後か。今見ている診察室の中央、ガラスのテーブルを挟んで私とルカが対面する。本当にそのときがくるのか分からないが。彼女がゲリラのイデオロギーを持っていれば、ここではない上海に移されることとなる。
もしくは、このまま何の進展もなければ――フリーサイド孤児を救うため、委員会では議論が割れている。ルカが両親のもとにゆく、そのための一切の手続きが簡単なものとなれば、彼女はフリーサイドに行くだろう。イデオロギーの発覚が先か、法案が可決されるのが先か。どちらにしても私が直接彼女と面談する確率は低いと言わざるを得ない。
私がそこに座ることはない。そう確信めいたものがあった。スクリーンを閉じたところで、退出時刻が迫っていることに気づき、私は部屋を出た。