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ルカが収容されたカプセルは、およそ成人男性一人分のスペースが確保されている。やや彼女の身の丈にあわないその中に、呼吸補助の酸素溶液が満ち、医療ナノボットと蛋白分子が溶け込み、傷病と病巣の破壊、すべて患者の細胞周期にあわせつつも短時間で治療させる。ヒトの子宮じみたバイオプラスチックの内部に、さしずめ羊水のように浸り、回復を行う緊急治療の器。
彼女がその中から目を覚ましたのは、首筋に金属を突き刺してからおよそ十三時間後のことだった。
「よく眠っていたよ」
私が声をかけると、まだ乾ききらない髪を撫でながら彼女が睨む。衣服や膚を濡らした溶液は、カプセルから放出されたとほぼ同時に乾燥されるのだが、なぜか彼女の黒い髪は濡れたままで、艶めいた黒をさらに濃くさせていた。
「私は基本的に緊急対応のマニュアルは熟知している。それでも、不測の事態ということはいつでも起こりうるが、今回はさすがに驚いたよ。私がいないときを見計らって、あんなことを?」
「あんたがいたら」
彼女は敵意たっぷりという様子で言った。
「その場では刺せなかったから。あの女なら、騙せたからよかったけど」
「彼女に食事を要求したんだね」
もし自ら食事を摂りたいと願い出る者がいたらどうなるか。自殺願望を持っていると知っていたとしても、自ら生きる意志のようなものを示されたら従うかもしれない。そこに凶器が添えられているのだとしても、だ。診察室は倫理ネットに必要なナノボットが少なく、ルカの自殺衝動を読みとることが出来ないと、全て知っていてルカは食事を欲したのだ。
「手の込んだやり方」
彼女は私の思いを知ってか知らずか、薄く笑みを浮かべた。
「って思ったでしょ。この女、やり方がせこいって」
「そんなことはない」
うまいやり方である、とは思ったが。
「けれど、次からはやらないでもらいたいとは思った。君の要望で倫理ネットと脳波測定を切っているんだ。だから私の方からも願いを聞いてもらいたい」
「何だよ、死ぬなってか」
「私は基本的に、君の意志を尊重する。けど、何も言わずにされるのは心苦しい。だから工作じみたことをする前に、一言声をかけてもらいたい」
なるべく、命令するような言い方は避けたつもりだ。死ぬな、とも生きろ、とも。こちらから固定観念を植え付けることは、今後の面接にも影響が出る。
「心にもないことを……」
彼女はぽつりと呟いた。
「あんたらだって、どっかで私のことを馬鹿にしている」
「馬鹿になどしていない」
「じゃあ何で、私の好きにしたらあんたたちは、そうしちゃいけないって言うんだよ」
ルカの言うところの「好きにする」とは、自らの体に傷をつけ、血を流し、絶命たらしめることであり、それをさせない十分な理由というものはもちろん存在する。生命を守ることが役割である我々が、自死を見過ごすことなど、あってはならない。
しかし、ここで無用な議論は避けたいところだった。非合理な信条を非合理と指摘することは簡単だが、それはソフィーヤの言うところの「襟元を開いてもらう」ことにはつながらず、ますます意固地になることは必至だ。
「今言ったように、私たちは君の意志をねじ曲げるつもりはない」
「こんなモンにぶち込んで」
とルカは、医療カプセルを叩いた。
「よくも言えたもんだね。こんな施設も、面接も。私が一言でもやってくれ、って言ったわけでもなしに。こんな」
ルカは自分の両腕を抱え、それがいかにもおぞましいものでも見るかのように目を背けた。彼女の指が、膚を掴み、爪が食い込むほど強く握り込んだ。
「こんな、誰も頼んでないのに、勝手をして訳の分からないもん植え付けてまで」
「それは一時的なものだ。本来ならば、その機械細胞は傷の修復に充てられるものだから、恒久的にそのままというわけではない」
本来ならば、だ。機械細胞が元ある細胞を食いつぶさないように、成長因子は欠落されている。元々が本人の遺伝情報を読みとったものなので、本人の細胞と共存は可能なはずだが、それができないことに問題がある。
「私が死なないことに、あんたらにどれだけの得があるんだよ」
ルカは、憎々しげな声音でそう言う。私はなるべく、彼女を刺激しない言葉を選ぶ。
「メリットやデメリット、ということならば多分両方得られない」
「じゃあほっときゃいいじゃん。何で余計なことすんのさ」
「君が養子になったとき」
そろそろ網膜裏の時刻が、休憩時間の終了を告げてくるのに、私はやや早口になった。
「都市にとっても、君を引き取ったオベール夫妻にしても、おそらくそのようなことは考えていなかったと思う。あくまで推測だけど」
「推測なら勝手なこと言うなよ。あんた、分かっていないなら勝手に分かったつもりになりやがって」
敵意そのものという様子で、ルカは食ってかかった。刺激すまいと思っていたのに、どうやら地雷に触れてしまったようだ。それでも黙し、何も話さないよりはマシなのかもしれない。多くを語ってもらえるなら、少なくとも脳波測定が出来ないのであれば、それが彼女のことを知る唯一の手段だ。
「では君は、誰にも干渉されたくなかったのかい」
私が訊いても、彼女は目を伏せたままだった。
「機械細胞は君の生命を守るため。養子のプロジェクトは、君の身を守るため。でも君はそれが不快だったのかい。オベール夫妻のことにしても」
彼女は考えていた。私の発した意味を、おそらく噛みしめているようだった。もっとも、彼女自身がどう思っているかなど、知る由もない。改めて倫理ネットの利便性を思い知らされる。
「帰ってよ」
ルカはやがて、短く呟いた。か細く鳴いた、精一杯の抵抗であるかのようだった。
「来週の木曜日」
私は入り口の電子錠を開けた。
「また診察室で待っている」
待っている。その表現が意図せずに出たことに、改めて驚く間もなく、電子扉が私と彼女の距離を断った。
業務を終えた後、本来ならばまっすぐに帰らなければならないのだが、私はもう一つやることがあった。散々無理して残業の申請を行い、ストラウスが渋々許可を下ろしたのが業務終了から三十分後のこと。
「一時間だけだ」
と念を押したのち、ストラウスは所長室に戻った。あまり遅くなれば、彼の帰る時間も遅くなる。それは他者の権利を侵害する行為でもあるので、本来ならば望ましくない。もちろん、それは心得ているのだが、何せ業務時間内では調べ得ることではない。ゲリラの情報など。
中央制御室は、特にナノボットの密度が濃い。普段は数十人というオペレータが詰めかけているドーム構造の制御室の中央に、天球を象ったようなオブジェが天井から吊られている。よく見ればそれはオブジェではなく、ナノボットの発生器であることが分かる。シェン・リーが生まれた公共遺伝子プールにも出資した、医療ナノボット大手のソンギル・コーポレーションの片翼を象るロゴマークが確認出来る。その天球を中心に、簡素な椅子が放射状に並んでいる。
その一つに腰掛ける。空間をなぞり、神経接続を開始する。中央の天球が青白く光り、それに呼応するように粒子が凝縮してスクリーンを現出させる。もう一つ、空間に現出させ、私の目の前にはスクリーンが計三枚、現れた。
スクリーンの一つに振れ、検索用の画面を呼び出した。
阿宮圭。意図せず、指を動かすと、脳内回路に蓄えられた文字情報が浮かび上がる。もう一つのスクリーンに、情報の文字列が浮かび上がった。
東アジアのゲリラ。情報によると、極東の都市外縁に暮らしているらしい。民族主義を強固に唱え、とっくに廃れた君主を祭り上げている。数ある民族派の中では、イスラム勢力に次いで危険度が高い。
否――イスラム勢力はまだ科学的考察を用いているのに対して、東アジアのゲリラは完全な宗教的狂信者であるという。三、四人の専門家の意見を拾ってみたが、おおよそそのような評価だ。
阿宮圭は、その東アジアゲリラの一員であったらしい。十年前の紛争で捕縛され、そのとき彼は十五歳であった。まだ若いということで、厚生施設に送られたが、その翌年出奔。二年後に遺体となって発見され、北京の共同墓地に埋葬された――。
情報は、それだけであった。血縁関係なども、どこにも記述はされない。最近の更新でも「ナツィオへの帰還」についての言及はなかった。人権委員会が、意図的に記述を削除したのか分からないが、ともかく彼についてはそれ以上知る由もない。
今は死亡している、ということはあの本は彼の死亡前に書かれたものであるということになる。つまり彼が少年であったときのもの。それが今更何かの影響を及ぼすとは考えにくい。人権委員会も、そのように判断しているのかもしれない。だから、一応の検閲をかけてはいるものの、阿宮圭という著者名を消さずにおいているのだろう――そう考えると、急に脱力がおそってきた。わざわざ残業を申請した意味も、全て無かったようなものだ。
私はスクリーンを閉じた。中央の天球が再び沈黙する頃には、十七時二十分を回っていた。それほどの時間をかけずに済んだのは、喜ばしいことであろうが、あまりにも得られた情報が少なくて残念でもある。ともかく私はストラウスに終了を告げ、帰ることとした。駐車場に停めた水素車に乗り込み、エンジンをかけた瞬間、ふと思う。
阿宮圭が少年の頃に書いたにしても、あの本がイデオロギーに満ちたものであることは間違いない。ルカが、阿宮圭と血縁であろうとなかろうと、彼女もまた東アジアの出身だ。彼女自身がイデオロギーに毒されているのかどうか。そうなれば、やはり施設に行くべきなのか。
来週にはソフィーヤに報告しようと決め、私はアクセルを践んだ。